第60話
熱戦のあと、体育館を抜け出して地下駐車場にやってきたぼくとくらげ。くらげは掴んでいたぼくの腕を解くと辺りを見渡してぼくに向き直った。駆けてきた事から弾む息、やや潤んだ瞳を見てぼくは少し目線を外して彼女に訊いた。
「いきなりどうしたんだ。こんな人気のない所に連れてきて」
目を離した瞬間だった。くらげはぼくに近づいてつま先を立てて背伸びをすると肩に手を置いて目をつむり、顔をやや斜めに傾けて突き出した口唇をぼくに近づけた。あまりにも突然の出来事に反応できず、柔らかなくらげの肌と吐息を受け入れるとしばしの接着の後、くらげはぼくの体から手を放してあっけらかんとした口調で言った。
「なんだ、初めてじゃなかったのね。結構以外」
ぼぅっとした頭を揺り動かすようにして体を震わせるとぼくは大至急、状況を整理する。
キスされたのだ。くらげに突然。それも口のど真ん中に。当の本人は自分でもその突発的な行動に驚いたのか「あはは」と口に手を当てて笑っていた。笑顔の中からくらげの瞳がぼくに向けられる。初めて見る、心を完全に許した相手にしか見せないような
「今日、アイツの試合観て分かっちゃった。くらげが一番好きなの、アイツじゃなくてモリアくんだって」
口調が完全に少女のものに変わり、ぼくは面食らいながら次の言葉を待つ。
「ああ、アイツの気持ちを引くためにキミにコーチを頼んだなんてウソ。そんな驚いた顔しないでよ。顔見知りの恋のライバルを目の前に見せたらアイツも少しは振り向くと思ったんだけどホント、産まれつきの卓球バカって感じ。てか、キミも鈍感すぎるよ。女の子が男の子とみんながひとつの大会をやり遂げたんだから。相手を意識しないなんてありえないじゃない」
「オレとショージを天秤にかけてたのか」
「そんな、騙してたみたいな言い方しないでよ」
くらげが小首をかしげてぼくの瞳を見つめた。長い髪がもたれるように顔にかかるとそれを手でかき分けてくらげは言った。
「わたし、モリアくんが好き。キミが良かったら付き合って欲しい……って言っちゃった!自分でもびっくりなんだけど!…キミはどう?」
笑いながら体を引いた彼女を見て、ぼくは彼女に抱いていた想いが崩れていく感覚がこみ上げてきた。高貴で、気丈でいつも笑顔を絶やさない稲毛屋くらげはどこにでも居る普通の少女が作り出したキャラクターだったのだ。目の前に立つ彼女は間違いなくぼくの知るくらげなのだが、ぼくは彼女がどうしても今まで一緒に過ごして、ミックスペアを組んだ相手とは思えなかった。
「ごめん、その気持ちには答えられないや」
驚いた表情で口を大きく開いたくらげは口元に手を当ててその場から一歩、飛びのいた。「まさか、断るなんてありえない」そんな態度の彼女に本心を告げた。
「今日のショージと地衣太の試合を観てもっと真剣に卓球をやらなきゃいけないと思った。もっと練習して、実戦積んで彼らと同じ舞台に立ちたい。だから今は誰かと付き合うなんてできないから」
「『今は』って。くらげは今しか付き合えないんだけど」
「どういう事だ?」
「くらげ、中3だから。来週から入試に向けて試験勉強」
「あ、そういうコト...」
キスをされた事より驚いた。ずっと同級生だと思っていたくらげはひとつ年上のお姉さんだったのだ。体育館を出てきた人たちの足音が響いてくる。くらげは残念そうな顔を浮かべたが、ぼくの言葉に納得したのか、うんうんと頭を揺らすと顔を上げてぼくを見て笑った。
「モリアくんもアイツと同じ、卓球バカだったってわけか。必死になって卓球覚えたくらげがバカみたいじゃん」
「それに関しては本当に、申し訳ないと思ってる」
「冗談よ。くらげ、めっちゃモテるんだから。アイツらと同じくらい、や、世界一の卓球選手になれるように頑張ってよ」
くらげはそう告げると再びぼくの肩に手を置いて耳元に口唇を近づけると妙に艶のある声でこう囁いた。
「くらげのファーストキス、大事にしてね」
そう言うとくらげは「ばいばい」と手を振って駐車場から地上に繋がる階段を昇って行った。ぼくは彼女の姿が見えなくなるまで振り返っていた。
――彼女と再開するのはたしか、数年後、しばらく後になってからだった。短い間だったけど一緒に濃密な体験をした事から明日にでも、会いたい時にでもすぐ会える感覚があったから、くらげがいない残りの青春時代は少し寂しかったのを覚えている。
ひとり、駐車場に残されたぼくは隅に置かれていた見慣れない高級車に目が行った。こんな田舎に電気自動車とは珍しい。近未来的な流線形のデザインにデカデカと主張する大きなヘッドライト。するとその車のハイビームがぼくを照らすとガルウィングが開き、中から背の高い男が現れてこっちに向ってきた。彼はぼくに近づくと長い右腕を天に突きあげるような勢いで伸ばしてこう叫んだ。
「せいしゅーーーーんっっ!!」
…おそらくぼくとくらげのキスシーンを見ていたのだろう。呆れの後に恥ずかしさがこみ上げてくる。ぼくは男の姿を見上げた。着崩した背広に耳元に光るダイヤのピアス。薄いサングラスにアッシュに染めた髪は後ろに流されている。どう見ても普通の職業の人間じゃない。身構えると「あれ?ボクの事知らない?真面目な卓球少年だって聞いたんだけど」と気の抜けた声が耳に届く。
「俺の事、知ってるんですか。貴方は誰です?」
「あー、ホントに知らないんだ。そういえばキミは帰国子女だったね。ボクの事はそれで知らなかったって、そう言い聞かせて自分を慰める事にするよー」
この男はどうやらぼくが中学入学前までイギリスに居た事を知っているようだった。男はサングラスを指で押し上げると色素の薄い瞳でぼくを射抜くようにして言った。
「ボクの名前は
――薬葉ステア。ぼくの今後の卓球人生は彼を軸にして動いていく事になる。次期代表監督を自称する彼がぼくに見せる新しい世界とは何か。新たな期待とまだ見ぬ闘いが無限の荒野に広がっている。ぼくは淀んだ空気を吐き出すように何度もその場で息を深く吸い込むのだった。
<完>
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます