第9話 月から隠れて4
『私の友人Aは家庭教師であった。女王であるべきための師であった。彼女の言葉は、呪いでもあり祝福でもあった。(中略)護ることを恐れてはならない。それは未来であると、彼女は私に微笑って言ったのだ』(「女王の手記」より一部抜粋)
――
バルコニーから宙吊りにされたオリヴィアは、なんとか縁に手を伸ばして掴もうとした。二の腕を強く掴む手の感触と服の裾が引き上げられる感覚に、背筋が恐怖で震えた。自分を掴む腕を強く握りしめてようやく、落下する感覚が止まった。慌てふためくエリザベスの声が頭に響く。
「わ、私…そんな、そういうつもりじゃ…!」
「エリー!」
「あ、おい!」
(やっぱり、あの女のとこに行くのね)
エリザベスのヒールの高い靴が走り抜ける音がした後、彼女を追いかけるエドワーズの声と足音を耳にする。慌てて呼び止めるフランツの声は、彼らを引き留めることはできなかった。現実から目を背けるように下を見る。ずるり、と下へ身体がずり落ち、宙に浮く自分のブーツが視界に入った。
「……下を見るな」
苦しそうなフランツの声に、オリヴィアははっと顔を上げた。フランツの顔の布はどこかに吹き飛ばされ、月の光に照らされた黒髪は艶やかに輝いていた。端正な顔立ちに浮かぶいつものふてぶてしさはなく、彼は痛みに顔を歪ませていた。
「離して」
「……黙れ」
私を掴む手は厚く逞しく、その掌に剣タコがあるのを感じるほどだ。あの時、彼が館から去る時にした握手は、手袋越しだっため気付くことができなかった。
「いいから。大丈夫だから」
ぶっきらぼうな彼は、いつだって誰かに優しかった。困っている人に声をかけ、傷付いてる人の隣に寄り添うことができる。自分が傷付いても、私を助けようとする。
(その行動だけで、私の重い心は軽くなったわ。だから、今度は私がその気持ちに答えなければ)
きっと彼には朧気にしか見えないだろうが、私は微笑んだ。私を見る彼の眉間の皺が深くなる。月の光を反射して、彼の蜂蜜色の瞳は満月の月ようで、吸い込まれそうになった。
「……顔がよく見れなくて残念だ」
彼が手を離す前に、強く私の手首を掴んだ。私が深く息を吸うと、彼は頷きその手から力を抜いた。
――…
オリヴィアの物心がついた時には、彼女の手元に本があった。悪漢小説、推理小説など数々のジャンルの中で、騎士道物語は特にお気に入りで、時間の合間を見ては本のページを進めていた。
「オリヴィアは、本当に本が好きだね」
「このごほんには、お父さまのようにやさしい騎士さまがでているんですもの」
「王子様はお気に召さないのかな?」
「とっても、すてきよ。でも、王子さまは、まもらなければいけないでしょう?このくにで、だいじな人は王子さまで、だいじな人をまもれるのは騎士さまよ、お父さま」
「いつかオリヴィアを守ってくれる騎士様が現れるといいね」
「なにをいってるのお父さま!わたしもいっしょにまもるのよ!」
戦う人が好きで、守ってくれる人が好きだった。きらきらの王子様ではなく、勇ましい騎士が好きだった。
「オリヴィア、今日から彼が貴女の婚約者になるエドワーズ様よ。さぁ、ご挨拶なさい」
「ごきげんよう、エドワーズさま」
私の婚約者は、王子様だった。小綺麗な身なりをした金髪の王子様。優しくエスコートして、その微笑みは私に安心を与えてくれた。母が亡くなった日は、見舞いの花を持ってきて、一緒にお茶をしては、何気ない日常を話してくれた。剣の稽古は不慣れで、勉学より芸術が好きな人だった。母が亡くなってから、家を守るために勉学に励んでいたオリヴィアにとって、エドワーズの誘いは良い息抜きになっていた。
「オリヴィア、」
初めてエドワーズと口付けを交わしたのは14の時。オリヴィアが寄宿舎から戻り、久しぶりに二人で劇場を観た帰りの馬車でのことだった。
「エドワーズ様?」
声変わりで低くなった彼の声と大人っぽく成長した彼の姿に、どこか私は緊張していた。彼が私の首筋に触れる。彼の薄い紫色の瞳に、長いまつ毛がエドワーズの肌に影を作る。
「その、目を閉じてくれるかい?」
