解答編


八 狂心と舞台


「終わったみたいだな」

 木崎が揺れる照明をじっと見て言った。地震が終わったという意味なのか、それとも僕たちの正常な友人関係が終わったということなのか、と僕は皮肉に思う。

 僕の考えが正しければ、最早何もかもが壊れている。正常なのは、僕とミサだけ……。

 いや、それは違う。僕もミサもきっと狂っている。世界は狂ってしまったんだ。そうだ、まるで現実味がない。何もかも。僕自身。黒井ミサ。不動久遠。不動久遠。不動久遠。

 なぜ彼女は死んだ? 脳裏から離れない疑問。なぜ殺されなければならない? 動機など、どうでもいいはずなのに。離れない。離れない疑問。なぜこんなにも僕は彼女の死に近づく。謎があるからか? 違う、謎なんてない。全て、僕は解っている。ここは舞台だ、作り物だ、こんなにも現実味がない。現実味がない。

「阿良木君、さあ、全部教えて。全部理解して」

 ミサの声が耳朶に響く。脳が震える。組み上がったばかりの論理がゆらゆらと陽炎のように揺れる。

 黒井ミサ。そうだ。彼女こそ最も現実味がない。誰だ、君は誰なんだ。

 リリス――彼女がその名を口にしたときの唇の動きが脳内で何度も再生された。なぜか、僕は急激に虚無感を覚えた。

「世の中の関節は外れてしまった」

 続きの台詞は腹の中で泡と消えた。僕はその関節を直せない。

「世良田、君が犯人だ」

 僕は無気力に指差した。嗚呼、眩暈がする。早く、終わらせなければ。もうこの場にはいたくない。

「なぜ、そう言えるの」

 世良田は冷静に返す。僕は問に問で返す。

「なぜ、そんな台詞を言う」

「勝手に犯人にされて納得するはずないでしょ」

 怒りの表情で、彼女は僕を睨みつける。造り物の顔だ。正気じゃない。だって、彼らは、誰が犯人で何が起きたか、知っているのだから。

「推理して、さあ」

 猫のような目を向けて、ミサが腕に絡みついてくる。僕は、台本を読むように、それに従う。

「久遠は、彼女は濡れた靴とソックスを履いていた。それは雪が積もってから倉庫に向かったからだ。そうでなければ足が濡れる機会はない。つまり、彼女は雪が降る十九時の時点では生存していた。積もった雪に残った足跡は新たに積もった雪で掻き消えた」

 僕は段々と心の温度が下がっていくのを感じた。何もかもが空虚に感じる。何か、形容し難い冷たい灰色の塊が、まるで雪のように胸に積もっていく気がした。

「今朝、九時に全員が集合した。これ以降の殺人は不可能だ。殺人は昨夜十九時から今朝九時の間に行われた」

 胸に積もる見えない空虚な塊は段々と体を重くする。これから埋められようとしている死体のようだ、と僕は感じた。

「次にアリバイだ。まず僕は今朝六時まで常に三人以上の場所にいた。それ以降は通話記録が証明してくれる。次にミサだ。彼女は僕とほとんど一緒にいた。唯一離れた六時から八時の所在は……境と世良田ならよく知っているはずだ。彼女も犯行は不可能。そして、境は六時まではラウンジで僕やミサと話していた。六時以降は世良田と一緒にいる。その世良田は境と同じく六時以降のアリバイがある。しかし二十一時にラウンジを出てから六時までは一人だ。同じく二十二時半頃にラウンジを退室した木崎も一人だった。木崎の場合は今朝九時までの全ての時刻でアリバイがない。まとめると、久遠を殺害する機会があったのは世良田と木崎だけということになる」

 僕は全員を見渡す。異論は上がらなかった。

「続けてくれ」

 境が静かに促した。白々しい、彼も間違いなく真相に気づいているはずだ。この殺人は、そもそも難解な部分など存在しない。

 眩暈が一層強まる。先程の地震の揺れと自分の眩暈との区別が、全くつかなかった。体の重みが、脚をふらつかせる。

「続ける必要はない。結論は出た。久遠の首にはしっかりと両手で絞められた痕が残っている。両手で首を絞められる人物は、世良田しかいない。左手の指を骨折している木崎には不可能だ」

