Track.11 Never Meant

 驚いた。彼の口からその名を聞くとは思っていなかった。

「そう、ネストポール。ありがとう。篠塚くんがロック好きだって、ぜんぜん知らなかった」

 彼は視線を彷徨わせた。やがてゆっくりと唇を開いて、

「正直に言うと、音楽には詳しくない。ロックもほとんど聴いたことがない。ただ眞見さんがやってるバンドだって聞いたから、観たくなった。それだけ」

 微笑している。またしても予想を覆されたようで戸惑った。ともかくも言葉を探した。

「いつのライヴ?」

「五月と、六月も。ほかにも何組か出てたけど、ごめん、そっちはよく」

「どうだった――かな」

「格好良かったよ、すごく。覚えてないだろうけど、二回とも本当に真正面にいたんだよ」

 ありがとう、と繰り返して相手を見返した。篠塚は続けて、

「そのあともチェックしてたんだ。今は活動休止中っていう認識で合ってる?」

 燈火は小さく頷き、

「私が咽を痛めて」

「それも聞いた。ヴォーカリストって、やっぱり負担が大きいんだね」

「歌うのが大変なのはみんな一緒だから。私の管理の問題。ヴォーカリストとしては失格だよね」

 そんなことは、と篠塚。気を付けていても調子が崩れるときは崩れる、仕方ない、と穏やかに言う。義理いっぺんのようには聞こえなかった。

「プロでも故障する人はいるよね? 病気だもん、どうしようもない」

 この線の細い、生真面目な容姿の青年が、本心から自分を気遣ってくれているのだと思うとありがたかった。絆されたような気がしてきた。

「あのときは、自分でもいいパフォーマンスができてた気がする。でも同時に、もっと上手くなれる、このメンバーだったらどこまでも行ける、とも思ったの。バンドとしての絶頂期だったのかもしれない。だから、やっぱり申し訳ないし、悔しいよ」

「悔しいのは分かる。でも自分を責める必要はないはずだよ。周りを気にしすぎたら療養に専念できないでしょう」

「そうなんだけど――私はもう、みんなを待たせすぎてる。実際、リードギターは抜けちゃった。私のせいでバンドが立ち止まってるのは事実だよ」

 言ってしまってから、愚痴ってごめんね、と慌てて付け加えた。篠塚はかぶりを振って、

「別にいいよ。俺なんかでよければ、幾らでも話は聞く」

「格好悪いね。こういう内側の部分って見せるべきじゃないのに」

「立派だと思うよ。けど――しんどくならない?」

 答えに迷った。沈黙を、篠塚は肯定と読み取ったらしく、

「バンドにも事情はあるんだろうけど、負担を抱えすぎるのは健全じゃない。しょせん外野の意見と思われるのは承知してる。でも本音はそうなんだ。つらそうな顔をしてほしくない。正直――」

 彼は言葉を詰まらせてから、やがて意を決したかのように、

「音楽から離れてでも、回復を優先してほしい。もっと自分を大切にして、楽しめることをしてほしい」

 燈火は困惑した。単なる同級生に対して、彼はなぜこうも心を砕くのか。端くれとはいえミュージシャンたる人間に、そうそうかけられる言葉ではなかろうに。

「音楽から離れたら、私にはなにもなくなっちゃう」

「そんなはずないよ。眞見さんのいいところなら幾らでも挙げられる。本当に」

 例えば、とは問わなかった。こそばゆさに、言い知れぬ悲しみが混在している。彼がどう言おうとも、きっと自分は納得できないのだろうという気がした。

「私、まるっきり駄目ってわけじゃないのかもしれないけど、今はぜんぶが遠く感じるの。今の自分じゃ、どこにも手が届かないって」

「単純に不調だからだよ。体が良くなれば変わる。いや、元に戻るよ。休むことに罪悪感を持ったりしないほうがいい。本来は周りがバックアップすべきことだよ」

「篠塚くんの言うことが、たぶん正しいんだと思う。でも上手くいかない。誰が悪いんでもないのに、噛み合っていかないの」

「それは、もうバンドとして成立してないんじゃないかな」

「メンバーは欠けた。亀裂も入った。でも、まだ終わってない。ネストポールは、私にとってはいちばん大事なものなの。そういうこと――言われたくないよ」

 愕然とし、乱れた口調でそう告げた。しかし篠塚は動じることなく、

「俺はバンドより眞見さんの健康のほうが大事だよ。はっきり言って、バンドはどうだっていい。眞見さんが笑顔でいられる場所ならもちろん応援するけど、そうじゃないなら応援できない」

 燈火は唇を震わせた。自分が驚いているのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、あるいは感謝しているのか判然としなかった。ただ激情としか呼びようのない混沌が渦巻いて、視界が赤く染め上げられたようだった。やっとのことで息を吐き、

「ごめん。私は」

「急にこんなこと言って、混乱させたのは分かってる。でも考えてみてほしいんだ。俺は――眞見さんの味方でいたい。たとえ独りよがりでも」

 顔を背けた。どうすればいいのか分からなくなっていた。やっとのことでバッグを探って財布を取り出し、千円札を何枚か抜き出してテーブルに置いた。

「本当にごめんなさい。今日は帰る。ちょっと独りで頭を冷やしたいから」

 引き留められはしなかった。逃げるように独りで店を出た。途端、夜の空気に頬を刺された。息を吸い上げれば肺の奥まで冷え冷えとし、痛いほどだった。住宅地の灯りが遠ざかる。

 歩くうちに視界が潤んできた。また同じだ。手を差し伸べんとしてくれた人を振り払い、つまらない意地を張っている。それでなにが得られるでも、どこへ行けるでもないのに。

 自分を置いて先に行けばいい、という葵に対する自身の言葉が、脳裡に甦っていた。選択を相手に委ねる不誠実さを、今さらのように痛感してもいた。なぜあのとき、私が辞める、と言えなかったのか。

 否、身を引くならば、もっと早く決断するべきだった。そうすれば余計な停滞を招くことも、優れたリードギタリストを失うこともなかった。稀有な才能を有する人々を振り回し、バンドを混乱させ――馬鹿みたいだ。

 声が出なくなったから抜ける。きわめて真っ当な申し出として、それは了解されただろう。曖昧な可能性を残さなければ、葵も新たな道を模索しただろう。そして死に物狂いの努力によって、ネストポールと同等の評価を勝ち取っただろう。由宇も、繭も、再始動したバンドを支えてくれただろう。

 彼女らの疾走を、傍らから眺める自分を想像した。物淋しさや羨望はむろん生じよう。しかし最後には、正しい選択をしたと納得しうるのではないか。そこで誰かに寄り添ってもらえたなら、それはそれで悪くない、凡庸たる人生に相応しい小さな幸福を手にできたのではないか。

 帰宅しようとしたはずが、足が自然と家でない方角を向いていた。泣きべそをかいた顔で、冬の風に晒されながら、あえて向かうべき場所などあろうはずもない。頭では分かっていても、歩みが止まらないのが不思議だった。捨て鉢になり、感覚に任せて歩きつづけた。ふと顔を上げると、公園の入口の灯りが、燈火を照らしていた。

 しばらくのあいだ、白々とした光を浴びてぼんやりと立ち尽くしていた。学生のグループや恋人たちの姿ばかりが目に付く。日中よりも騒々しいほどだ。家族連れやジョガー、犬の散歩者に代わり、今の時間帯は彼らがこの公園の主役らしい。

 手を握り合って歩く男女と頻繁にすれ違う。顔を見合わせては口を開けて笑っているふたり、伏し目がちになりながら静かに言葉を交わしているふたり、お揃いのカップをもう片方の手に携えて、落ち着く場所を探しているらしいふたり。

 舞台の上が遠い夢想の世界なら、こうした世界は自分のいる現実と地続きなのだろうか。彼らのように笑えるだろうか。晃彦小父さんに自信をもって報告できるだろうか。不器用ながら可能なような気も、こちらもまた蜃気楼めいた別の夢想にすぎないような気もした。いったい何処に身を置いて生きるべきなのか――そもそも元来の願望がなんであったのかさえ、今の燈火には分からなくなっていた。

 音を、耳が捉えた。喧騒の中に入り交じった、幽かな旋律だった。燈火は立ち止まり、視線を巡らせた。

 他の誰も気に留めていない。自分にしか聴こえていないのかもしれない。幻聴ならば幻聴で構わないと開き直って、それらしい方向に足を進めた。狭い通路へと折れ、緩やかな坂道を下り……少しずつ人の気配が失せ、入れ替わりに、旋律が明瞭さを増しはじめる。

 辿り着いた、と思った。小さな時計台と、石造りのベンチ。そこに腰掛けた人影は確かに、アコースティックギターを抱えていた。掻き鳴らして歌っていた、胸を締め付けるような声音で。

「見つかった」

 影が手を止めて言った。別れて幾らでもないのに、懐かしすぎた声のように、それは響いた。

「なに泣いてるの」

「もう会えないかもしれないと思って」

 近づいてきた女に、燈火は声を張った。向かい合った藤代息吹が、弾けるように笑いはじめた。

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Snowbirds and Townies 下村アンダーソン @simonmoulin

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