リリスかく語りき

らきむぼん/間間闇

問題編 


彼女の門は死への門であり

その家の玄関を 彼女は冥界へと向かわせる。

そこに行く者はだれも戻って来ない。

彼女に取り憑かれた者は穴へと落ち込む。


死海文書4Q184





◆ 登場人物


・この物語に物理的に登場するのは以下の人物のみである

・登場人物説明に虚偽の記述はない



○ 閏高うるみだか大学文学部増鏡ゼミ四年生


 阿良木あらき

  ミステリ新人賞を受賞する。探偵役。


 黒井くろいミサ

  初女ういめ神社の娘。助手役。


 さかいじょう

  別荘の持ち主。警視監の息子。

 

 世良田せらだはるか

  両親は事故で他界している。


 木崎きざきわたる

  人形師の後継者。


 不動ふどう久遠くおん

  悪魔的、蠱惑こわく的と称される。被害者。





一 隔たりと創生


「...... tumbling down, tumbling down ......」

 歌声が波打つように揺れた。仄かな朝日影。拡散する色彩。ベッドに腰掛ける天使。憂う唇。腕の中の黒猫。

 それが夢の中のまほろばから引き抜かれた一閃の幻だと理解するまでに、僕は再び眠りに就きそうになった。

阿良木あらき君……起きた?」

 夢の一部が具現化したように、黒猫を抱いた黒井ミサは微笑する。

「天使かと思ったよ」

 まだ夢と現実の区別がつかない僕は、ミサの問には答えずにベッドから立ち上がった。彼女の艷やかな黒髪を撫で、黒猫の小さな額をなぞる。黒猫は小さく鳴いた。

 リビングの古いコーヒーメーカーに紙フィルターとマンデリンをセットして、スイッチを入れる。このコーヒーメーカーは七年前に消えたブランドだが、古いが故にか、少々変わった味を出す。僕はそれが気に入っていた。

 一滴ずつポットに落ちる水音を聞きながら、キッチンから持ってきたコーヒーカップを二つコーヒーメーカーの横に置き、壁のカレンダーを見る。


 二十五日 正午~ ミステリ新人賞 授賞式

 二十五日 十九時~ 増鏡ゼミ 卒業祝賀会


 あと三時間もすれば、僕は東京にいるだろう。このまま僕は小説家としてデビューするのだろうか。きっとそうなのだろう。ずっと流されて生きてきた。別段それがいけないことだとも思っていない。後悔もない。だが、それよりもっと次元の違う深層で、まるで現実味を感じていないのだ。まるで、ここが小説の中であるかのように。

「ねえ、ここで帰り待ってていい?」

 ミサは黒猫を抱きかかえながら近づく。甘い香りが一瞬漂い、コーヒーの香りと混じって消える。

「いや、ここからよりも東京からの方が境の別荘には近い。木崎が車を出すらしい。僕たちも乗せてもらおう」

 今日は授賞式とは別に個人的な集まりがあった。僕とミサは、僕が暮らしている初女町にある私大、閏高うるみだか大学の四年生だ。そして文学部の増鏡教授に師事する、通称増ゼミの同窓でもある。今夜は同じく増ゼミの同窓である境が、保有する別荘に四年生を招き、卒業祝賀会が開かれる。とはいえ、招かれたのはほんの数人の学生だけだ。そもそも増鏡ゼミは全部で六人しかいない。

「じゃあ東京で合流ね。世良田さんは不動さんと一緒に来るって」

「不動? 不動久遠が来るのか?」

「ええ、珍しいことにね」

 僕やミサを含め、ゼミのメンバーは全員サークルに所属していなかった。だからか、僕らはよく一緒に遊んだ。だが、不動久遠はどうにもそういった集まりを避けていたように思う。その彼女が、今回は出席する。

 卒業前の最後の集まりだからだろうか、いや、実質的にはただの飲み会だ。いつもと変わらない。閉じられたメンバーで、ゼミの名を冠していても、教授すら呼んでいないのだ。なのに、彼女が出席するのはどんな思いがあってのことなのだろうか。

「不動さんのこと気になる?」

 ミサは静謐せいひつな声で言う。

「彼女は、まるで悪魔だった」

 ミサは首を傾げた。抱かれている黒猫もシンクロして首を傾げる。

 そう。そう思う。不動久遠という女は悪魔的だった。美しさとは別の魅力があった。だから集まりに参加しなくても、皆が想起する。誰もその不参加に機嫌を損ねたりはしない。非日常的だった。「そこにいない」ことが存在感だった。そして、彼女は蠱惑的こわくてきだった。

「そうかな。私は、彼女は人間だと思うよ」

「まあ、そりゃあね。本当に悪魔なわけないだろ?」

 そう言って、僕はちょうど二杯分できたコーヒーのポットを手に取ろうとした。


(S/‥)


 その時、ほんの一瞬だけ、まるで照明が落ちたかのように目の前が真っ暗になった。気づくと、僕の肩を支えるようにミサが横に立っていた。

「いいよ、そこにいて」

 ミサは近くのチェアに僕を座らせて、キッチンからコーヒーカップを二つ持ってきた。そこに香り立つコーヒーを注ぎ、一つを僕に渡す。

「ねえ、そういえば、また増えたよ」と、唐突にミサは言った。

「何が?」

「初女町の連続強姦事件。昨日また一人被害者が出たの」

 それは近頃僕らの町を賑わしている事件だ。年末に二人、そして今月に入って二人。これで被害者は四人目、犯人は捕まっていない。

「なんで、犯人は捕まらないと思う?」

「僕が知るわけないだろう、犯人でもないのに」

「推理して。ミステリ作家らしく」

「フィクションの世界では、そういう時は決まって警察上層部の息子が犯人だ」

 僕は適当に返す。馬鹿馬鹿しいが、これは事実よく使われるネタだ。

「ふふっ。怒られるよ、境君に」

「言わせたのは君だろう」

 そう、僕らは実際に警察上層部の子息と面識がある。それが今回の祝賀会のホスト、別荘の持ち主である境常だった。



Ⅰ 抗いの断章


 虚ろな目をして、不動久遠はこちらを睨みつけていた。

 いや、それはきっと僕の思い違いだ。虚ろな目をしているのにこちらを睨みつけられるわけがない。それとも「虚ろな目」が思い違いなのか。否、犯された女は虚ろな目をするものだ。いままでもそうだった。

 僕は即席で作った覆面の位置を確認する。顔は見られていない。そして、こちらからはしっかりと前が見える。もう一度、彼女の顔を確認しよう。

「こんなことして」

 弱々しく、言葉が漏れる。

「………………」

「こんなことして、許されるわけないから、絶対に」

 不動久遠は、恐ろしい目で僕を睨みつけていた。乱れた洋服は土にまみれ、ぐちゃぐちゃに汚れている。

 そうか、君だけは。君だけは僕に抗ってくれるのか。

「い、いや……」

 僕はもう一度不動久遠を犯した。



二 孤独と雪意


 夜の森の小径を、四人の男女が歩く。それだけで、妙に現実離れした風景のように思えた。普通の人間は、別荘を持った大学の友人から祝賀会に招かれることもないし、夜の森を談笑しながら練り歩くなんてことはする機会がないだろう。ましてや、それを小説家の卵に描写されるなど、絶対にあり得ない。だから、やはりここは小説の中の世界なんだ。