 僕はそれだけ言い切ると、糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。

 混沌とした靄の中に、意識が沈み込む。深海生物のように、意識の海の暗い深層に漂う。虚構地味た世界の晦冥の中に。

「決を採ろう」

 薄れゆく意識の中で、境の冷静な声が反響した。



九 天使と悪魔


 湖風が石畳の参道を抜け、初女神社に続く階段を吹き上がる。僕は風に呼ばれるように振り返る。随分と高い。参道と夕陽が一直線に続く。光が帯となって、七十七段の階段に灯を燈す。太陽は、巨大な輝きを伴い湖に沈みゆく。この町に影が落ちるまでに、この鬱屈は晴れるだろうか。

「もう起きても平気なんだ?」

 僕は洛陽に背を向け、彼女を見る。闇を帯びた光が照らす最上段に、黒井ミサは人形のように腰掛けている。彼女の頭上には大きな鳥居。初女神社は、この町の神社であり、そして彼女の神社だ。

「ああ、色々と冷静になれたよ。別荘では酷く混乱していた。もう大丈夫だ。全て、呑み込んだつもりでいる」

 実際のところ、別荘での推理には不十分な点が多かった。

「そう。じゃあ、少しだけ聞かせて。あの日の続き。阿良木君の推理」

「解った。だが、それが済んだら、君に訊きたいことがある」

 彼女は頷いた。僕は、彼女の隣に腰掛けた。

「世良田さんはやっぱり不動さんを殺した犯人なの?」

「そうだ、彼女はきっと自分で割ってしまったワインボトルの代わりを、倉庫に取りにいったんだ。そこで久遠と遭遇し、彼女を殺した」

「じゃあ結局、四筋の足跡は何だったの?」

「足跡が四筋あることは大いに問題だ。だが、元を正せば、足跡よりも久遠の足が濡れていたことがやはり問題だよ。この事実と、彼女の衣服の乱れ、土汚れ、そして右足首の怪我、これらが示す結論は彼女が強姦されたということだろう」

「つまり、不動さんは雪が積もる前に森で犯された。その際に足を痛めた。森から出る前に雪が振り始め、彼女は町へ帰ることを諦めた。町よりも別荘の方が近いから。しかしそこで助けを求めれば自分が犯されたことを明かすことになる。彼女はそれが嫌で開いていた倉庫に身を隠した。雪と寒さを凌ぐために。どう? 合ってる?」

 ミサはなぞなぞを出された子どものように楽しそうに言う。それが合っているかどうかは、僕には判らない。しかし合理的な解釈ではある。

「仔細は未詳だが、おそらく大筋はそうだろう。そして合理的に考えて、その場にいた可能性が最も高いのは境だ。まさか赤の他人が別荘の近くで彼女を犯すとは思えない。傍証として、定刻になっても境はまだシャワーを浴びていた。痕跡を洗い流すためだろう」

「境君が犯し、世良田さんが殺した」

 ミサは言う。結果だけ並べればそうなる。

「足跡の問題に戻ろう。まず世良田が殺人のために別荘と倉庫を往復したことは間違いない。その時間帯は深夜三時前後だ」

「なんでそう言い切れるの?」

「それは僕たちが捜査をしてラウンジに戻ったときの地震で、世良田のスマホから緊急地震速報のアラートが鳴ったからだ」

「何か関係あるの?」

「それよりも前に、ほぼ同じ場所で同じ規模の地震が起きている。それが深夜三時の地震だ。彼女と同じ機種のスマホである僕のスマホは緊急地震速報を受信していた。つまり、アラートの設定さえしていれば、あの時スマホからは大音量のアラートが鳴っていたはずだ。しかし、別荘でアラートが鳴った人物はいなかった。あの時は全員がアラートの設定をしていないだけだと思っていたが、二回目の地震ではしっかり世良田のスマホは速報のアラート音を流している。仕切りのない別荘内で、あのけたたましいアラートが鳴れば気づく。逆に、倉庫は悲鳴を上げても届かないであろうほどには別荘と離れていた。つまり、あの時間世良田は客室ではなく倉庫にいたはずだ。足跡は倉庫に向けてのみ伸びていたのだから」

「なるほど、じゃあこれで二筋の足跡は世良田さんが三時に残した往復の足跡ってことね」

 ミサは納得の表情で微笑した。朱みを帯びた光が彼女の横顔を仄かに照らす。コントラストが際立つと、彼女の顔の造形は僅かに西洋を感じさせる。

「あとはパターンの問題だ。三時以前に足跡が既にあった場合となかった場合。アリバイからして足跡の主は世良田か木崎だ。この二つの条件の組み合わせのいずれかが真実ということになる」