嬉しさと恥ずかしさで熱くなった顔を誤魔化すように、私は静かに目を閉じた。彼の指が私の唇に触れ、私の心臓は高鳴った。彼の熱い唇が離れると、二人分の吐息が静かに漏れた。
―― 愛してはいなかったのかもしれない。それでも、恋はしていた。
彼の優しい瞳が私を見つめるたび、私の頬は熱くなった。手をつないで、身体を寄り添う日もあった。少しずつ夫婦になるのだと思って、より一層勉強に励んだ。
庭園を散歩するとき、私は薬草を見つけるたび使い方を語っていた。野宿をして毒を食べないように教えることもしていた。
―― 彼が怪我をしても私の話を思い出して、生き残れるように。
彼は、あまり良い顔をしていなかったけれど。
「さすがだね。僕より賢い君が言うだけある。」
「何かあるかわからないもの。」
―― 生きる速さは、皆違うことを私は知っている。
この頃から、エリザベスという女性についての情報が耳に入っていた。エリザベスとエドワーズがデートしてる話を聞き、その場所へ気付かれないように追いかけた。
エドワーズは、エリザベスに花言葉を教えていた。エリザベスはとてもうれしそうにその話を聞いてた。貴族なら知っていなければならない知識を、楽しそうに聞いていた。エドワーズはエリザベスの髪に花を挿して、エリザベスにキスをした。
「いや、仮面だよ」
真っ白になった頭を、彼の言葉が吹き飛ばした。私を愛していると、信じていた。いつか夫婦になり、その隣で私に安心と幸せを運んでくれると信じていた。彼の隣ではよき貴族で婚約者であるように振舞っていた。
今思えば、私は彼を愛していなかったのかもしれない。心では恋していたが、言葉や態度では言い表せてなかったのかもしれない。花や手紙を送っても、彼にとっては形式的な物だったのだろう。
エドワーズとエリザベスが去って、私はしばらくそこにいた。その後の言葉はあまり覚えていない。
私の心は、粉々に砕かれて散ったのだ。
しばらく放心状態だったオリヴィアであったが、やがて婚約が破棄されると察して行動を起こす。エドワーズの身辺で、不審な人物が出入りしていないか調査をした。エドワーズの変化は、環境の変化であり、そのきっかけはエリザベス含む人物であると仮説を立てた。公爵家の婚約者という大きな後ろ盾を失うことは、オリヴィアだけでなくルートレッジ家が管理する領地にも大きな損失を与えることになる。
「他人や環境は、簡単には変わらない。自分が変わることで、環境や他人は変化するわ。オリヴィア、急激に環境や人が変化した時は、気をつけなさい。貴女の変化がない時に、他が変化したことは必ず裏に何かあるものよ」
母の言葉が、オリヴィアを動かした。
―― きっと私は、エドワーズを愛していた。優しく私を触れる彼を愛していた。
愛されている私を知ることがうれしかった。おとぎ話の中のお姫様になったようで幸せだった。
―― けれど、そんな彼はもういない。私が愛する彼はもういない。
夫婦として私の隣に立つ男は、もうここにはいない。
「君は一人でも戦えるだろう?」という集団の一人になった。
―― 違う。この鎧は、家を守るためのもの。
「私」を守る鎧じゃない。
私の心はいつもむき出しで、誰かの言葉に傷付いて血や涙を流してる。自分の経験で苦しみや悲しみを塗り替えてきた。
―― あの時よりは、痛くないと。あの時よりは、辛くないと。
より深い悲しみの経験が、私を強くした。けれどその強さは、私を守ってはくれなかった。
エドワーズが選んだのは、自分の優越感を満たすことのできるお姫様だった。
私を賢いと揶揄し、強いと決めつけ、私を守ろうとしない男は、自身の隣でひたすら愛をさえずり、優越感を与え、弱さを見せるお姫様を選んだ。
彼は王子様だったが、私はお姫様にはなれなかった。
――…
オリヴィアの足元には、大きな水場、水泳場があり、瞬く間に透明な液体に彼女の身体は音を立てて飲み込まれた。
紫陽花は冷酷の花 花緒 @HANAO_novel
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