 そんな妄想が、夜風とともに去っていく。その風の肌触りと、湿った空気の匂いは、確かに現実だった。

「普通さぁ、真冬の夜に森の中歩かせるかなぁ」

 世良田悠は、コートの襟を掴みながら、白い息とともに愚痴を吐いた。

「まあ、あいつならいつも迎えに来るよな、普段ならそうすると思うんだが、何か急用でもあったのかね、境のやつ」

 先頭を歩く木崎恒は、そう言って境をフォローする。しかし、確かに普段の境なら森の入口にある駐車場まで出迎えに来そうなものだが。

「留守中に不動さんが来るかもしれないから、別荘を空けられなかったんじゃない?」

 これは最後尾の僕の傍を歩くミサの発言だ。世良田は不動と一緒に別荘に向かう予定だったのだが、何度電話をしても繋がらず、結局は不動と連絡が取れなかったらしい。本来、来ると言っていた彼女が音信不通になったのだから、友人の僕たちは騒ぎ立てていてもおかしくはないのだが、不動久遠という女性はしばしばこうやって急にいなくなることがあった。むしろ、こういった集まりに参加することの方が違和感のある人物だったこともあり、結局世良田は僕らと同じ車でここまで来たのだ。

「別荘からは舗装された小径で駐車場まで一本だ。境が別荘を空けてこちらに向かっている間に不動が別荘に到着することはないよ。不動が森の中の道なき道を潜り抜けてこない限りはね」

 正確には、道中で不動に出会いそのまま別荘に引き返せば、今のような状況になるかもしれないが。

「見えてきたね。わぁ、木造建築だよ。昼に見たら森と相まっていい感じかも」

 世良田が歓声を上げる。背の低い僕は先頭を歩く長身の木崎に視界を遮られ、別荘の全貌は見えなかったが、森が段々と開けて来ているのは判った。

 境の別荘の外観は個人の別荘としては、かなりインパクトのある大きさだった。陽もすっかり落ち、暗闇の中にぽつりと佇む木造建築。そこに至る小径には疎らに外灯が並び、別荘自体は玄関の小さな照明で仄かに照らされている。平屋で東西に広く、正面から見る限りでは左右対称の造りになっていた。

「おーーーい、境、着いたぞー!!」

 木崎が大きな声を上げる。近くには他の別荘もない。迷惑にはならなそうだが。

「木崎、どうした?」

「チャイムは押したんだが、反応がないんだ」

「妙だな、迎えに来ないのは別にそうおかしくはないが、家を留守にするのはありそうもない」

 僕は玄関から少し離れ、別荘の周りを見渡す。東側の先、一番奥の部屋の明かりが曇ガラスから漏れていた。

「あの部屋にいるのかもしれない」

「前に境に呼ばれてここに来たことがあるんだが、あそこは確かシャワー室だな」

「そうか……いま何時だ?」

「ん? ああ、十九時ちょうどだな。定刻通りだが」

「予定に狂いはない。僕たちが来るのが判っているのにシャワーを浴びているのか?」

 そんなことを話していると、シャワー室の明かりがフッと消えた。しばらくするとドタバタと足音がして、玄関の扉が開く。

「やあ、よく来たね」

 境常は濡れた髪をかき上げながら、爽やかに言う。

「何がよく来たね、よ。あんた、客を待たせてシャワー浴びてたの?」

 世良田が吠える。今日の彼女は機嫌が悪い。不動に約束をすっぽかされた上にホストはこの有様だ、それもしょうがない。

「ごめん、本当にすまない。時間を間違えていた。お詫びにラウンジで温かいスープでも」

「変なところにばかり準備がいいんだよなぁ、境君は」

 呆れたように言う世良田。すぐに機嫌を損ねるが、機嫌が治るのも早い。彼女の良いところだ。

 境に案内され、僕たちは玄関から別荘に入る。

「あっ」とミサが小さく声を上げる。ミサは玄関から外を見つめていた。

 全員がつられて同じ方向に目を向けた。

「雪……」

 軽く柔らかい真っ白な雪が、ふわりと舞っていた。

 どうやら、今夜は積もりそうだ。



三 静寂と夜魔


 ラウンジルームは玄関から直接繋がっていた。別荘の構造は中に入ってみると実にシンプルで、漢字の「凹」の両翼に客室が三つずつ備えてあり、中央の窪みにはめ込むようにラウンジルームが造られていた。玄関の人の出入りはラウンジルームから見渡せ、客室は壁と廊下によって遮られている。しかし、基本的には仕切りがかなり少なく、例えば西翼の部屋で大声を上げれば、おそらく東翼の部屋にも届くだろう。

 全員がラウンジに通されると、隣接するキッチンから境が次々に料理を持ってきた。名前も判らないような――ただ高級であることは判る――料理が流木を再利用した巨大なテーブルに並ぶ。半分くらいは店に頼んだらしいが、残る半分は境の手料理である。料理に詳しくない僕にはどれがプロの料理で、どれが境の料理なのか区別はつかない。

 祝賀会が始まる前に世良田が境に不動久遠について何か知っているか尋ねたが、結局主催の境も不動と連絡が取れていないことが判った。このまま、彼女と会うことはないのだろうか、そんなことを思った。もし最初から来ないと聞いていれば別に気にしなかったかもしれないが。


 時刻は二十一時を過ぎ、料理も片付き始め、程よく全員がワインに酔い出した。

「そういえば」と境はワイングラスを持った左手で木崎の方を指した。

「その指、どうしたんだ?」

「あぁ、言ってなかったっけ」

 木崎の左手の指はテーピングされ固定されていた。僕も気づいてはいたのだが聞くタイミングがなかったのだ。前に会ったときは怪我などしていなかったはずだが。

「こいつね~こないだ私と遊びにいったときに、私のスマホの鳴らした音にびっくりして車のドアに指挟んだんだ、間抜けよ間抜け」

 世良田はそう言ってキラキラと装飾のついたスマホを左手に掲げながら、大笑いする。彼女のスマホは僕と同じ機種だが、僕のスマホはと言うと黒一色のケースに収まっており、彼女とはなんとも対照的だ。そんなことを考えていると、手元が狂ったのか、彼女はスマホを落としかけて、すんでのところで持ち直す。まったく、少々飲み過ぎているようだ。

「うるせえな、もう。しかし、まさか骨折してるとは思わなかったよ」

「いつやったんだ?」僕が尋ねる。

「先月。まあ力はまるで入らないが大抵のことはできるよ」

 木崎はそう言って笑う。生活に支障がないなら一安心だ。

「仕事――修行は大丈夫なのか?」

「ん、ああ……まあこっぴどく怒られたけどな。別に問題はないさ」

 彼、木崎は人形師の家で生まれた。現在は広く人形作家と呼ばれる職業で、僕自身も詳しくはないが、つまりは人形を作る職人だ。彼は両親の意向で大学卒業までは本格的な修行をさせてもらえないらしい。彼自身は人形師の仕事を継ぐことを昔から決めていたようだが、両親は別の道も示したかったのかもしれない。

「時間をかけても、より人に近い人形が創れればそれでいい。趣味みたいなものだ。後継者になりたいというよりは、堂々と趣味だけをやる大義名分がほしいのさ」

 何か言葉の内に彼の思いの核心が見え隠れしている気もするが、掘り下げていいかは僕にはどうも判断がつかなかった。いずれ、彼が人形師になったら聞いてみることにするか。

「跡継ぎっていえばさ、ミサちゃんはどうするんだ?」

 木崎はミサに話を降る。境も「そういえばミサちゃんもか」と続ける。

 黒井ミサ、彼女もまた少々特殊な家で生まれたと言えるだろう。

「ミサって、初女神社の娘さんだったよね?」

 世良田は興味深げにミサを覗き込む。

「ええ、黒井家は代々初女神社を管理してきた一族よ」

 ミサはワインを片手に答える。小柄だがはっきりとした顔立ちの彼女が赤ワインを飲んでいると、それはまるで吸血鬼が血を飲んでいるかのように映る。彼女の周辺だけが十八世紀に戻ったようだ。神社のイメージとはまるで合っていない。

