Track.10 Two Conversations
息吹に電話を架けたくなったが、声を聞けば必ずや会いたくなることが分かっていたから、燈火は逡巡した。そのうち番号も、アドレスも、彼女に繋がるものはなにひとつ知らないのだと気が付いた。連絡先の交換さえ申し出なかった自分を悔いた。失態だ。
アパートの場所は漠然としか記憶していない。生まれつき方向音痴なのだ。仮に覚えていたとしても、いきなり押しかけることなどできようはずもないが。
「馬鹿だな、私」
と呟いた。珈琲を飲み干して再び、
「本当に馬鹿」
年末に帰省するとして、晃彦小父さんにどういった報告がしたいのかと、燈火は考えた。咽が復調し、ネストポールが再始動し、これまで以上の成果を収め、といった諸々は、いずれも現実味に乏しい。ヴォーカリストとして舞台に立つこと自体が、遠い蜃気楼のように感じられてならない――今となっては。
使い終えたカップを洗う。スポンジを握りながら、浮ついた思考が少しずつ冷えてくるのを味わっていた。晃彦小父さんに会うとすれば、正月の集まりである。大学生にもなって、新しい友人を得た――得るかもしれない程度のことを、揃い踏みした親戚の前で嬉々として話せようか。それよりも、と誰かが茶々を入れるだろうと安易に想像できた。恋人はできたのか、燈火は。
私はいつまでも子供っぽく頼りない、という例の感覚が、またぞろ胸中に垂れこめてきた。じじつ燈火の目には、周囲の誰もが大人びて映っている。自分だけが頑なに同じ場所に留まって、見向きもされない宝物を掘り起こすのに躍起になっているように思われることが、一度ならずあった。
またスマートフォンが震えはじめた。今度は講義で同じグループに割り当てられている同級生からだった。次回の発表に備えて全員で話し合いをするのだという。夕食がてら相談する約束を取り付けた。必要な資料を引っ張り出す。
時間を見計らい、文系キャンパスにある、カフェテリア形式の学食に出向いた。すでに到着していた男子学生が燈火を見とめて手招く。名を篠塚といい、確か神奈川出身。知っているのはその程度だ。語学でも同じ講義を取っているから顔を見かける機会は多いものの、実際に言葉を交わしたのは数回ほどである。
「みんなはまだ?」
と向かいの椅子を引きながら訊ねる。彼は頷いて、
「岡野さんがもうじき。諏訪はサークルの会合かなんかが終わってから来るって。先に軽く見ておこうか。次は『コミュニケーション行為と戦略的行為』か」
雑談とも議論ともつかない会話を、しばらく続けた。指定のテキストのみならず関連の文献まで読みこんでいるらしく、篠塚の弁説は淀みなかった。こちらは該当の章をいい加減に眺めたのみだというのに。
「なんだか素養っていうか、知識の土台がぜんぜん違う感じ。他にも社会科学系の講義、受けてる?」
「宗像先生の概論と、あとは水曜の行動科学も。今のところ、そっち方面の研究室志望だから。眞見さんはもう決めてる?」
専修を決定して各研究室に割り当てられるのは二年次からだ。文学部の一年目は広く一般教養を学ぶカリキュラムとなっている。
「まだ。いろいろ受けてみて考えようかなって」
「うん。そのための般教だしね」
曖昧に笑ってみせながら、燈火は少し憂鬱になった。それなりに名の通った大学へ進学したくらいだから、学問への関心は皆無ではない。とはいえ大学生活を、バンドを存分に楽しむための時間と見做していたのも事実だった。いずれは自身の進路について熟考すべきときが訪れよう。しかし今はまだ――そう思っていた矢先の発病だった。
これまでの自分は、音楽に生きているという実感に、夢追い人と見做されても構わないと開き直る蛮勇に、背中を押されて走ってきたのだと思った。声という唯一の武器を失った今では、自身を取り囲む現実が急速に鮮明さを増して感じられる。十八――もうじき十九になる若者が見据えるべきものは、いつだって無数にも存在するのだ、と。
「遅いな」
篠塚がスマートフォンに視線を落とした。気付けば約束の時間を大幅に超過していた。メンバーが揃わない段階で食事を始めるわけにもいかず、ただウォーターサーバーの水だけを手許に置いて話しつづけてきたのである。
「なんだ、岡野さんがキャンセルだって。諏訪は来るらしい。発表担当なんだから早くしろって催促しておいた」
さらに十分ほど過ぎたころ、寝乱れたような髪をした青年がふらりと姿を現し、頭を下げながら近づいてきた。諏訪、遅いぞ、と篠塚が苦言する。会合云々という話は真実だったらしく、諏訪はサークルの名前がプリントされたスウェットパンツを穿いていた。
「邪魔して悪いな。さっさと終わらせて消えっからさ」
「邪魔もなにもないだろ。レジュメ、もう作ってあるのか?」
「喋るとき使うやつはいちおう。ざっと目を通してもらって、修正点があれば指摘してくれ。そこだけメモって俺は帰る」
資料を受け取りながら、燈火は顔を上げ、
「諏訪くん、やっぱり忙しいの?」
「まあ、いろいろと」
言いながら、なぜか篠塚のほうに薄笑いを向ける。愉快そうな表情だった。
「忙しいなら早いとこ始めよう。じゃあまず、ハーバーマスが妥当要求の三つの条件について説明したところだけど――」
そこからの作業は手早かった。挙がったいくつかの論点を書き込むだけ書き込むと、諏訪は資料を片付けて去っていった。待ち時間のほうがよほど長かったくらいである。燈火は再び、篠塚と取り残された。
「サークル、大変なのかな」
「どうだか。このあいだ徹夜麻雀とかやってたけどね。せっかくだから飯、食べていこうか」
誘われて列に並ぼうとしたが、この学食の目玉であるチキンカツ定食が売り切れとなっていた。篠塚は明確に落胆した様子を見せ、これじゃあここに来た意味がない、とまで言いはじめた。
「カレーにでもしようかな。でもカレーだったら北キャンパスのほうが量があって旨いしなあ。だったら『みしろ』にでも――」
大学の近くにある定食屋である。学生のあいだでは有名で、熱心に通う愛好家も存在すると聞いたことがある。とはいえ燈火自身は行った経験がなく、そのうち一度くらいは、と思っていたのみである。
「緑の饂飩の店?」
「そうそう。見かけはインパクトあるけど、食べやすい味だと思うよ。行ってみる?」
じゃあ、と深く考えずに頷き、追従した。『みしろ』は文系キャンパスから歩いて十分ほどの、住宅地の中にあった。外観はほとんど民家と変わりなく、篠塚と一緒でなければ確実に見逃してしまっただろうと思えた。よく見れば入口の傍らに、店名を記した古びた看板が立っていた。
いかにも学生向け食堂らしく、店内は雑然としている。若者が多いが、サラリーマン然とした男性客の姿もある。奥の二名掛けの席に通された。メニューを眺めてみれば緑色の麺をした饂飩があり、よもぎが練り込まれていると説明がなされていた。
ふたりで同じものを頼んだ。出てきた饂飩は、香りも風味も、確かによもぎである。
「――眞見さんってバンドやってるんだよね」
食事中、不意にそう問われた。燈火は箸を握った手を止めて、
「うん。エモの――ジャンルでいうとパンクの仲間なんだけど、ちょっと激しめの」
「そう呼ぶんだ。実は俺、観に行ったことがあるんだよ。ネストポール、だよね?」
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