Track.8 I Felt Free
真新しい鍵をキーホルダーに付け替えようとして、ふと手を止めた。よりしっかりしたケースに収納したほうが無難な気がしたのだ。いま使っているものは、金属のリングから皮のストラップが伸びているだけの単純なものである。この機に新調すべきかもしれない。
手帳を広げて、リストにキーケースと書き加えた。適当な品が見つかったら――と漫然と考えているだけではなにも買えない性格を自認している。あらゆる点で優柔不断だ。持ち物の多くは葵に相談して揃えたような気がする。
家を出た。鍵はひとまず、古いキーホルダーに付けておく。駅前でこまごまとした日用品の買い物を済ませてから、ファッションビルに寄った。早めに選んでしまいたかった。
革小物の置いてある棚の前を行き来した。これと決めて使いはじめてしまえばそのうち愛着が湧く、と自分に言い聞かせ、ぱっと目に付いたものを手に取った。ファスナーを開閉してみる。動きは滑らかだ。作りはそれなりにしっかりしていると思しい。
「燈火?」
背後から呼びかけられ、咄嗟に品物を元の位置に戻して振り返った。低く柔らかな声の主――彼女とも久しぶりに会う。ネストポールのドラマー、千堂繭だった。
「プレゼントでも買うの?」
近づいてきた繭の傍らには線の細い青年がいた。軽く会釈してきたので、こちらも目礼を返した。新しい恋人か、そうなりかけている友人だろうと思った。繭は交友関係が華やかで、いつでも相手を絶やさない。独りでは淋しくて仕方がないと訴えるのを、燈火も葵も由宇も、何度となく耳にしている。
「ううん、自分の」
かぶりを振って応じながら、さりげなく青年を観察した。前の恋人とはだいぶ雰囲気が違うような気がする。そもそもいつ別れたのだったか。夏の終わりごろ? だとしたら自分が咽に違和感を覚えはじめた時期である。
「なあんだ」
と繭は明確に落胆した様子を見せた。燈火にも浮ついた話があると期待していたのかもしれない。根掘り葉掘り詮索してくる質ではないが、その手の話が好きな人物には間違いない。
「燈火、ちょっといいかな。ちょうどいいからさ、ふたりで話したい」
どこそこで待ってて、と青年に告げた。近くに歩み寄ってくる。
「あの――デート中なんじゃ」
「別にいいの。すぐ済ませるから」
青年はあっさり離れていった。繭が当然のように反対方向へ歩きはじめたので、やむなく追従した。階段の近くにある、ひと気のないベンチに並んで腰を下ろす。繭はすぐさま、
「由宇、辞めたんだよね」
唐突に心臓を握りしめられたような心地だった。やっとのことで小さく頷くと、
「そっか。やっぱり辞めちゃったんだ。まあ、近いうちに抜けるのかな、とは思ってたけど、実際に抜けられると――ショックだな」
燈火は俯いた。二人きりでと言われた時点で、話題はこれ以外にあり得ないと気付くべきだった。自身の勘の鈍さが恨めしかった。
「いつ治るかも分からないのに、待ってろなんて酷だよね。私のせいで活動できないバンドに縛り付けて、今まで本当に悪かったって思ってる」
本来なら彼女にも、とっくに告げておくべき言葉だった。自分はあらゆる場面で周囲が見えていない。なんとも情けなく、泣き出してしまいそうになった。
繭がこちらに視線を寄越す。それからあっさりとした口調で、
「別に縛り付けてたわけじゃなくない? たまたま同じ枝に留まってる、ぐらいの認識だけどね、私は。離れて飛んでく自由はずっとあった。由宇はその権利を行使しただけ。違うかなあ?」
見返すと、彼女はアーモンド型の目を瞬かせて、
「入ったときから、ううん、バンド名はネストポールですって聞いた瞬間から、私はそういう気でいるんだ。鳥籠じゃなくて、高い場所にある巣箱っていうか、止まり木みたいな。単なるイメージだけど、でも私にとっては凄く大事なイメージなんだよ。このバンドでは自由だって思えるから」
自由、と燈火は聞いたままを繰り返し、それから再び視線を下げて、
「続けるとか辞めるとかっていう一個人としての自由はあるよ。でもそれは、音楽から得られる自由じゃない。バンド、できてないんだよ。これ以上の不自由がある?」
「まあね」
と繭は応じ、少し間を開けてから、
「ただ私は葵さんみたいに、絶対に燈火を待つって覚悟があるわけじゃない。由宇みたいに、自分独りで飛び立つ勇気があるでもない。だからなにも決断しない。ちょっとした休暇と見做して、ちゃらちゃら遊んだりしてる。由宇が全力疾走しないと生きていられない生き物なら、私はときどき立ち止まって寝転ばないと駄目な生き物。そういうわけで今のところは、そこまで不自由って感じてない」
ふふ、と笑みを挟む。
「もちろんこの状況がずっと続いたら困る。でも今は困ってない。困ってないから抜ける理由がない。我慢強いんじゃないよ。私には私のペースがあって、それが今はちょうど、ネストポールの波と同調してるだけ」
「考え方、柔軟だね」
「軸がないとも言う。たとえば今後、葵さん以上のコンポーザーや燈火以上のヴォーカリストに出会っちゃったら、そっちに靡くかもしれない。私の基準は、あくまで今なんだよ。今はネストポールに残るのがいいと思ってる。それだけ」
繭は立ち上がり、じゃあ、と言って離れていこうとした。
「あいつのこと、あんまり待たせるのも悪いしね」
「さっきの彼氏?」
「まあ、そんな感じ」
彼女の背中に向かい、燈火はふと思い付いて、
「いつから?」
肩越しに繭が振り返った。不思議そうに眉を顰めている。
「夏休みの前だよ。紹介しなかったっけ?」
「――え?」
自身の記憶の曖昧さに呆れているうちに、繭は去った。買い物を続ける気がどうにも失せてしまい、キーケースを残したままその場を離れた。土曜日のファッションビルの喧騒が、耳に白々しく響く。あたりを見渡せば華やかに笑い合っている恋人たちばかりで、独りきりの自分がどうにも場違いに、悲しい存在に思われてきた。誰かに隣にいてほしいと願ったことなど、これまでに無かったというのに。
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