「やっぱり家を継ぐの? 確か、あなたの両親って……」

「ええ、昨年亡くなった。今は親戚が代わりに管理しているのだけれど、そのまま引き渡すか、私が神職に入るかは、まだ決めてないよ」

「そっか……大変だね。私も両親亡くしてるから、家を守ることの大変さはなんとなく解るよ」

 世良田は、子どもの頃に両親を事故で亡くした、と前に聞いたことがある。彼女はその時の感覚が忘れられないという。その時とは、つまり両親が死ぬ瞬間のことだ。彼女の手の中で、「魂」が消えるのが不思議と判ったという。

 ミサは「でもね」とチョコレートの包みを手に取る。そのままフィルムを剥がして立方体のチョコレートを口に放り込んだ。にこりと笑う。

「実は、初女神社は厳密には神社じゃないんだ」

 彼女は悪戯でもしたかのように楽しそうに言った。

 黒井ミサ、彼女と出会ったのは随分前になるが、しかし初女町の神社と関係のある一族だと知ったのは彼女の両親が亡くなった昨年の話だ。それまでは出身すら知らなかった。今でも彼女の謎は多い。ミサは基本的に秘密主義なのだ。今の話だって初耳だった。

「初女神社が神社じゃない?」境が興味深げに尋ねる。

「初女町の町名の由来は初女神社といわれているけれど、そもそも初女神社はなぜこの名前で呼ばれるようになったか判る?」

 なぞなぞを出した子どものように幼く微笑する。彼女の細い人差し指が紅い唇に触れた。

「イザナミ信仰か?」

「イザナミは最初の女神にょしんではないけれど、ここでは正しい。厳密には天地開闢てんちかいびゃくで生まれた神である神世七代かみのよななよにスヒヂニがいるけれど、本来の意図に符合するのはイザナミ」

「本来の意図?」

「日本における始まりの神はイザナギとイザナミ。その意味で最初の女性はイザナミと置かれた。でも初女町は元々別の力を信仰していたんだよ」

 ミサはじとりとした目で僕を見た。ワイングラスの縁を指でなぞる。振動したグラスがグワンと鳴った。皆がその仕草に目を奪われていると、彼女は人差し指でグラスをリンと弾いた。

「私の祖先はヨーロッパのある国で神学の研究をしていた……と自称しているんだけれど、でも時代が下って、それはある異教の崇拝へと転じた」

「それってさ、つまりそれが原因で異端として排斥されて、日本に来たってこと……?」

 世良田は真剣な顔で言う。「それが初女神社の起源ってわけだね」と続く境。

「うん、正確にはこの町には元々神道由来の信仰があって、そこに流れ着いた私の祖先が不思議な力を持っていたために土着の信仰と交わって象徴化していった、と伝わっている」

 不思議な力……それは一体どんな力だろう。僕の疑問を読み取ったのかミサは語り続ける。

「聖書の創世記で誕生した最初の女性を知っている?」

「アダムとエバ……最初の女性はエバか」

 木崎が呟くように言う。「いいえ」とミサは返す。

「エバは聖書の第二章二十二節でアダムの肋骨から創られるの。でも聖書ではそれよりも前の第一章二十七節でこう記されている。『神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。』と」

「つまり、エバよりも前に、女性が創られている、と。じゃあその女性はどこにいったんだ」

 僕は問う。僕はこの話を知っていた。エバよりも前に生まれ、楽園から消えた女性がなんと呼ばれているかを。

「さあ、どこにいったんだろうね。でも彼女はこう呼ばれている。『リリス』――意味は『夜の悪魔』」

「悪魔……」

「私の祖先はリリスを信仰したのよ。そしてこの国の小さな町にやってきた。その一族の女性は代々不思議な力を持っていたんだって。初女町、最初の女の町。あの町はね、リリスの町なんだよ」

「それで、その力ってのはなんなんだ?」

 木崎はいつの間にか前のめりになっている。気になることにはすぐに没頭してしまうのがこの男の性格なのだ。とはいえ、僕もそれは気になっていた。

「リリスは自ら神の元を去った。そして悪魔になった。彼女はその後、多くの悪魔を生む。悪魔の母、とも言われているの」

「へえ、じゃあそれは悪魔を生む力……?」

「私はそうは思わない。悪魔を生んだのはリリスの意志。つまり悪魔以外も生み出せたんじゃないかと思うんだ。つまりね、リリスは楽園から去るときに神の力を奪ったのだと思う。だから悪魔と呼ばれたのよ」

「神の力?」

「創造の力よ」

 ミサは微笑した。

 それは――それではまるで神そのものだ。

「デミウルゴス……か」

 僕の呟いた偽神の名は、誰の耳にも留まらずに宙へと消えた。


 ガシャン!

 突然、ガラスの割れる音が部屋に響いた。

 ミサが語る初女町にまつわる伝承のなんとも言えない後味に、ラウンジが厳かに静まっていた中、その破壊音は全員の肩をビクリと震わせた。

「大丈夫か?」

「ごめん、少しフラついて……」

 声を上げたのは世良田だった。さっきまで酔いで真っ赤に染まっていた頬は、いつの間にか青白んでいた。彼女の座る椅子の近くで一本のワインボトルが中身をぶち撒きながら割れている。まるで殺人現場のような凄惨さだ。

「少し飲み過ぎだ。ここは僕が片付けておくから客室で休むといい」

 境は呆れた様子で世良田の身体を支えた。

「ワインはそれでラストか、どうする? 裏の倉庫に在庫あるんだろ? 取ってこようか?」

 木崎が言う。世良田以外は酩酊する程にワインを飲んでいたわけではなかったが、こういった集まりでは徹夜するメンバーもいるかもしれない。酒が足りないと思ったのだろう。

「ああ、そういえば倉庫の鍵を閉め忘れたままだ。施錠ついでに僕が持ってきてもいいんだが、雪もかなり積もってるみたいだ。危ないし、やめておいた方がいいだろう。それに、行ったところでせいぜい両手に二本くらいしか持ってこれそうにない」

「ごめんね」

 世良田はぐったりしながら謝る。酔ってはいるが、情緒的には落ち着いているようだ。一晩休めば幾らか良くなるだろう。

「そうだ、ついでにこの後、部屋割を決めておこう。そうすれば、いつでも離脱できるだろう」

 僕たちは世良田を東翼の一番手前の客室に連れていき、ラウンジの割れたボトルと溢れたワインを片付ける。それから境の勧めで、簡単に部屋割を決めた。東翼は世良田がいるので同じ女性のミサを一つ空けた最奥の客室に割り当てた。西翼には木崎と僕が一部屋開けて割り当てられた。手前が木崎で、最奥が僕の部屋となる。そして西翼の最奥の客室――僕の部屋の相向かいには管理人室がある。その部屋は境がほとんど私室として利用しているらしい。東西それぞれのエリアの廊下の突き当たりには裏口の扉があり、僕は自分の部屋の前に案内されたときに、ついでにそこから天気を確認していた。屋根と庇が長く、別荘を取り囲むように雪の積もらない通路が出来上がっていた。しかし別荘に接する周囲以外の場所は、既に十五センチ以上の雪が積もっている。しかし、夜空から降る雪はもうかなり弱まっていた。