「足跡が残っているということは、雪が止んだ二十一時過ぎ以降深夜三時までと、三時以降九時までの二パターンね」

「そう。だが、組み合わせを検討する必要はない。世良田が妙なことを言っていたのを覚えているか?」

「妙なこと?」

「外部犯の可能性を確認してきたときだ。彼女はこう言った。『もし犯人が彼女の脱いだブーツに雪を入れていたら?』と。世良田は死体発見時、木崎に止められて死体を見ていない。だが彼女は久遠が使用していた履物がブーツであることを知っていた。しかもそれが脱がれていたとも言った」

「それは濡れた靴は普通脱ぐからじゃないの?」

「だが、実際の死体はブーツを履いていたんだ」

「どういうこと?」

「世良田は、久遠がブーツを履いてここに来たことを知っていた。殺人を犯したときに見ていたからだ。だが、久遠がブーツを脱いでいたと記憶している。ブーツのことは記憶しているのに、履いていたか脱いでいたかは忘れてしまったのだろうか? いや違う。そもそも君の言ったように濡れたブーツは脱ぐだろう。だから、世良田の記憶は合っている。世良田が殺人を犯した時、死体はブーツを履いていなかったんだ」

「でも、私たちが見た死体は、ブーツを履いていた」

「すなわち、世良田よりも後に倉庫に向かった人物が死体にブーツを履かせたんだ。これで、残ったもう二筋の足跡は世良田の犯行時刻である三時よりも後、九時までの間ということになる。もし世良田が三筋目、四筋目の足跡を残したとするならば、死体にブーツを履かせた人物がいなくなってしまう」

「世良田さんがブーツを履かせにいく意味はないし、ブーツを履かせ直したなら発言とも矛盾する。だから、それをしたのは木崎君ってこと?」

 厳密には、ブーツについての発言は単なるミスかミスリードで、世良田が二度別荘と倉庫を往復したのであれば、木崎はこの事件に一切関わっていないことになる。しかし彼女が二度も往復する合理的な解釈は難しい。例えば何らかの物的証拠を残してしまい、それを隠蔽する目的があったならば、足跡を乱したり死体を倉庫の裏にでも隠したりすれば、発見や捜査を遅延できた。

 となれば、別の目的で別の人物が倉庫を訪れ、副次的にブーツは履かされた。そう解釈した方が無理がない。しかし、これについては最後まで明確な結論は出ないだろう。犯人の視点でその犯行を観測できない限りは、

「動機は僕が与り知るところではないけれど、そういうことだろう。彼にとってどんな意味があったかは解らないがな。それに、木崎が倉庫に向かった理由なら少し想像がつく。木崎の指の怪我は世良田のスマホが出した音に驚いて車のドアに挟んだ怪我だと言っていたな。あれはもしかしたら緊急地震速報の音だったんじゃないか。もしそうならば、木崎だけは三時の時点で世良田の不在に気づけたことになる」

「世良田さんが深夜に外に出ているのが気になって倉庫に行ったってこと?」

「倉庫に行ったのは少なくとも六時以降だろう。僕たちの捜査の時点で西翼の裏口は開かなくなっていた。無理に開けたら痕跡が残るような状態だったね。でも僕は部屋割を決めたときにそこから天気を確認している。その時は普通に開いたんだ。普通の扉が、数時間後には開かなくなっていた。合理的に考えて、あの時にそれが起こりうるとしたら、それは深夜三時の地震によってだろう」

「地震でドア枠が歪んだのね」

「つまり、三時以降あの扉は使えなかった。しかし玄関から出るにはラウンジからの視線がある。六時までは僕たちがラウンジにいたが、木崎の姿は見ていない。このことは彼が倉庫に向かった傍証だ」

「ああ、なるほど。木崎君が外に出られるようになる六時以降なら、夜が明けて足跡が見える。彼にとっては、世良田さんが夜中に倉庫に行ったことがここで確定するのね」

 黒井ミサは、そう言ってまとめた。彼女との会話の全ては、どこか空虚だった。予め決まっているかのような、台詞のような会話。初めて話す内容なのに、自然とそれは決められた枠にパズルのピースが嵌るように、定まっていく。気味の悪い既視感か、それとも――。

「……それで、阿良木君。私に聞きたいことって?」

 彼女は僕の肩に頭を寄せた。小柄な彼女から感じる質量は、纏う存在感に反して、微小だった。

「不動久遠は、どうして別荘に早く着いたのか? どうして連絡が取れなかったのか? そもそもあの時、彼女はなぜスマホを持っていたのか?」

 僕は、夕陽を眺めた。その問がなんでもない普通の問であるかのように、心を偽って。心の奥底で震える幾つもの疑念と、狂い出そうとする歯車の軋む音を聞かぬようにして。

「どうして、私に聞くの?」

「僕が……君を愛しているから」

 僕は、なぜ君を愛しているのか?

