Track.7 I Do Perceive

 遠慮がちに身を横たえた。そうしてみるとベッドは想像よりずっと狭かった。息吹に背中を向ける。引き上げられた冷たい掛布団に、肌の熱が伝播する。じんと額の奥が痺れた。

 ふと息吹の手が蠢いた。布団を抜け出し、枕元へと伸びる。天井の灯りが消え、代わり、ちょうど燈火の視線の真正面にあるテレビが点いた。

「私、ふだん寝るとき真っ暗にしないんだよ。気になる?」

 別にいいよ、と応じた。ボリュームは最初から絞られていた。照明代わりにしか使われていないテレビなのかもしれない。番組は古い洋画だった。ぼんやりと画面を眺めているとそのうちに瞼が、そして頭が重くなってきた。やはり疲れてはいるのだ。目を閉じ、浅い自分の呼吸音だけに注意を傾けようとした。

 藤代息吹という人物と隣り合っている自分が不思議でたまらず、いったいどこが分かれ道だったのかと燈火は考えた。薬を届けられたときか。さざめきについて訊ねたときか。それとも夜の公園で、一本の水を受け取ったときだろうか。

 気紛れな鳥のごとく目の前に舞い降りてきたこの女性が、自身になんらかの啓示をもたらす存在なのか、あるいは新たな混迷の原因となるのかは分からない。ともかく今は、彼女の与えてくれる時間に身を任せるほかないと思った。アルコールの酩酊。ベッドの弾力。布の滑らかさ。幽かに伝わる体温。

 忘れたいよ、と不意に息吹が呟いた。少なくとも燈火の耳にはそう聞こえた。どうすれば忘れられるの、と訊ねたが、待てども待てども答えは返ってこなかった。やがて言葉自体が微睡みのさなかの幻のように感じられはじめ、同時に、意識に白い靄が下りてきた。背中どうしが触れ合うほどの距離にいるはずの彼女が、どうしたことか夢の内では遠い。

 目覚めたとき、息吹の気配はすでに隣には無かった。体を起こすと、服を着こんで机に向かっている後姿が見えた。おはよう、と声をかける。彼女はゆっくりと振り返り、

「鍵屋、調べてた。アパートの担当はどこだか分かる?」

 ノートパソコンの画面に、近所にあるらしい業者のホームページが表示されていた。覗き込みながら記憶を手繰り、入居に際して管理人に聞かされた名前を思い出して伝えた。息吹が検索をしなおし、電話番号を告げてきた。礼を言って架けた。

 業者はすぐに出た。鍵穴の向きは縦か横か、鍵の形状はどんなものか、扉のどこそこに刻印された型番はいくつか、などと問われた。持っていく部品や機材を決めるのに必要な情報なのだろう。いまは外にいて正確なことは分からないと答えた。帰宅してから架けなおすと伝え、いったん電話を切った。

「帰るの?」

「うん――業者さんが来てくれるみたいだから」

 そう、とあっさりと頷いてから、息吹は続けて、

「じゃあいちおう、家まで送っていこうか」

「昼間だし、大丈夫だよ」

「じゃなくて、ちゃんと鍵が開くのを見届けたいだけ。また予想外のアクシデントが起きるかもしれないから」

 そう言われるともっともな気がしはじめた。身支度を整えて荷物を纏め、ふたりで部屋を出た。外の駐輪場に停めてあった淡い空色の自転車のハンドルを息吹は握って、

「乗って。バス使うほどの距離じゃないでしょう?」

「でも、悪いよ」

「歩くよりは速い。こう見えて、まあまあ体力はあるんだよ」

 ほら、と促された。燈火は躊躇いがちに、その荷台に腰を下ろした。息吹は平然とペダルを踏みこんで自転車を加速させた。体力があるというのは嘘ではないらしい。

 アンダーパスを抜ける。アーケードや大通りを避け、細い通りを進んだ。薬局、郵便局、古びたマンション……流れ去る風景を眺めながら、息吹に道を伝えた。

「ああ、家、このへんなんだ」

「よく来る?」

「そうでもない。とくべつ用がないと来ないかな」

 アパートに帰りつく。部屋の前から業者に電話を架けた。呼び出し音を聞きながら、端末を左手に持ちかえてドアを確かめた。鍵穴は横向き。鍵の形状は面に窪みのついたもの。型番が刻印されているという位置はどこだったろうか。

 繋がった。事情を説明しようとすると、ああ先ほどお電話いただいた、と明るい声が返ってきた。同じ人物だったようだ。確認した情報を告げた。やり取りのあいだは廊下の手摺に凭れて待っていた息吹が、ふと顔をあげ、

「解決しそう?」

「たぶん。こういうの、幾らぐらいかかるんだろう」

「扉ごと解体するわけじゃないんだし、あんがい安くて済むかもね」

 その視線が外に向けられた。彼女はしばらく平坦な景色を眺めていたが、やがて、

「燈火ってさ、どこから来たの?」

 地名を答えたが、それだけでは伝わるまいと思って補足した。北関東の片田舎である。市としての人口は三万に満たない。林檎が特産品で、実家の近所に農園があった。帰省するには新幹線と電車を乗り継いで三時間ほどかかる……。

「三時間か。私の感覚だと、割と近いと思っちゃうな」

 途中、息吹が所感を述べてきた。いまだ手摺に寄りかかっている彼女の傍らに燈火は移動して、

「実家、どこなの?」

「北のほう」

「東北?」

「もっと。北海道」

 息吹もまた地名を告げてきた。知らない名前だったが、燈火は漠然と、広大無辺な風景を想像した。なにもなかったよ、と彼女は笑い交じりに言った。本当になにもなかった。悪くはなかったけどね、でも広いようで狭かった。一度、夢らしい夢が見てみたかったのかもしれない。

「都会で暮らしてみたかったの?」

「どうかな。自分でも、よく分からなくなることがあるよ。田舎から独りで出てくれば、なにかを追っかけてるような気になれる。近づいた感じがする。それだけだったのかもって」

 息吹は短く笑った。彼女の素性を何ひとつとして知らない自分に改めて気付く。同い年というから大学生と思い込んでいたが、専門学校生や浪人生、勤め人であっても不思議ではない。

 大振りなバンが駐車場に入ってきた。思いのほか早く、鍵の業者が訪れたようだ。階段を上がってきた作業着姿の男性に、この部屋です、よろしくお願いします、と燈火は頭を下げた。

 業者は鍵穴を覗き込みながら内部をペンライトで照らしたり、棒状の器具を差し込んで細かく動かしたりのあと、

「先端部はこのなかには無いですね。詰まっている場合は扉をいったん外して取り出さないといけない場合があるんですが、今回は必要なさそうです。合鍵で開きます」

 折れたものからでも作れるという。それでお願いします、と依頼して鍵を預けると、業者はいったん車へと向かっていった。数分ほどで戻ってきて、綺麗に磨き上げられた新品の鍵を燈火に手渡す。

「それで開くはずです。お試しください」

 言われたとおりに差し込んだ。感触は滑らかで、かえって拍子抜けするほどだった。そのまま右に回転させると、かたん、と聞き慣れた短い音がした。

「開きました」

 燈火は劇的に喜び、ドアノブを掴んだ。何度か開け閉めしてみる。本当に久しぶりの帰宅であるような気がした。玄関に入ると思わず感嘆の声をあげそうになった。

「大丈夫そうです、ありがとうございます」

 いったん外に顔を出し、差し出された請求書を受け取る。作業および合鍵の費用とあった。息吹の予想したとおり、そこまで高くはなかった。財布を取ってきて料金を支払う。

 業者が去ってから、燈火は改めて息吹に近づいて、

「本当に助かった。昨日のお水のぶんと、お酒のぶん、お金返すね。もし急いでなかったら、少しだけ寄っていって」

 いま部屋に上げたところで、なんの礼ができるでもない。ただ単純に、まだ彼女と話していたいだけなのだと、燈火は自覚していた。情けなく、苦しく、それでいて目を瞑りたくもない――そんな感情が渦巻くに任せて発した言葉だった。

 頷いてほしい。残ると言ってほしい。

 しかし一瞬ののち、息吹はかぶりを振った。彼女は淡々と、

「ごめん、まっすぐ帰るよ」

「そう。分かった」

 なるべく平静を装って答えた。ありがとう、とだけ言い足す。

 自分の財布を仕舞った息吹が踵を返した。階段を下りていく足音。

「息吹、また――」

 手摺まで駆け、身を乗り出して、空色の自転車に向けて声を張った。息吹はこちらに手を振りながら、悪戯気な口調で、

「気が向いたらね」

 遠ざかっていく影が視界から完全に失せてしまうまで、燈火は同じ場所に留まりつづけていた。その声を、仕種を、体温を、胸中で幾度となく反芻しながら。

 ようやくとドアへ向かった。ノブを握ろうとして、もう一度振り返る。手摺の奥に広がる、寒々とした空。見慣れたはずの街並み。都市のざわめき。普段となにも変わらない――なにも。

 視線を伏せた。自分でもまったく予期していなかった涙が一筋、伝った。

 火照った頬を、冬の風がなぶる。

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