「雪止んでる?」

 ミサはそう言うと、小さな歩幅で跳ねるように傍に駆け寄った。

「止み始めたみたいだね」

 二時間ちょっとでこの積雪とは、かなりの勢いで雪が降っていたことになる。町では大騒ぎかもしれないな、と僕はミサとそんな話をした。

「さて、世良田程じゃないが、ちょっと酔ってきたし、まだ早いけど今夜は先に休むわ」

 全て片付いた後でラウンジに戻ると、動いて酔いが回ったのか、木崎が珍しくそんなことを言った。彼はどちらかというと朝まで元気に喋っているタイプの人間なのだが、世良田のリズムにつられて飲み過ぎたのかもしれない。とはいえ、喋り足りない気持ちがあったのか、結局はその後も一時間程ラウンジで会話をしていた。彼が退出したのは二十二時半頃になってからだった。

 妙に静かな夜だった。雪は、辺りの音をすっかり吸収してしまっているらしい。窓の外は白く冷たい静寂で塗り潰されていた。



四 探偵と空席


「相変わらず、ミステリ作家の癖に、全然詳しくないんだな、阿良木」

 境はそう言って笑う。もう何度目か判らないが、境と話し込むと毎回言われる台詞だ。

「まだ作家じゃないよ。それに、ミステリ作家が必ずミステリに詳しいなんてことはないさ。創るのと読むのとはまた別だ」

 僕はそう言いながらも、もし作家になるなら少しは勉強した方がいいかもしれない、といままで気にも留めていなかった境の言葉を少しだけ真剣に受け止めた。

 横で聞いていたミサは安楽椅子アームチェアの肘掛けに頬杖をつきながら愉快そうに言う。

「変なミステリ専門だもんね、阿良木君は」

 変なミステリ、か。そうかもしれない。

 僕が好きなミステリは、奇書などと称される。例えば、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』や、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、中井英夫の『虚無への供物』は、日本三大奇書や探偵小説三大奇書などと呼ばれる。本邦のミステリ史では、第四の奇書として竹本健治の『匣の中の失楽』が挙げられることが多い。

 しかし、実はこれは少々時系列が歪んでいる。この定説自体の由来は、さもそれ自体が心理トリックであるかのように捻れているのだ。そもそも、『匣の中の失楽』を第四の奇書とする話題が出るまで、「三大奇書」という言葉自体が存在しなかったというのが現在有力視されている説なのだ。似たような定義を充てられることの多い「黒い水脈みお」はこの三冊だけを指す言葉ではなかったし、「アンチミステリ」という言葉も、本来は『虚無への供物』だけを指す言葉だった。つまり、第四の奇書を示すために、その水脈を遡って「三大」が定義されたのかもしれない。換言すれば、「三大奇書」という言葉は「第四の奇書」よりも後に生まれたと言ってもいいかもしれないのだ。

 この説を知った時、僕は民俗学のひとつのテーゼを連想した。それは呪いや怨霊の成立に関するものだ。物語的な視点に立つ時、怨霊はまずは生者の恨みから発する。誰かが恨みを抱く。それが死後も残り、何らかの現象として果たされる。しかし、呪いや怨霊といった存在を分析的に見ると、それは逆転する。

 学問の神、菅原道真すがわらのみちざね。彼は讒言ざんげんで左遷され、失脚した。彼は死後に怨霊となり、失脚の原因となった人物を次々と変死させている。しかしこれを分析的に見れば、こうなる。まず変死が続いた。彼らは病気や事故が偶然重なり死亡した。それぞれがたまたま道真の左遷に関わっていただけである。しかし当時の知識では、これは不思議な「呪い」のように見えた。この結果から因果を創出し、道真の怨霊という存在が生まれた。

 道真が本当に彼らを恨んでいたのか、それは本人にしか解らない。これは本格ミステリの「動機」にも似る。殺人の理由など本人にしか解らない。本人にも解らないのかもしれない。すべてが終わる時、僕ら読者は想像するしかない。動機という怨霊を創り上げて、理不尽な死と恐怖に明解な答を見出すのだ。

 と、こんな話でもすれば、少しはミステリに詳しいようにでも見えるだろうか? そう僕は自身に冷笑する。

「そういう境は、なんでミステリに詳しいんだ?」

 境はミステリに詳しかった。ミステリを書いている僕よりもずっと。僕が今回新人賞を受賞した作品も、最初に読んでもらったのは境だった。

「詳しいと言う程でもない。僕は父が警視監だから、ミステリに興味を持ったんだと思う。でも、刑事モノよりも探偵小説が好きなんだ。父を尊敬する反面、反発の気持ちもあるのかな」

 そう言って、立ち上がると、彼は部屋の片隅のウォーターサーバからワイングラスに水を注いだ。

「反発……ね。あまり良くないのか、親父さんとの関係は」

「いや、そんなことはない。僕は父を尊敬しているよ。でもね、父の立場は、まるでフィクションの中のように僕にも影響した。警察の階級としては上から二番目だからね。父を知る人物は、僕に逆らえない。僕は父の権力とは関係ないのにね」

「そうか。まあ、想像はできるよ」

「だから、探偵が警察の解決できない謎を解き明かすのが、好きなんだ。僕は日本の警察を優秀だと思うが、それとは別に、探偵は僕のヒーローなんだ。彼ら探偵は、現代の科学なんて関係ない。を課しても奇妙で難解な謎に答を出す」

 ノックス、ときたか。僕は心中で笑う。ミステリ好きに「ノックスの十戒じっかい」を語らせたら夜が明けてしまう。マニアの悪いところかもしれないが、ミサは付いてきているだろうか?

「ノックスの十戒? きっとミステリの戒律みたいなものね?」

 案の定、ミステリにさほど詳しくないミサはその専門用語を知らないようだ。しかし十戒という響きは厳格なルールを想起する。良い意味でも悪い意味でも、それはこの言葉のニュアンスを捉えているのかもしれない。

 境は慣れているのか、雄弁に語る。

「戒律と言うほどに厳しいルールではないよ。本格ミステリという枠組みで作品を書くときの指針に過ぎない。文字通り、戒律のようにそれが守られていることを推理小説の絶対条件として考える人もいるが、現代作品においては十戒が守られている作品の方が少ないんだ。でも、僕は十戒が守られた古き良き本格、っていう雰囲気のミステリも好きなんだけれどね」

 ここで僕が似たような指針に「ヴァン・ダインの二十則」なんてものもある、などと薪を焚べたら、境は永久機関のように止まらないだろう。

「たとえば、どんなルールがあるの?」

 ミサは興味深げに問う。境はミサがいい終わらぬうちに一枚のメモをどこからともなく取り出した。


ノックスの十戒


01 犯人は、物語の序盤に登場していなければならない

02 探偵方法に超自然能力を用いてはならない

03 犯行現場に秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない

04 未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない

05 東洋人を登場させてはならない

06 探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない

07 変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない

08 探偵は、読者に提示していない手がかりによって解決してはならない

09 助手は、自身の判断を全て読者に知らせねばならない

10 双子・一人二役は、予め読者に知らされなければならない


「訳によって少々ニュアンスは異なるが、これがノックスの十戒さ」

「へぇ、なるほど。つまり、フェアプレイに必要な縛りって感じね」

 ミサはまるで最初から知っているかのように飲み込みが早かった。と、なると次の質問も予想できる。

「ねえ、この東洋人云々っていうのは?」

「ああ、これはあまり気にしなくていい。そのままの意味だが、ノックスの時代の小説に登場する東洋人は、普通の人間ではできないような身のこなしや妖術を使っていることがあったから、それを封じる意味合いがある。まあ差別的な表現だから、推理のロジック部分に説明のない超能力の類を登場させてはいけないと置き換えればいいと思う」

