郷里のおもかげ
未琳
郷里のおもかげ
軽自動車だと高速を乗り継いで約十時間かかるよ、と弟は事務的に伝えてきた。後部座席にパンパンに詰め込んだ私の荷物一式の横に置かれた、汚れのない百貨店の紙袋は久々の東京巡りを謳歌した弟の買い物だ。あとで知ったが、都内限定でしか販売されていないスイーツを大量に購入していたことが判明した。相変わらずスイーツに目がない弟である。
バイブレーションの音でスマホを開くと、母からメールが入っていた。引っ越し業者に頼んだ大型の荷物は今日実家に到着したという内容だった。「分かった、ありがとう。今帰るところだから、家に着くのは夜十二時過ぎるかも」と打って返信する。
できることなら荷物は全部引っ越し業者に預けて、最低限の携行品だけ持って羽田空港から飛行機に乗って帰りたかったけれど、実家に帰ることを決めた日から昨日弟が駆けつけるまで私ひとりでは何もできなかった。引っ越しの片付けも、飛行機の座席予約も、近所のコンビニに行って弁当を買うことすらも。両親が私の事情を察して、弟を寄越してくれたのは有り難かった。
実家に帰るまでちょっとした長旅だなあ、と思いながら助手席の背もたれを倒して横になる。弟はなにも言わず、カーナビを操作していた。フロントガラスに映る景色に目をやると、地元では到底拝めなかった太陽に反射するガラス張りの高層ビルが次々と流れていく。
三年前の春、上京してきたばかりの時は高層ビルの群れにひたすら圧倒された自分が懐かしくなる。三年はあっという間だった。最初は地元と都会のローカルギャップに驚かされて、職場の上京組の同期と切磋琢磨しあって、親元を離れての就職だからお互い頑張ろうね、と言えた私はもういない。
なんでも夢が叶えられると信じていた東京から、しばらくおさらばだ。
色々と考え事をしていると頭が痛んできたので人差し指の第二関節でこめかみをぐりぐりとマッサージする。だけど痛みが引かないので、今度は両耳を外に向けて引っ張った。自律神経を整える方法としてネットの記事で紹介されていたのでとりあえず実践している。
「姉ちゃん、高速入る前に休憩しようや」
インターからサービスエリアまでがぶち長いんよ、と弟はぼやきながらハンドルを切った。
「ここ、本当に東京なの?」
「って、ナビには表示されとるよ。姉ちゃん、行ったことないん?」
「無い」
私が行く場所といえば、渋谷・原宿・銀座と決まっていた。そこに行けば大抵の物が揃っているからだった。
弟が休憩場所に選んだのは武蔵野市の都立公園だった。公園、とはいっても子供の遊び場とはスケールが断然違う。広々とした野原で駆け回る子供達から、双眼鏡片手に雑木林に隠れた野鳥を探している大人達まで。柔らかに茂る緑の中で、老若男女が自然を謳歌している場所だった。
「渋谷とかで買い物楽しむのもえかったけど、東京で緑の多いところに行くのもかえって新鮮じゃの。俺らの地元の緑とはなんか違うもん。なあ姉ちゃん」
運転の疲れをほぐすように、弟は身体をうんと伸ばす。森林浴を楽しんでいる弟を横目に、私は誰も座っていなかった木製のベンチの端に腰を下ろす。屋根がないのに汚れが付着していないのは日頃から清掃が行き渡っている証拠だろう。そういうところに目がいくのは私が田舎育ちゆえか。地元にあるベンチといえば大抵砂埃を被っていて、あのベンチを利用しているのは羽を休ませるカラスぐらいだと友達と冗談を言い合っていた。
そういう意味では、東京という都市はとても綺麗な土地だ。綺麗なところにはいろんなものが寄ってくる。
「今日、祭りでもあるんかね?」
あれ、と言いながら不思議そうに弟が尋ねてきたので顔を上げると、指を差した先にあるのはフードトラックだった。
「東京だと、普通の日でもあちこち回ってるよ。うちの会社の近くにもよく売りに来てたもん」
