第8話 月から隠れて3


 フランツは顔にかかる布を指でめくり、隣に座るオリバーという人物の匂いを嗅ぐ。互いに仮装している上に、視力は十分に回復していない彼にとって嗅覚は人を判別する重要な要素となっていた。


(やはり、この匂い。あの女だ。ここに来るという情報は得ていたが、まさか男装していたとはな。この様子だと、エドワーズも知らないようだな)


 元婚約者とその相手と遭遇したとなれば、嫌でも彼女に好奇の眼差しが注がれるだろう。この仮面舞踏会の主催はクラーク家の長女リラである。クラーク家は一見どこにでもあるような貴族だが、その実態は王国御用達の素性調査等を行う興信所、一般的にいうと探偵である。


(クラーク家の配慮か、それとも旧友だったからか?しかし、この状況を作るのはどう考えてもわざとでしかないが…ここは楽しませてもらおう)


 自分の鼻を明かした女が、慌てふためく姿を楽しむことにしたフランツであった。苦笑いでエリーとかいう女の相手をするオリバーに聞こえるか聞こえないかの声で語りかける。


「オリバーか、なるほど。考えた物だな?」


 余裕綽々のフランツの態度に、苛立ったオリヴィアのブーツの踵が彼の足を踏みつける。


「……っ!貴様、」腹の底から振り絞るような声が、フランツから発せられる。

「失礼、フランツ殿」言葉を遮るように、オリヴィアは微笑んだ。

「ねぇ、みんな、私の話聞いてくれる?」


 しおらしいエリザベスの表情を見たフランツは、すでに聞く姿勢もなく空を眺めることにした。この手の話は長いことを経験上知っているからだ。隣のオリヴィアは、飲み物を口に運んだ。エドワーズと言えば、エリザベスの手をずっと握っている。


「この間、初めて夜会に誘っていただいたの」


 その夜会は、男性厳禁でお茶や菓子を互いに振る舞う会だと聞いた。参加条件は、各領地の特産品を使ったお茶菓子を持ち寄り、地元の職人による宝石や衣服を身にまとうこと。そこでの会話はとても退屈で、なぜ身に着けた宝飾の話やお茶菓子の話をしなければいけないのかわからなかった、と彼女は言った。


「だって、みんなそこはどこの?ここはあそこのよ?ってずーっと話してるの。だからね、私、婚約者のお話したいのって言ったの。そしたら、ほかの人なんて言ったと思う?出口はそこにありますわよ、ですって!!信じられないわ」


 要約すると、誘われたお茶会で帰るように促された、とのことである。

 

「それは、その、エリー、」言い淀むエドワーズ。

「酷いわ。女子会だと思ったの。恋バナとかできると思ったのに、みんな自分の領地の自慢話ばかり。かわいいお洋服とお菓子を用意してもらったのに、自慢話だけでなく帰るように言われたのよ?帰り際によくわからない本も渡して」


 わたし、かわいそう!と言わんばかりのエリザベスの態度にフランツは鼻を鳴らす。


「くだらん。『女王の手記』を読んでいれば、そんなことは起きなかっただろうに」

「な、何よ!そんなもの知らないわ」

「もしかして、エリー、『女王の手記』を読んでいないのかい?」

「なぜわざわざこの国の女王様の日記を読まなくてはならないの?」

「手記は日記ではなく、女王自ら書き残した知恵のことだ」マスクの下で苦々しい表情のオリヴィアがすかさず訂正する。


 平民上がりのエリザベスにとって、貴族は華やかに豪遊するものだと思っていた。実はその実態はまったくもって別物である。領地からの税収は、貴族の財産となるがその一部は国へ納められ、残りは領地の舗装などに使用される。税収も国が定めた規定以上を搾取できないようにされており、数年に1度の頻度で税収の使い道の調査が入る。

 つまり、お金を増やしたければ、領地の農民や職人のお金を増やすことが手っ取り早い。アルノー王国における貴族は、その領地の経営者であり管理者であり、自治体などの役割を持つ等、今でいう役所に近い役割も担っている。


「『女王の手記』は貴族のルールやマナー、振る舞いがすべて書いてあるんだよ」諭すようにエドワーズが言った。

「『貴族はその領地の広告塔として振舞わなければならない』」フランツが淡々と言う。

「そ、そんなの誰も、教えてくれなかったわ!」

「いや、教えてもらってるはずだよ。君にも家庭教師がいるだろう?」


 言った言わないの押し問答に飽きたフランツが、席を外してバルコニーの縁へ風に当たるようにもたれる。混乱するエリザベスの面倒をエドワーズに任せ、オリヴィアはフランツの隣に立つ。少し冷えた夜風が肌を撫でる。