「嬉しい」

 僕は、いつから君を愛していたのか?

「でもこれが本心なのか解らないんだよ。本当は、僕の横にいるはずなのは――――」

「やめて!」

 ミサは叫び声を上げた。その刹那、轟音とともに空が放射状にひび割れる。崩壊の序曲が響き渡る。

「世界の関節は、本当に外れていたんだな……」

 やはり、僕にはそれを直せない。

「やっぱり、不動さんを忘れてくれないんだね」

 ミサは悲しそうに言う。そして彼女は続けて語った。

「あの日、私は不動さんと待ち合わせた。そして彼女に別荘への集合時間が早まって、仕事の都合で世良田さんは先に行ったと教えた。だから私が一緒に付いていくって。森の手前まで来て、私は忘れ物をしたと言って彼女を一人で別荘へ向かわせた。彼女のカバンからスマホを抜き取って」

 ひび割れた空から世界中のどの色とも違う極光がたなびく。次元の破片がパラパラと神社の上空を舞っては消えた。

「それはおかしい……確かに、全ては久遠がひとり早く着いたことに始まる。だが、境がそれを見つけ、久遠を犯したのは偶然じゃないのか。因果関係が逆だ。境は、久遠が森に定刻よりも早く入ったから彼女を犯す機会を得たはずで、境が彼女を犯すから久遠を早く送り込んだわけではないだろ」

 どんな探偵術でも、人の「欲求」を正確に推理することはできない。欲求は時に理性と合理を飛び越える。それが重大か否かは主観に過ぎない。

「境君は自分に誰も逆らわないことに苦痛を感じていた。だから抗われることを求めていたんだよ。

 世良田さんは、両親を事故で亡くした。肉体から魂が抜けて、空白になるその瞬間を彼女は両親との最後の繋がりとして美化していた。

 木崎君は、人形に執着している。その無機質さを愛している。体温や思考や意志のない、自分だけの物質的占有を愛している」

 ミサは、まるで自分自身が経験したかのように語る。それが真実であると、確信しているように。いや、実際にそれを最初から知っていたのかもしれない。或いは、彼らの歪んだ「動機」はすべて――……。

「なぜだ? なぜ不動久遠なんだ? これでは、まるで彼女は死ぬために……」

「だって、あなたが不動さんのことを『悪魔』なんて呼ぶから。私、あんな子、生んだ覚えないもの」

 ミサはそう言って微笑する。僕は絶句していた。横に座る「ナニカ」の存在が彼女自身の口から発せられた悪魔の名と重なる。――リリス、夜の悪魔、悪魔の母。

「冗談よ」

 最早、冗談には聞こえない。僕の目の前で、空が割れた以上は。

「ねえ、最後に、一つ聞かせて」

 最後に、と彼女は言った。

「もし、世界を創り直せるなら、不動久遠を救う?

 不動久遠を救ったら、境君はこれからも抗いを求め誰かを犯し続ける。

 不動久遠を救ったら、世良田さんは魂の空白を求め、人を殺し続ける。

 不動久遠を救ったら、木崎君は人形に取り憑かれ、いつか完全で美しい死体を生み出そうとする。

 それでも不動久遠を救うなら、あなたにとっての不動久遠が、本当はどんな存在だったのか解るでしょう」

 彼女は歌うように問うた。

「選んで。仲間の破滅を不動久遠と見届けるか、それとも不動久遠を殺して私を愛するか。私を愛してくれるなら、次に目覚めたとき、あなたの世界はきっと幸福に溢れている。私が、あなたの世界を幸福にする」

 世界は桜が散るようにハラリとその天蓋を堕とす。

「僕は、何度この世界を繰り返した?」

 君は、何度僕の選択を歪めた?