「なるほどね」

「まあ、あとは些細な補足だけれど、九つ目の助手は意見が分かれるね。いわゆるサイドキックという役回りだが、これを単なる助手とするか、助手=語り手とするかだね。まあ探偵助手が意図的に嘘を吐くのも、地の文に虚偽の記述があるのも、どちらにせよアウトな気がするから、深く考えなくてもいいかな」

 境は締め括る。こういった補足を必ず行う辺りは、いかにも本格ミステリファンらしい。僕はこういった流儀にはあまりこだわらない。どちらかというと、彼の話を聞いていて、あえて十戒の内の九つを守って、どのルールが守られていないかを伏せたまま問題編を終わる犯人当てミステリなどがあったら面白い、などと捻くれたことを考えていた。しかし、王道ミステリを書くなら参考にはなるだろう。

 それにしても、普段冷静な境の熱の入ったミステリ講義を聞くのも久しい。ノックスの十戒を課しても輝く探偵、彼の心中でそれが大切なイメージであることも、その熱意から少し伝わった気がした。

「書き手として、君の言葉と意見を大事にするよ」

 僕は境の目を見てそう言った。それが本心なのか、彼を思いやっての言葉なのか自分でも解らなかった。しかし、おそらく探偵という記号には、色々な側面があるのだ。彼の言うヒーローのような側面も。

「君やミサちゃんには感謝している。君たちは、僕の背景を知っていても、対等でいてくれる」

 境はグラスをこちらに向けた。彼の気障な言動にも今日は付き合ってやろう。僕もグラスを彼に向ける。それを見てミサも身を乗り出した。

 リン、とグラス同士が軽くぶつかり合う。ちょうどその時、印象的な出来事があった。

「おっと……」と僕は眩暈のような視界の揺れを感じた。

「地震だ」境が頭上の照明を見て口を開く。

 眩暈ではなく、これは現実の揺れだ。

「これ、かなり大きいよ」

 ミサは姿勢を低くした、ラウンジの家具がガタガタと揺れているのが判る。しばらくすると揺れは止まったが、気持ちの悪いゆっくりとした波のような揺れの錯覚が後に残る。

 ミサがスマホを取り出す。「震度5だって」と、冷静に言った。僕もスマホを確認すると、緊急地震速報を受信している。隣県で最大震度5強の地震が発生したようだ。現在地の震度は5弱。

「雪崩でも起きないだろうな、ここ」

「フッ、ここは山じゃないからね。それに、まだ事件も起きていない。カタストロフィにはまだ早いよ」

 境はとある新本格ミステリ作家の作品を思い浮かべたようだ。その作品は僕にも判る。

「もう三時か……そろそろ解散する?」

 境は僕やミサを気遣ったようだった。本人は少しも眠そうには見えない。境は酒にも眠気にも強い。

「僕は眠れそうもない」

 僕は最近少し不眠症だった、ミサもまだ目が冴えているようだ。

「僕もだよ。じゃあ、もうひと飲みしようか」と境。

「ワインはないけれど」

 ミサがニヒルに笑う。

「血と闇を以て」

「ミステリらしくね」

 それではどちらかというとホラーだ、と僕は思う。鉄の味のする――ような気がしてくる――液体を喉に流し込みながら、僕はミサを見た。

 やはり、彼女はまるで吸血鬼のようだ。或いは、美しい魔女か。

 脳が痺れていくような妙な感覚を覚える。彼女の醸し出す幼さを僅かに残す妖艶さが、霧のような微小の粒子となって、皮膚の隙間を通り抜け、頭蓋の溝を潜り、脳髄に充満していく。

 彼女は何故ここにいるのだろう、と脈略も意味も解らない疑問が一瞬だけ頭を過ぎった気がした。



2 空白の断章


 取り出しかけたワインボトルを冷蔵庫に戻し、音のする方に目を向けた。そこで不動久遠は毛布に包まり震えていた。

 まだこちらに気づいていないのか。意識が朦朧としているようにも見えた。

「久遠」

 彼女の名を呼ぶ。ビクリと身体を飛び上がらせて、不動久遠はこちらを見た。

「あ……あぁ、助けて、助けて、私……」

 彼女を覆っていた毛布が落ちる。彼女の服は所々破れ、乱れていた。誰がどう見ても乱暴をされたとしか見えない姿だ。その哀れな姿を晒してでも彼女は救いを懇願した。

 起き上がろうとしている不動久遠に近づき、肩を思い切り蹴った。

 彼女は恐怖の表情を浮かべて、壁に叩きつけられた。乱れた衣服は更に乱れ、淫らに肌を晒す。

 抑えきれない欲求が、蘇ってきた。今しかない。今しか……できない。

 空白が、あの空白が、吸い込むように惹き付ける。

 死は空白だ。空白は美しい。死は美しい。

 次の瞬間、彼女の苦痛に歪んだ表情を見つめながら、その細い首を絞めた。



参 穢の断章


 彼女は何をしにここまで来たのだろう。

 不動久遠の死体を見下ろし、そう思った。彼女の身体は乱れきっていた。衣服は汚れ、破れ、表情は歪み、髪は不揃いになっている。

 美しい女性だ、と常々思っていた。もしも、彼女が無垢で汚れのない存在ならば、どれほど自分を抑えられたか解らない。

 しかし、今の彼女は美しい。体温を失った身体、考えることのない脳、惑わすことのない瞳、完璧だ。

 倉庫の扉を薄く開き、外を見渡した。誰もいない。誰もここに来ようとしない。それを確認した瞬間、自分が性的興奮を覚えていることに気づいた。

 彼女の汚れた衣服を取り除く。白い肌が露わになる。全ての衣服を取り除き終え、俯瞰すると、右足首が紫に腫れていた。美しくない、そう思い、近くにまとめられていたソックスとブーツを右足に履かせた。バランスを取って左足も同じようにする。濡れていて履かせるのに少し苦戦した。髪を整える。瞳を閉じる。そうして、それは出来上がった。

 完成した瞬間、膨れ上がった欲望は溢れ出し、不動久遠の死体を犯した。そこで、気づいた。ああ、なんてことだ。彼女は穢れている。勿体ない。完璧に近い存在だったのに。失望して、何も感じなくなった。残念だ。非常に残念だ。そうして、もう一度彼女に服を着せた。

 失意のまま、その場を立ち去った。



五 沈黙と足跡


 朝食はハムエッグとコーヒーだった。別段何時に集まると決めていたわけではないのだが、自然と全員が九時頃にラウンジに集まったので、境が人数分の朝食を作ったのだ。

「もう大丈夫なのか? 世良田」

 木崎は心配そうに世良田に声をかけた。

「うん、昨日はごめんね。なんだか酔いが早くて。でももう大丈夫だよ」

 すっかり調子は戻ってきたようだ。朝食もちゃんと食べている。早く休んだ木崎も、いつもと変わらない様子だ。

「まぁ、酒もほどほどに、ね」

 境はそう言って笑った。彼は朝まで起きていたようだが、その表情は爽やかだ。僕はというと、今更になって少し眠気を感じている。

「ねえ、誰か夜の内に倉庫に行った人いる?」

 僕の横で朝食を摂っていたミサは唐突に言った。しかし、彼女の問いかけに応えた者はいなかった。全員が顔を見合わせる。

「どうして?」

 世良田が聞き返す。ミサの意図はなんとなく推測ができた。僕は彼女の代わりに説明する。

「さっき、僕とミサは外の空気を吸おうと思って、一緒に別荘を一周したんだ。昨夜はかなり雪が降っていたし、大きな地震もあったから、辺りを少し見ておこうと思ってね。まあ、雪の積もっていない範囲を歩いただけだけれど」