風下のオリヴィアは、懐かしいフランツの香りにどこか穏やかな気持ちの自分に気付いた。オリヴィアの目の前では、エリザベスをなだめるエドワーズがいるというのに。


「お前の後がアレか。なぜエドワーズはアイツを選んだのか検討がつかないな」フランツが飽きれたように言った。

「ふっ、言うまでもないでしょう?」自虐的にオリヴィアが笑った。

「あー、お前可愛げないからか」見上げた布の下でフランツがにやり、と笑っている。

「失礼なお方だ」


 釣られてオリヴィアも笑ってしまったが、誤魔化すように帽子を直した。銀髪の房が、はらりと彼女の白いうなじに零れる。その髪を直そうとフランツが手を伸ばした時だった。


「オリバー様ぁ、慰めて!」

「こら、エリー!」


 猫なで声のエリザベスが、オリヴィアの胸に抱きつく。婚約者がいる身とは思えない振る舞いに、オリヴィアの表情が凍る。


(なんて……あぁ、そうやって彼に振舞ってきたのですね。)


 オリヴィアの表情の変化に気付いたのか、フランツはオリヴィアとエリザベスの間に入る。


「おい、離れろ」

「だって、あの人たち、私のこと馬鹿にしたのよ!偉そうな振る舞いをして、私に恥をかかせたのよ!夜会に入る前に彼女なんて言ったと思う!?貴女は私の後ろで学びなさい。話さなくてもいいって!エドワーズもあんな人達をかばって酷いわ!私だってちゃんと挨拶の作法できるのに!」


 エリザベスはなおもまくし立てる。私は悪くない、と。その夜会の誘いはオリヴィアにも届いていたが、別の要件があると断っていた物だ。だから、彼女はその主催者のことをよく知っている。


「お前な、いい加減に…」

「私がオリバーさんばかりに構ってるからフランツさん、妬いてるんですか?でも、ダメよ。私はエドワーズの物だもの」エリザベスはにっこりと微笑む。


 声を荒げそうに苛立ってるフランツに片手をあげて、オリヴィアはその言葉を遮る。


 エリザベスの言動に苛立っていたオリヴィアの何かが切れた音がした。


「……婚約中の身でありながら、随分と奔放でいらっしゃること。」


 オリヴィアは挙げた手を、自分の腕に巻き付くのエリザベスの腕を掴み引き剥がした。

夜会にエリザベスを誘った人は、人を辱めようとする人物ではない。貴族がどのような物であるかを教えようとしたのだ。家庭教師による座学ではなく、実践で人との関わり方、会話の仕方を見せようとしたのだ。彼女がいつか貴族の中で生きる時、糧になると思ってのことだろう。


「え?」


 風が強く吹いた。

厚い雲が月の前を通り過ぎ、バルコニーが陰る。

鉛色の雲が通りすぎ、再び光が差し込んだ時、帽子とマスクを外したオリヴィアの素顔が晒された。月の光を浴びた髪は銀細工のように煌めき、べっこう色の双眸は金細工のようだ。


「え、あ…オリヴィア様?なんで……い、いや!放して!」


 オリヴィアの視界には、青ざめた表情のエリザベスが映り、目の前の大きな月が回転したと思ったら、顔を引きつらせたフランツがいる。掴まれた私の腕は痛み、ようやくそこで身体は宙に浮いていることを知った。


「……悪い冗談だっておっしゃって。」

「悪いな。そんな余裕はない。」


 エリザベスに突き飛ばされたオリヴィアは、バランスを崩した拍子にバルコニーの向こう側へと身体が投げ出され、隣にいたフランツが咄嗟にその腕を掴んでいた。


「貴方、まさか……」


 オリヴィアを掴むフランツの額には脂汗が浮かんでいた。彼女を掴む拍子に傷口が開いたのだろう。オリヴィアの手から離れた帽子が、風に吹き飛ばされて彼方へ消えた。


――…


 一方その頃、フランツの護衛として会場に来ていたエミールは。


「ねぇ、君ここに来るのは初めてかい?よかったら、1曲お相手しても?…大丈夫、ゆっくりでいいよ」


 会場で女性を口説いていた。

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