「ええなー。毎日がお祭り気分じゃん」
地元だとフードトラックなんてお祭りの屋台でしか見かけないから、弟にとって珍しい代物のようだ。
地元で就職した弟は、私が住んでいたマンションを宿代わりにして東京に遊びに来てはいちいち地元との格差に驚いていた。かつて私もそうだったから気持ちは分かる。
移り変わりが早い東京の景観に追いつくことに必死で、最先端と名の付くものが滝のごとく溢れる感情。周りはその滝から流れる水を追おうとするけれど、私は遠くで滝を眺めているだけで精一杯だった。そのうちいろんな人に追い抜かれて、追い越されて、やがて自力で追いかけることすらできなくなった。今の私を動かせるのは、病院から処方された薬と私を理解してくれる家族だけだ。
「姉ちゃん、また動悸が起きたん?」
心配そうに腰を降ろした弟の声で、無意識に自分の胸を抑えていたことに気付いた。不快な低い心音が指先から伝わってくる。
「大丈夫。少し休めば治まるから」
「無理せんでええよ。落ち着くまで座っとき」
「ありがと。あ、じゃああそこのフードトラックで飲み物を買ってきてくれる?タピオカミルクティーがいいな」
「分かった。姉ちゃんはここで待っといてね」
そう言い残して、弟は先ほど話題にしたフードトラックまで駆けていく。すっかり逞しくなった弟の背中を見ていると、姉として情けなくなった。昨日から引っ越しの片づけ、手続き、迎え、飲み物を買いに行くことさえ弟に頼りっぱなしだ。病院の先生から自分を責めないようにと再三言われているにも関わらず、すぐそんな思想に陥るから動悸症状が起こる。
一向に治まる気配がないので、私はゆっくり立ち上がり深呼吸をすることに決めた。両腕を上げて身体を上下に伸ばし、思い切り鼻から息を吸った。
吸った空気から、私の育った田舎とよく似た匂いを感じた。同じ花、同じ樹木、なんの匂いかは分からない。どんな匂いとも言葉では現せないけれど、確かに懐かしい匂いがしたのだ。
風の音。木々のざわめき。土の感触。木漏れ日。呼吸をするたびに、私の心は郷里に帰っていく感覚がした。
ここの空気が私の体内に吸い込まれて、体内の血流は循環し、鈍くなっていた頭が目覚めて、学生時代まで過ごしてきた地元の景色が脳裏に浮かんできた。
上京してから、こんな感覚に浸ることは一度もなかったのに。
ひどく心地が良くて、郷里と既視感すら覚えてくる。田舎育ちの私には、武蔵野市の自然は相性の良い場所だったのか。
見上げると空は晴天だった。植物の緑が空の青さを一層引き立てている。そういえば自然と空を同時に見たのはいつぶりだろう。
そんな感傷にふけていたら、弟が私を呼ぶ声で現実に戻された。両手にタピオカミルクティーを持って戻ってきた弟はやけに興奮していて、片方を私に渡すなり目を見開いて言ってきた。
「『タピる』って本当に今の若い子は使ってるんじゃな!リアルでそれ言っとるのさっき初めて聞いたわ!」
思わず私は噴き出した。テレビで散々流行りものを特集してても、田舎では一切話題になってないのはよくある話だ。地元にタピオカミルクティーが売ってる店舗があるかどうかすら分からないのが私の育った地元だ。
太いストローを摘んでタピオカミルクティーを啜る。それだけで弟は都会にいる気分を浸っているけれど、私は郷里を彷彿とさせる空間で味わうことに、とても贅沢な気分がした。
動悸症状は、いつの間にか治まっていた。
郷里のおもかげ 未琳 @shine7
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
私は退職に未練はない/未琳
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます