Track.6 If You Don't, Don't
彼女のアパートは、駅を挟んでまるきり反対方面にあった。クリーム色をした縦に長細い建物で、一階にベーカリーが入っていた。一時期閉店していたが最近リニューアルオープンしたのだと教えながら、息吹がエレベーターを呼んだ。ふたりで七階まで上がった。
「この部屋。私の鍵は――さすがに折れてない」
「なんで折れたんだろう、乱暴に扱ったわけでもないのに」
「老朽化じゃない? 何代も使いまわされてダメージが溜まっていって、あなたの手許でたまたま爆発した。運が悪かったんだよ」
灯りがともる。廊下の先の居室に至って、なにもない、が謙遜ではなかったのだと燈火は知った。極端にものが少ない。必要最小限の家具がぽつりぽつりと配してあるだけで、家というよりホテルの個室のようである。修行僧めいた暮らしをしているのかと想像した。
「身軽なのが好きなんだよ。荷物はなるべく少なく、持ち歩けるぶんだけなら最高」
息吹が視線を巡らせつつ発する。言い訳のようには聞こえなかった。本やらCDやら、幼少期の些細な記念品やらを手放せず、実家での自室を下宿先でも再現したがった燈火とは対称的である。
上着を脱いで、息吹がこちらに手を伸べてきた。コートを預けた。とりあえずベッドに座るようにと促されたので、素直に従った。見たところ、ほかに身を落ち着けられそうな場所は存在しなかった。単純な面積でいえば自分の部屋と同等だろうが、ずっと広く見えた。ある程度の期間は暮らしているのだろうに、生活感は希薄だ。皆無に近い。その中で唯一、煌めくような存在感を放っているのは、壁際の、淡く黄色みがかった――。
「お茶、よければ」
はたとして振り返った。息吹が紙コップを差し出してきていた。小さな折り畳み式のテーブルの上に簡素なティーポットが置かれる。
「お代わりも適当に。お酒もあるから、酔いが醒めたら飲みなおそう」
「別にそんな――気にしないで」
「私が飲みたい。付き合って」
息吹は冷蔵庫から壜を出して燈火の隣に腰かけ、独りで先に飲みはじめた。酒浸りの日だと思ったが、こうなっては断るわけにもいくまい。お茶を飲み干してコップを空にした。透明なカクテルが注がれた。
「疲れたら寝ちゃっていいから。シャワー浴びたければ、出て左手。着替えが無いか。ひとまず私ので我慢してもらうしかないね。あとで出しとく」
ありがとう、と応じながら、燈火は先ほど公園でしたのと同じように、息吹の横顔を窺った。なぜこうも見知らぬ自分に親切なのか、その真意が分からなかった。訝しんだわけではない。ただ不思議だった。
「藤代さんは、なんで」
「息吹。私も燈火って呼ぶから」
息吹は、と言い直す。僅かに緊張した。
「で、なに?」
「ええと」
不意に、なにを問いたかったのかを忘れた。一瞬ののちに思い出したが、なぜ優しいのかと訊ねるのがどうにも気恥ずかしくなった。新たな話題を探した。
「ギター、弾けるの?」
「ああ、あれ」
息吹が部屋の片隅に顔を向けた。スタンドに立て掛けられたアコースティックギター。
ふと気付いたような態度を装ったものの、実際は部屋に入った瞬間から存在を意識していた。優美な曲線と、滑らかな木目。深い鼈甲のピックガード。ずいぶんと年季が入っているが、上等な品には違いない。手に取って鳴らしてみたい。きっと夢見るような音がする――。
「売っちゃおうかと思ってるんだ」
耳に飛び込んできた息吹の言葉が、浮ついた気分に冷や水を浴びせた。燈火は愕然たる面持ちで振り返り、
「どうして」
「さっき言ったでしょう、身軽なほうが好きだって」
「でも、そんな簡単に」
抗弁しようとすると、息吹は小さく笑った。
「前から考えてたんだよ、手放そうって。思い出は思い出としてさ、胸に仕舞ってもいい頃なの。古いけど、状態は悪くない。たぶん、まあまあの値段が付く」
「駄目」
自分でも思いがけないほど、口調が強くなった。驚いたようにこちらを見返してきた息吹に、燈火は慌てて、
「ごめん。でも私、あれを売らないでほしい。ずっと持っていてほしい」
「それこそ、どうして?」
息を吸い上げた。短い間のあと、
「音楽に関わっていてほしいから」