「それで?」

「倉庫に向かって足跡が二筋あった。戻ってくる足跡も二筋。雪が止んだのは二十一時過ぎ頃だから、足跡が残るのもそれ以降。朝、倉庫に用事があるとしたら、可能性があるのは境くらいかもしれないが、境を含め誰も倉庫に行っていないという。どういうことだろう?」

「即興のミステリクイズ?」

 世良田は楽しそうに言った。

「いや、残念ながら事実だ。妙だと思わないか?」

 僕が説明すると、一同は静かに思考した。これを論理的に解決する筋道があるだろうか。やはり、誰かが倉庫に向かったとしか考えられない。

「泥棒か?」

 木崎が心配そうに言う。

「森の小径から玄関に続く足跡はない。つまりこの別荘に滞在する誰かが倉庫に行ったはず」

「なんで誰も名乗り出ないの?」

「そこが不思議なところだね」

 議論は行き詰まった。

「倉庫に行ってみよう」

 境はそう取りまとめた。クイズでないにしては不可解な状況に、仄かに不穏な香りが漂った。



六 冷血と雄辯


「なんで、彼女がここにいるんだ……」

 境は酷く狼狽していた。彼女の姿を最初に目に捉えたのは先頭の彼だった。その瞬間、境は膝から崩れ落ちる。それに続いて木崎が死体を見て項垂れた。世良田は死体を見る前に木崎に制され、倉庫の入口で体を震わせていた。

「不動久遠ね」

 ミサは判りきったことを言う。それを事実として定着させようとするように。そう、不動久遠だ。ここに横たわる死体の名は、まさしく不動久遠であった。

「死んでいる……どうして、こんなところで彼女が死んでいるんだ」

 境は何度もその疑問を繰り返した。

「殺されたんだね」

 ミサはそう言って死体に近づく。

「殺された?」僕も一緒に死体を覗き込んだ。

「見て」

「……絞殺か」

 彼女の首にはくっきりと人間の両手で絞め上げた痕跡が残っていた。

「随分冷静なんだな」

 僕は振り返る。その声は木崎の言葉だった。

「いや、かなり動揺しているよ」

「そうは見えないぜ、お前たちだけだ、そうやって観察しているのは」

 僕たちは非難されている、とここで気づいた。そうか、木崎は僕を非難したんだ。人間味がない、と。だが、僕は僕なりにこの状況に戸惑っている。なぜ、不動久遠は殺されたのか。誰に殺されたのか。

「……そんなことより早く警察を呼ぼう」

 言いながら、僕は死体から目を離せなかった。これが死体。本物の死体。まるで、人形のようだった。驚くほどに自然で、整っている。生きている状態のほうが異常だったと錯覚するほどに。

 死体を観察すると、足首に怪我を負っていることに気づいた。死体を見ていない世良田と、直視したくない様子の男二人は気づいていないようだが、右足首のあたりが腫れている。自分の体で視線を遮り、慎重にソックスを捲ると、捻挫ような痛々しい怪我が確認できた。衣服の乱れと土汚れ、足の怪我――――彼女は誰かに強姦され、怪我を負っていたから近くの倉庫に逃げ込んだのか。僕たちに、自分が犯されたことを知られたくなかったから倉庫に隠れたのだろう。

 仮に、大声を上げてくれれば気付いて助けに来れただろうか? 死体を前にして、「仮に」も「もしも」も意味はないが、おそらくそれは無理だっただろう。倉庫が別荘に隣接していたならともかく、実際は別荘裏から最短距離でも数十歩以上は歩く必要がある位置にあった。おそらく改築か増設の都合だろう。これでは思い切り叫んでも雪が音を吸収して別荘内まで届かない。

 彼女の持ち物は周囲にはなかった。鞄の類も、スマートフォンもない。どうりで、連絡が取れないわけだ。逃げるのに必死で、どこかに落としたままなのかもしれない。今頃、雪に埋もれてしまっているだろう。

「これは……」

「どうしたの?」

「濡れている」

 不動久遠の死体が履いているソックスとブーツは、ぐっしょりと濡れていた。僕は自分の靴も濡れていることを意識した。もし長靴などを履かずに怪我をした足で積もった雪の中を歩行したらおそらくこのように足元は濡れてしまうだろう。

 長靴といえば、足跡は四筋とも長靴を履いて残したものように見えた。この足跡の主が、彼女を殺したのだろうか。



七 動機と合理


「決を採りたい」

 あまりに静かなラウンジで、境のその言葉は印象的に響いた。

「どういうことだ?」

 僕は問う。いや、彼の言いたいことは判っている。念のために訊いておこうと思っただけだ。

「警察を呼ぶかどうか、だ」

「なるほど。それはつまり、この状況は僕らの中に犯人がいるのが決定的だから、いっそのこと全員で隠してしまおうと、そういうことか」

「そうだ。どう思う?」

「そんなことをしても無駄だ。隠し通せるとは思えない」

「僕の父を以てしてもかい?」

「おそらくな。それに、警察ならきっと犯人の特定は容易だ。もし疾しいことがないなら、警察に解決してもらった方がいい」

 これは計画的な殺人とは思えない。こんな限定的なシチュエーションで殺人を犯す意味はない。つまり痕跡は十分にある。警察なら簡単に犯人は判る。

「外部犯って可能性はないの?」

 世良田は希望的観測を述べる。それはあり得ない、直感的にも、合理的にも。

「彼女の足は濡れていた。おそらく、積もった雪の中を踏み進んで濡れたんだ。だから、彼女は雪が降るまで生きていた。外部の犯人が偶然境の別荘で不動と遭遇したとは考えにくい」

「もし犯人が彼女の脱いだブーツに雪を入れていたら?」

「ブーツに雪を入れられるのは雪が降り始めてからだろ。それに入れたとして、雪が解けきる保証はない。逆に量が多過ぎて水の痕跡が床に残る可能性もある。だが実際にはそういった不自然さはなかった。それにソックスまで含め全体的に湿っていた」

 先程の状況を慎重に思い出す。自分の説明に誤りはない。

「そっか…………ねえ、提案してもいい?」

 世良田が挙手する。嫌な予感がした。

「もし、あなたが、阿良木君が犯人を指摘できたなら、それからもう一度採決するというのはどう? つまり、私たちが先に真相を知る。そしてそれから判断する」

「なんの意味があるんだ、そんな遊戯に」

 僕は言った。どうせ後で犯人は捕まる。意味がない。

 沈黙の中、ミサが口を開いた。

「いいじゃない、どうせ警察はすぐに来れないよ。最低でも一、二時間はかかると思う。こんな森の中で雪も積もっているのだから」

「おい……そんな勝手なこと」

「不動久遠さんの死の謎、自分で解いてみたくないの?」

 ミサは僕の目をじっと見つめた。猫のような目。僕は、その目に逆らえなかった。なぜかは解らない。脳がジャックされたような、そんな酩酊感。抗えない。何よりも、彼女が言うように、僕は不動久遠の死を自分で理解しなくてはならないという気になっていた。気がつくと、僕は口を開いていた。

