Track.9 Dear You
同じビルで適当に食事を済ませようと思い立ち、エスカレーターを上がった。途中、眼前に楽器店のフロアが広がった。そういえばここにも入っていたのだったか。
意識を引かれたのは、出入口のすぐ近くにアコースティックギターが並んでいたからである。いずれも中古品の札が貼られている。安価なモデルが大半だったが、中には工房で生産されたような中上級者向けの品もあった。
歩きながら、息吹の部屋で見たギターが置かれていないことに安堵している自分に気付いた。まだ手許に残すと言っていたのだし、そう簡単に売り払いはするまいと納得したつもりでいたのに、内心では不安だったのだろう。まだ彼女の歌を聴かせてもらっていない。気が向いたらね――という言葉が耳朶に甦った。いつになることやら。
店員が近づいてきた。試奏を勧められたので、曖昧に断って店を出た。咽に声が引っかかるようで、発声に苦労した。今日はあまり調子が芳しくない。
時間帯のわりに空いていた洋食のレストランに入り、適当なランチを注文した。ハンバーグを切り分けながら、向かいの席にいま、息吹が座っていたらどれだけいいだろうと思った。頼りない声に辛抱強く耳を傾けて、穏やかに笑って見せてくれるさまを空想していた。
同じ街に住む同い年の少女をこうも気にして、一日じゅうそわついている。バンドや自身の病から意識を逃避したがっている矢先に現れた――そのタイミングの良さが原因には違いない。しかしそればかりではないという確信もまた、燈火の胸中にはあった。正体を捉えようにも具体的に名付けるには至らない、漠たる感情だった。
ぼんやりと食事を終えた。薬をこの場で呑んでしまおうと、水差しから硝子のコップに水を注ぎ足した。必要な薬は、外出時もケースに入れて持ち歩いている。
バッグを探っているうちに、隣の席の会話が聞こえてきた。男性二人組である。
「駅前とか公園で歌ってる人いるじゃんか。ストリートミュージシャンっていうの? あれってさ、陣地決まってたりするのかな」
「いつもここにいるなって思うこと、確かにあるな。この曲、昨日も歌ってたよな、とか」
「実のところ歌はわりとどうでもよくて、すげえ可愛いなって思った子がいたんだよ。誰も聴いてなかったから俺も通りすぎちゃったんだけど、地味に後悔してる」
「どんな感じの子?」
「なんつうか、ちょっとミステリアスな雰囲気。じろじろ観察したわけじゃねえけど」
意図して盗み聞こうとしたわけではない。店が小規模で、また相手方がよく通る声をしていたのである。耳に入ってしまったのだから仕方がないと自分に言い訳し、薬を探しながら聞きつづけた。息吹の顔ばかりが脳裡に浮かんでいた。
はっきりした場所への言及はなかった。二人組の話題がアルバイト先の愚痴に至ったのを確認し、燈火は錠剤を嚥下した。席を立つ。
帰り際、駅前のペドストリアンデッキを通ったが、ストリートミュージシャンの姿はなかった。敷物の上に手製のアクセサリーを広げて座り込んでいる商人がいたのみである。
家に帰りつく。スマートフォンにメッセージが入っていた。確かめてみれば晃彦小父さんだった。彼のほうから連絡してくるのは珍しい。
何事か起きたのかと危惧しながら開いてみたが、大学の調子は、正月は帰省するか、といった調子の文面で、思わず拍子抜けした。最後まで読み、返信の文句を考える。書き送りたいことが無数にあるような気も、すべてを胸に仕舞い込んでおきたいような気もした。
短文を書いては消し、消しては書き、を繰り返しているうちに、端末が新たなメッセージの着信を知らせてきた。またしても晃彦小父さんである。
〈久しぶりに錆びてた弦を張り替えた。指の皮が剥けたよ〉
これまでの何通かとはまったく様相の異なる文章だった。こちらを本題としたかったのではないかと思い、
〈最初のうちは仕方ない。何年ぶりに弾いたの〉
〈それこそ十年ぶりかもしれない。昔は葵や燈火に教える立場だったのに、あっという間に追い越された〉
〈基本的なコードの押さえ方とか、教えてもらったね。買ってもらったコードブック、今でも持ってる〉
〈ちょっと調べてみたんだけど、今はネットの動画が充実してるんだな。子供の頃にこれがあったらどんなに楽だったろうって思うことばっかりだ〉
〈どうして再開する気になったの?〉
〈奈々子がなにかに感化されて、書道をやりはじめた。子供の頃に習ってたらしい。今でもけっこう上手いんだ。じゃあ俺も、と〉
奈々子というのは晃彦小父さんの妻だ。例年、流麗な字で書かれた年賀状が彼ら夫婦から届いていたのを思い出す。
〈ふたりとも凄いね〉
〈お互いにいい歳だけど、遅すぎるということはないと思う。今さら誰と競争するでもないし、少しだけ人生が豊かになればそれでいい。葵や燈火は、まだそういうふうには思わないだろうが〉
〈どういう意味?〉
〈俺は俺なりに走って、走って、くたくたになってから得た結論だってことだ。十代の頃になにも考えてなかったとまでは言わないが、ある程度の定観に至れるようになったのは歳を食ってからだよ。お前たちはまだ若い。若いから我武者羅でいろって話じゃなくて、迷っても無様に転んでも当然だと言いたい〉
返信に少し時間がかかった。結局は短く、
〈今、いろんなことが上手くいってない。バンドも休んでるし〉
応答は、思いのほか素早かった。スマートフォンの振動。
〈そういう時期もある。順風満帆な時期のほうが珍しいと思ったほうがいい。よろよろ走っている時間が大半で、たまには動けなくなる。それを多少なり恥じたり悔いたりするのは仕方ないかもしれないが、大事なのは自分を縛り上げないことだ。もう一度歩き出す気力を自分から奪わないことだ。あれがやりたい、これがやりたい、と楽観的でいるんだ。いつか、でいい。明日や明後日じゃなくても〉
〈不安になる。ずっと立ち止まったままだったらどうしようって〉
〈大丈夫だ〉
その一文のあと、少し間を置いてから、
〈大丈夫なんだよ、燈火。一回や二回間違おうが、立ち上がるのに時間がかかろうが、世界が滅亡するわけじゃない。形が変わったように感じられるだけだ。必要以上に怖がるな。最近、ほんの少しでも光が射したと感じたことは?〉
またしても息吹の顔が浮かんでいた。彼女との出会いを、その後の劇的な展開を、胸の高鳴りを、小父さんには話してしまいたかった。頭の中で文面を練っていると、先に彼のほうから、
〈あるんだよな? 無ければ無いと、燈火は即答する。昔からずっとそうなんだよ。俺は知ってる。だったらそれを目印にしろ。這って近づいていってもいい。ただ胸の内に思っているだけでもいい。でも忘れるな。忘れたら思い出せ〉
〈ありがとう。年末年始には帰るよ。そのときは少しでも、いい報告がしたい〉
珈琲を淹れた。やり取りを経て、いくらか軽やかな心地になっていた。不意に射し入った光――確かにそうかもしれない。
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