しばらく返答はなかった。怒らせたのだろうか。詫びて訂正しようかと思いはじめた頃、息吹は不意に立ち上がって、楽器の近くに寄った。
「今でも弾けなくはない――と思うよ」
「本当?」
気分を害したわけではないらしい。燈火もゆっくりとベッドを離れて、息吹の傍らに移動した。ギターの静かな光沢が目に入る。呼吸が切迫しはじめた。
「聴いてみたいな。今日は遅いから、明日」
慎重に告げたつもりだったが、声は幽かに震えた。息吹がギターを抱えて掻き鳴らすさまを空想すると、矢も楯も堪らなくなっていた。
こちらの内面を知ってか知らずか、彼女はまた悪戯げに唇を湾曲させて、
「気が向いたらね」
あっさりと楽器から離れたかと思えば、息吹はドアの近くに備え付けてあったクローゼットへと向かっていった。それこそホテルにあるような白いバスローブを取り出し、
「お風呂、先に入る?」
後でいい、と答えた。じゃあ私が先に、と残して息吹は部屋を出ていった。カクテルの残りを少しずつ口に運びながら待っていると、しばらくしてバスローブ姿の彼女が戻ってきた。冷蔵庫から新たな壜を出して口を捩じ切りながら、
「お待たせ。どうぞ」
着替えを抱えて浴室へ向かった。独りになっても旅行先にでもいるかのように気分がそわついて、視界はふわふわと頼りなかった。小さな脱衣所の扉を閉め、燈火はきわめて厳粛な動作で服を脱ぎ落した。洗面台の鏡を覗くと、想像より遥かに頬を紅潮させた自分に気付いた。シャワーのハンドルを捻ると湯が柔らかく広がって、降りそそいだ。
いろいろなことが一度に起こりすぎたと思った。緊張とも疲労とも違ったなにかが精神を満たして、おそらくは許容値を超えている。上がったらすぐに寝入ってしまうべきなのかもしれない。眠ってしまっていい、と息吹も言っていたのだから。
借りたバスローブを羽織って戻った。ベッドに腰かけて酒を飲みつづけていた息吹がちらりと視線を上げ、
「顔に出るね。私とは正反対だ」
「よく言われる。息吹は強いほうなの?」
「普通じゃない? ただ見た目はあんまり変わらないね。だから強いと思われるみたい」
言葉どおり、ずいぶんと飲んでいるだろうに息吹の物憂げな表情に変わりはなかった。そうしたさまを表現した彫像のように見えるほどだった。バスローブの隙間から無造作に晒された手足もまた、雪花石膏のような色を保ちつづけていた。
「燈火は飲むと性格変わるほう?」
何気ない問いだったのだろうが、燈火は返答に窮した。葵に激情をぶつけてしまったのも、アルコールによる後押しが原因だったかもしれないと思った。胸中が乱れに乱れていたとはいえ、素面の自分ならばああした態度は取らなかったのではないか。今さら後悔したところで、どうなるでもないけれど。
「どうだろう――息吹は?」
質問に質問で返したにもかかわらず、彼女は気に留めた様子もなく、
「あんまり変わらないかもね。明るくなるでも、忘れたいことを忘れられるでもない。なんのために飲んでるんだか」
「私も余計なことばっかり考える質だから、なんとなく分かるよ」
息吹がゆっくりと顔を上下させてから、距離を詰めてきた。口許だけで薄く笑って、
「こんな部屋に住んでるのに、捨てられないものばっかり抱えてる。自由になりたくて始めたことに縛られて、いつまでも自由になれない。自分が無力なのは知ってるつもりでいるけど、なにかを手に入れたいって気持ちは消せない」
ふふ、と吐息を洩らし、コップを置く。
「言ってること滅茶苦茶。やっぱり酔ってるんだね」
呆れたように発してから、息吹はベッドに倒れ込んだ。横向きになり、手足を落ち着けている。そのまま寝入ってしまうかに思われたので、燈火は慌てて、
「ごめん。私、どこで寝ればいいのかな」
毛布を借りられれば床でも、と続けると、彼女は黙ったまま壁際に寄ってベッドの半分を空けた。意図を察せずにその姿を見下ろしていたが、やがて息吹のほうから、
「悪いけど、ここで寝てもらうしかないんだよ。風邪ひかせるわけいかないし」
「隣で?」
「よく考えないで連れて来ちゃった。外よりはいいかなって。そういうわけで、諦めて」
「邪魔じゃないかな」
「そう思ってたら最初から呼ばないよ。どうぞ」
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