「僕の知らない空白の時間のことを聞きたい」

 視界の端でミサがニコリと笑ったのを、僕は見逃さなかった。彼女はテーブルのチョコを一つ口に放り込む。

「空白の時間?」

 木崎が聞き返す。あまり機嫌は良くなさそうだが、どういうわけか世良田の提案には従おうとしているようだ。

「二十二時半に木崎がラウンジを退出してから、僕とミサと境は朝の六時までラウンジにいた。その後、解散したんだが、僕は自室でK出版の担当者とビデオ通話で二時間打ち合わせをしていた。なぜ早朝にと思うかもしれないが、別に他意はない。アリバイという点では十分だ。そして、八時からはミサが部屋に来た。この時もまだ通話は繋いでいたから、担当者に問い合わせればミサの八時以降の所在も証明できるだろう。その後は先に話した通り、別荘の周囲を見て回ってからここに来た」

 つまり、僕に犯行は不可能だ。僕自身には解りきったことだが。

 ちなみに、打ち合わせが早朝になったのは、このK出版の担当者というのが僕の友人であり、増鏡教授の息子だからだ。急を要する内容だったため打ち合わせは必須だったが、折角の祝賀会ということで、僕の都合に時間を合わせてくれた。死体さえ見つからなければ、僕らは今頃のんびりと午後の予定でも話し合っていた頃だっただろう。

「境は六時以降どうしていた?」

 僕がそう問うと、境は、一瞬戸惑った様子だったが、すぐに応答する。

「まあ、誤解してほしくはないが、僕は世良田と一緒にいた。朝食までの間ね」

「世良田と? 世良田の部屋で?」

「ああ、女性の部屋を早朝に尋ねるのはどうかとも思ったんだが、昨日はああだったし、少し心配になってね。一度だけノックをした。そうしたら彼女は起きていたから、話し相手になってもらったんだ」

 境はそう説明した。僕が世良田に目を向けると、彼女も頷く。

「私は夜中に起きて、ずっと部屋にいた。三人がまだラウンジにいるのは雰囲気で判ったんだけれど、一応休んでおこうと思って。あとは境君が説明した通り」

 二人が一緒にいたというのは本当だろうか? しかし嘘を吐いたとしてもアリバイ工作がうまくいっているとは思えない。二人が共犯なら足跡が四筋なことも自然になってしまう。効果的な嘘ではないのは明らかだ。とはいえ、現段階ではどちらの可能性も否定できない。

「木崎、君は?」

「ラウンジを出てからは朝までずっと部屋の中だ。証明してくれる人はいないな……」

「そうか、まあ、別にそれで君が怪しいということではない。僕が知らない部分を穴埋めしただけだ。気にしないでくれ」

 僕は言って、席を立つ。本音を言えば、それは際立って一人が怪しいというわけではない、という意味だ。裏を返せば、今のところ全員怪しい。

 もう議論は終わりだ。やはり、情報が足りない。科学捜査ならすぐに解決する。この捜査に意味はあるのか。あるとすれば、警察が来る頃には足跡が保存できていないかもしれない、ということくらいのように思える。

「どこに行くの?」

 世良田は言う。

「少し別荘の構造を見ておきたい」

 僕はそう答えると玄関に向かう。「私も行く」とミサが付いてくる。助手のつもりだろうか。殺人事件が起きたというのに、ミサは妙に楽しそうだった。それを不気味に思う自分がいる一方で、僕の目には彼女がいつもよりも魅力的に映っている。それも、また事実だった。


https://bit.ly/2UicXZ0

↑別荘略図/足跡図説


 ラウンジから玄関へは直線的に視界が確保されている。ラウンジにいる者に気づかれずに玄関から外に出ることは不可能だ。それどころか、東翼から西翼、或いはその逆の移動についても、玄関の扉前を通過することになる。ラウンジの全員が見ていない隙を突けば、移動は可能だが、現実的に殺人者がリスクを負ってそれを行うことは考えられない。

「玄関を使用できたのは、ラウンジが無人になる昨日の十九時前か、今朝の六時以降のみか」

 ミサは「そうだね」と一言応えると、シャワー室の方へ歩いていく。

「シャワー室か、あそこの窓は出入りに使用できるか?」

 ミサは中を確認する。そして向き直って首を振った。

「嵌め殺しだね」

「まあ、裏口があるんだから、窓から出入りする意味はないな」

「じゃあなんで調べるの」

「探偵は全ての窓を確認する」

「なにそれ」

 ミサはおかしそうに笑う。僕は真面目に言ったつもりだったのだが、ふざけていると思われたようだ。

 ちなみに、逆方向にあるトイレの窓も、人間の出入りに使うには困難な造りであることが確認できた。

 続いて客室の窓を確認するために世良田の部屋のドアを開ける。境の別荘とはいえ、女性の部屋に勝手に入るのは抵抗があったが、非常事態なのでやむを得ない。

「ねえ、阿良木くん、良いことを教えてあげる」

 僕の後ろに続くミサがそう言って後ろ手にドアを閉めた。

「君もいたんだろう? 八時までの間、この部屋に」

「なんだ、気付いてたんだ」

 ミサはつまらなそうに頬を膨らませる。

「境も世良田も、共犯を疑われてまでそんなことを隠す必要なんてないんだ。もはや死体発見に勝るサプライズなんてないんだから。僕には解らないよ」

「まあ、それは私もそう思うよ。でも、なんとなく言い難かったんでしょ」

「……馬鹿だよ、あいつらは。それで、証拠はあるのか?」

「多分ね」

 ミサはそう言うと、世良田の荷物を物色する。しばらくして、ハンディカムを見つけ出した。勝手に部屋に入り、荷物を漁るとは、酷い探偵と助手だ。

「はい、これで多分私たちのアリバイは確定する」

 僕はハンディカムの電源を入れると、直前に保存された幾つかの動画データを再生した。それは、僕のミステリ新人賞受賞を祝うビデオメセージだった。

 妙な感情が湧いては消える。元々、僕はサプライズが苦手だ。場を強制的に決定してしまい、空気を読ませるエゴイスティックさがどうも好きになれない。だが一方で、それが好意と信頼から行われるという実感に、得難い関係性の存在が垣間見える気もする。

 きっと、今晩にでもこんな両価的アンビバレントな感情を抱くイベントが予定されていたに違いない。馬鹿な友人たちだ。もう、こんなものを隠しておく意味はないのに。

「境と世良田とミサが映った動画は六時から八時までの二時間。境と世良田が映った動画は八時から九時の約一時間。幾つかのデータに分割されているが、撮影されていないブランクに倉庫に向かったとするには少々無理があるな」

 おそらく、最終的に今回の別荘での様子を加えて、ある程度長いムービーにでも編集するつもりだったんだろう。動画は無駄に思えるシーンも包括して撮られている。

 となると、事前に木崎の映った動画も作ってあるのかもしれない。或いは、午後にでもチーム分けする予定を入れておいて、そこで撮影するつもりだったのか。

 疑えば、この動画自体も作為的なものと見ることができるかもしれない。しかし、そんなことまで疑う自分に少々うんざりしていた。背景に映る積もった雪や、テーブルの上のグラスの位置や、ベッドのシーツの皺。そんな再現の難しい証拠を動画内に見出だせなければ、その好意を信頼できない自分に。

 その後は、そのまま世良田の部屋の窓の造りを確認し、全客室の窓が同様の構造であることを確認した。それらはいずれもシャワー室やトイレの窓と同様に、人間が出入りするには無理がある構造だった。