「愛を忘れる程に」

「そうか――――。なあ、なぜ君は僕自身を変えてしまわない? なぜ選ばせる? どうしてこんなにも迂遠な方法を取る?」

「動機は興味ないんじゃないの?」

「動機じゃなくて、君のことが気になっただけだよ」

 僕の答に、彼女は肩を震わせた。

 笑っているのか、泣いているのか。彼女の表情は見えない。

 世界が崩落する今となっては、どうでもいいことなのかもしれない。

「それはね」

 地球がまばたきをしたかのように、世界は外側からゆっくりと閉じられていく。終焉は、新たなる創生へ向けての一瞬の瞬きなのかもしれない。

「あなたが、この物語の神に似せて産み落とされたから」

 リリスかく語りき。

 そうか、やはりここは最初から――――…………


 世界の幕は下りたカーテンフォール



D.S./Fine





2020年6月13日 公開

2021年2月24日 改訂



あとがき(2021年2月24日 改訂)


 読了感謝致します、らきむぼんです。

 この物語は、構想としては元々三つの別々の小説でした。

 一つはリリスにまつわる物語。一つは阿良木シリーズのエピソードゼロ。一つは三人の異常性愛者の殺人を一人の犯行と思わせる叙述トリックもの。

 これらは最終的に「動機を扱わないミステリ」というテーマを媒介して、一つの物語に変わりました。

 突拍子もない物語となりましたが、それでも僕はこの作品が好きです。僕は自分が読みたいものを書くことにしています。それが大衆受けしないものであることは薄々感づいていますが(笑)、でもこういった形容しがたい物語が好きで、それを書いています。だからきっとこれが好きな人もきっといるはずです。その人のために、僕はこれからも書こうと思います。


 さて、ここからは蛇足です。毎度恒例ですが、こっそり仕込んだネタについて、解説しておきます。


 まず、ノックスの十戒の守られていない一つの約定は第九のルールです。

「“ワトスン役”は自分の判断をすべて読者に知らせなくてはならない」

 当然ですがこの物語の助手役「黒井ミサ」の思惑は何一つ知らされません(笑)

 他のルールにも解釈次第では抵触するかもしれませんが、あしからず。


 次に、(S/‥)の記号について。

 こちらは組み合わせると「セーニョ」という音楽記号になります。

 意味は簡易的に説明するならば「D.S.(ダル・セーニョ)という表記が表れたら「セーニョ」記号まで戻る」です。

 この作品においてはエンドマークに代えて「D.S./Fine」と表記しています。結末に合わせるならば、「もう一度繰り返す/終幕」の選択と言えるでしょう。

 ちなみに、セーニョ記号の前で阿良木はコーヒーのポットを取ろうとしている。そしてセーニョのあと、ミサがカップをキッチンから持ってくる。

 しかし、もう少しだけ遡ると阿良木はすでにカップを用意している描写があります。阿良木が用意したカップは眩暈のあと「消え」、ミサがカップを持ってくる。この「物理的事実」の断絶に気付いた人は、この物語が「ループしているのかも」と推理することができた……かもしれない。


 このことは章題でも書いています。

 「一 隔たりと創生」とはこのブランクと再構成を意味していました。

 他の章も実は真相をそのまま書いていたりします。「二 孤独と雪意」の孤独はこの時点で久遠が生存していたことを。「四 探偵と空席」の空席は世良田の不在を。


そして、やや反則的ですが、作中において探偵役が到達できる真実に「木崎による屍姦」は含まれていません。これはそもそもその犯行自体が露見していないからですが、挑戦状には「犯した人物を特定せよ」と書いてあるので、読者としては特定する必要があります。これは露見していない犯罪なので、「三つの断章」というヒントを使わなければ解けない造りになっています。この断章は、作中で解説できないのですが、ほぼ全ての文に意味があるので読み返すと「ああ、この文そっちの意味か」というところが多く見つかります。例えば「彼女は何をしにここまで来たのだろう。」という文は不動久遠に対してではなく世良田についてであるし、「倉庫の扉を薄く開き、外を見渡した。」は外が見渡せるほどに明るい、つまり夜明け後の時間帯であることを示しています。このように読み解いていくと、三人目の犯罪者も十分に特定可能です。


 最後に、このお話は、阿良木のエピソードゼロでもあると申し上げましたが、時系列的には『リリスかく語りき』→『オムファロスの密室』→『増殖らきむぼん殺人事件』と続きます。二人がこの後どうなっているのかは、いずれ結論を出す日が来るだろうと思っています。

 また、別の作品でお会いできることを願っています。



謝辞


第一の読者として、そしてテストプレイ、デバッギングに協力してくれた親友へ。

非常に楽しい推理を披露していただいた、シャカミスの皆様へ。

『オムファロスの密室』を書くきっかけをくれた、黒井ミサのモデルMへ。

深く感謝致します。


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