 つまり、別荘の出入りは玄関か二つの裏口か、いずれかを使わなければ不可能ということになる。まさか、ミステリでもあるまいし、隠し扉や隠し通路の類があるとも考えにくい。

 僕とミサは東の裏口から外へ出た。

 外気は冷たく、透き通っていた。殺人が起きた後でなければ、気持ちのいい朝だっただろう。森の声が反響せずに白い雪へと吸い込まれていく。静寂が、全てを虚無的に感じさせた。

「足跡は、それぞれの裏口から最短距離を取っていない」

「東口と西口のちょうど真ん中辺りから倉庫に真っ直ぐだね」

「ああ、まあ、普通はそうするだろうな。屋根や庇で雪が積もっていないエリアがあるなら、行けるところまで移動する。絶対ではないが自然だ。不幸なことにね」

 そう、その行動によって、足跡の主はどちらの裏口から外に出たのか、確定しない。もっとも、疑い始めればそれも蓋然性の域を出ないのだが。

「犯人が使った長靴はどちらにあったのかな」

「長靴はどちらにもあったよ。痕跡は残っていない。その議論は意味がなくなった」

 僕らは足跡が伸び始めている位置まで移動する。倉庫に移動するとき、僕は念のため遠回りするように全員に要請した。足跡を消さないために。

「そもそもなぜ四筋あるのか、そこが解らない」

「行きと帰り、足跡の主は一緒なのかな」

「一緒だ、倉庫には人がいなかった。戻った足跡がある以上、向かった足跡がある。逆も然り」

「行きは雪が降っていて消えたんじゃない?」

「その人物は帰ってくる、帰りの足跡の一筋はその人物のものだ。しかしその人が帰ると倉庫は無人になる。その後もう一組往復の足跡が別に作られたとしても、行きの一筋が足りない」

「一筋は不動さんのものだったなら、その分は一筋だけで済むんじゃない?」

「同じだよ。倉庫が無人なら、帰りの二筋はいずれも倉庫から出るときのものだ。行きの一筋が不動久遠だとして、もう一筋が犯人だとする。帰りは犯人が一筋作れるが、二筋は誰も作れない」

 つまり、不動久遠の足跡は雪が降る前か、雪が降っている間に作られ、そして降り積もった雪で消えたということになる。

「難問だね」

「……難問だが、これは切り捨てても構わないように思う」

「どうして?」

「考えても答が出ない。つまり情報が不足している。或いは消失して手に入らない。事実として何者かが別荘と倉庫を二往復した。或いは二人の人物が一往復ずつした。それでいいのかもしれない」

「なんでそんなことするの?」

「小説には動機があるかもしれない。だが、僕は正直動機なんてどうでもいいと思っている。論理に必要ならその時に拾い上げる。それまではどうでもいいよ。僕は動機には興味がない。合理的に、それが事実として起きたなら、それだけで十分だ」

 僕は独りことのようにそう宣言した。本当は、ただの負け惜しみかもしれない。真実が判らなかったことへの。いや、それとも、木崎が言うように僕には人間味がないのか。

「ミサ、戻ろう」

 僕とミサは西の裏口へと向かった。

「あれ?」

 西裏口の扉を開けようとして、異変に気づいた。その扉はガタガタと僅かに動くものの、思うように開かない。

「どうしたの?」

「開かないんだ。鍵はかかっていないはずだが」

 無理に開けようと思えば開きそうな様子だったが、おそらく二度と元に戻らなそうだ。僕とミサは回り込み、玄関からラウンジに戻った。


 ラウンジでは、相変わらず沈痛な面持ちで三人が卓を囲んでいる。気持ちとしては、全員自室に籠もって現実逃避したいところだろう。しかし、死体を見つけて何もしないのにも限度がある。そろそろ結論を出す必要があった。

「何か判った?」

 世良田は言う。昨夜真っ青になっていた彼女は、再び顔面蒼白の様子だった。もちろんその原因は別なのだが。

「妙な役を押し付けてすまない」

 続いて境。彼は落ち着いた様子だった。元々、彼はこのメンバーの中ではリーダー格だ。それに主催でもある。責任を感じているのかもしれない。

「何か判ったなら教えてくれ……なんで不動は殺されたんだ」

 木崎の口調には、怒りのような心境が見え隠れしている。快活な彼はもうどこにもいない。らしくもなく、貧乏揺すりをしている。

「悪いが、真相が完全に判ったとは言い難い」

 僕は言った。僕は探偵ではない。ミステリ作家ですらない。真実を突き止めるのは警察の仕事だ。だから、もう何も考えたくはない。

 そう宣言しようと口を開いたその時、不快な電子音がけたたましく鳴り響いた。全員がスマホを取り出すと、世良田のスマホが緊急地震速報を受け取り、大音量のアラートを発している。

「地震だ、今回もかなり大きいぞ」

 境はそう言うと全員に注意を呼びかける。

 激しい揺れが家具やテーブルの上のカップを揺らした。ミシリ、と別荘全体が木造建築独特の音を立てる。揺れは長くゆっくりと続き、まるで船の上に立っているようだった。

 揺れが収まると、僕はすぐにスマホを確認する。画面には緊急地震速報の通知が表示されている。隣県で震度5強の地震、現在地の震度は5弱。

 嗚呼――――最悪だ。僕は、この事件の犯人に思い至った。

「解ったんだね」

 僕の肩に、背後からミサの手が置かれた。僕を抱くように。

 振り返る。だがそこにミサはいなかった。そこにいたのは不動久遠だった。彼女は、僕に微笑みかける。

「どうしたの?」

 まばたきをした瞬間、不動久遠に見えていた姿が、ミサへと変わる。

「いや……なんでもない」

 僕は、一瞬だけ見えた不動久遠の姿を頭から必死に追い出した。今は、幻覚を見ている場合じゃない。それにしても、今の不動久遠はまるで――――まるで、天使だった。

「泣いてるよ」

 ミサがそう言って、冷たい指で僕の目元を拭った。

 僕は泣いていた。なぜ、その時涙が溢れてきたのか、僕には解らなかった。僕には悲しいことなど何もなかった。

 何もなかった、はずなのに。





◆ 読者への挑戦状


 犯罪には動機がある。

 結果があり、それに至る過程があり、それに符合する起因がある。結果が重大であればそれに至る理由もまた重要であることが自然だ。

 しかしそれは探偵術において必ずしも確定できる要素ではない。

 目の前にボタンがあれば、それが何のボタンか知らずとも押さずにはいられない人間はいる。欲求は時に理性と合理を飛び越える。それが重大か否かは主観に過ぎない。


 さて、科学においては、超越的な存在を仮定し、それを「悪魔」と呼ぶことがある。古典力学のラプラスの悪魔や、熱力学のマクスウェルの悪魔は、思考実験において想定された架空の超越者だ。

 さあ、ここで一つの仮定をしよう。この物語の犯罪者の動機は「悪魔」によるものである、と。あなたはこの物語の殺人や他の犯罪行為について、その動機を特定する必要はない。

「不動久遠を犯した人物、そして殺害した人物を特定せよ」

 これがあなたへの挑戦だ。

 そのための論拠はここまでの物語に示されている。たとえ作中の探偵が到達できない真実があっても、読者のあなたには三つの断章がヒントとなるだろう。


 そして最後に。

 このミステリにおいて、ノックスの十戒の内、九つの約定が果たされていることを、ここに保証する。





(解決編へ続く)

2020年6月13日 公開予定

2021年2月24日 改訂

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