Track.5 Water & Solutions

「さっき」

 歌っていましたか、と問おうとして、ふと思い留まって口を噤んだ。ひと気のない公園とはいえ、こんな夜更けでは声が響いて仕方があるまい。下手をすれば通報されかねない。その程度の認識はとうぜんこの女性にもあろう。やはり幻聴か。

「さっき?」

「――小さな鳥を見ました。これが鳴くのかなって。さざめきのこと、教えていただいたでしょう」

 ああ、と女性は僅かに頬を緩ませた。

「このへんにいるなら、たぶんそうでしょう。というか、こんな時間に野鳥の観察?」

「いえ。たまたま見掛けて気になっただけです。こんなふうにお会いするとも思ってなかったし」

 そうでしょうね、と女性は言い、再び椅子に戻っていった。燈火は少し迷ってから、いいですか、と訊いた。

「なにが?」

「私も、ちょっと座っていいですか」

 女性は微笑して、どうぞ、と答えた。椅子の上に置いてあった缶珈琲を手に取り、場所を空けてくれる。燈火は小さく頭を下げ、隣に腰かけようとした。

 不意にバランスを崩した。崩れ落ちるような格好になった。

「物凄く失礼ですけど、酔ってます?」

「すみません、だいぶ。平気だと思ったんですけど」

「水、買ってきますか? 自販機、すぐそこだから。座っててください」

 返答を待たず、彼女は小走りで販売機のあかりに向かっていった。気恥ずかしさと困惑が綯い交ぜになったまま座っていると、やがて駆け戻ってきた。言葉どおり、ペットボトルの水を携えている。

「ごめんなさい、いまお金を」

 バッグを探って財布を取り出したが、あいにく細かな手持ちを欠いていた。先程の会合の際、燈火は端数だけでいい、と葵に言われたのを朧げに思い出した。平謝りしながらその旨を告げれば、女性はあっさりと笑って、

「別にいいですよ。そういえば、このあいだの忘れ物ですけど、中身は大丈夫でしたか」

「ええ、本当に助かりました。真っ先にそちらのお礼をするべきでしたね」

 いえ、と彼女はかぶりを振って、自身の缶珈琲を傾けた。燈火もペットボトルの蓋を開けた。相手の横顔を視界の隅に入れながら、そういえば名前さえ知らないと、今さらのように思い至った。

「私、眞見燈火といいます。ともしびと書いてトウカ」

 人差指で空中に漢字を書いた。女性は得心したように頷き、藤代です、と名乗った。

「名前は息吹。息を吹く、の」

 どこそこ大学ですか、と問われた。そういえば初めて会ったとき、今年の春に引っ越してきたと話したのだった。よく覚えていたものだ。

「一年生でしたよね。いま十八? だったら同い年」

「そうですけど――酔ってるって言ったの、取り消したほうがいいかな」

 途端に女性――息吹は噴き出した。年齢を知ったせいか、その表情は燈火の目に、悪戯げな少女のように映った。

「突き出したりとかしないよ。サークルの飲み会だった?」

 曖昧に顔を上下させた。サークル云々に関して深く質問されるかと身構えたが、息吹はただ、ふうん、と流したのみだった。残り少なくなったらしい缶を見つめ、それからこちらに視線を寄越して、

「家、近いの?」

「わりと」

「電車? 歩き?」

 徒歩で十分ぐらいだと答えた。息吹はすぐさま、送っていくと言い出した。またしてもよちよち歩きを案じられたようで胸が痛んだが、むろん、そうした心境を彼女が知るはずもない。今の自分は誰がどう見ても、深夜に泥酔してほっつき歩いている質の悪い女でしかない。

「送ってくれるって言っても――私の部屋、西口方面なんだけど。藤代さんもそっちなの」

「ぜんぜん。でも十分でしょ? たいした距離じゃない」

 水を飲み切って立ち上がると、当然のように息吹もついてきた。屑籠に容器を放ったあたりで、帰れば金はあるのだと気付いた。来てくれるというなら、少しだけ待ってもらって返そう。

 連れ立ってアパートに戻った。狭い階段を上がる際も、息吹は数歩後ろの位置を保ちつづけた。燈火が転倒するのをよほど危惧していたらしい。ドアの真正面に至って初めて、背中から離れた。

「ここだから」

 鍵を差し込んで回そうとし、異変を察した。動かない。不審に思って鍵を引っ張ると、妙に硬い感触がした。首を傾げた。

 抜き出した鍵を観察し、愕然とする。先端がぽっきりと折れていたのだ。

「嘘」

「なに、どうかした?」

 息吹が怪訝そうな顔で近づいてきた。突き立てた状態にして見せた。彼女は燈火の手許に顔を寄せ、はは、と溜息とも呟きともつかない声を発した。

「鍵穴じゃなくてこっちが壊れるって初めて見た。家を出たときは普通だったんでしょう」

「うん。ぜんぜん意識しなかった」

「折れた先端は? ぴったり合わせて慎重に差し込めば、開けること自体はできるかもしれない」

 バッグのなかを探した。中学生の頃に読んだ推理小説の知識が脳裡に甦っていた。鍵穴の内部にあるピンの高さが揃いさえすれば、原理上、シリンダーは回転するのだ。鍵が破損していても関係はない――はずだ。

 ふだん仕舞っているポケット、その隣、別のスペース……全体を繰り返しまさぐる。断片はいっこうに見つからない。焦った。

 手摺に凭れて立っていた息吹が、やがて耐え兼ねたように、

「いちおう訊くけど、誰か助けてくれそうな人はいる?」

「いることはいる。でも――」

 言葉の末尾が小さくなった。葵の顔と同時に、先刻の自分の振る舞いも浮かんでいた。突き放して逃げてきたに等しい。あれだけの態度を取っておきながら、今さら――と、余計なことばかりが胸中に生じた。気にしている場合ではなかろうに。

「訳あり?」

 返答に迷っているあいだに、息吹は独自に結論に至ったらしく、

「頼れないんなら、無理して頼らなくてもいいんじゃない?」

「無理というわけじゃ」

「でも即決できないんでしょ? もしよければ、うちに来れば。一晩泊めるよ」

 え、と発しつつ、その申し出に内心、惹かれた。葵への気まずさは無論のことあったが、おそらくそれ以上に、藤代息吹という人物に興味を抱いていた。真新しい風に胸をかき乱されたような思いがしていた。

「行ってもいいの?」

「なんもない部屋だけどね。さすがに放っておけないし」

「カラオケのフリータイムかネットカフェあたりに泊まろうかって考えてた」

「夜明かしのためだけにお金使うの、馬鹿らしくない? それともカラオケしたい?」

 黙ってかぶりを振ってから、これではどちらを否定したのか分からないかと思い、

「カラオケは別にしたくない。お金は――」

 だったら、とすぐに息吹は言葉を遮り、

「来なよ。自分で言ってもなんの証明にもならないけど、極悪人ではないよ」

「多少は悪人なの?」

 半ば反射的に口に出してしまってから、揚げ足取りのような言葉と感じて後悔した。しかし息吹は艶然たる笑みを浮かべながら、

「誰だってそうじゃない? 秘密はあるし人を傷つけもする。そうと認めて、でも開き直らないで、生きていくほかない」

 頷いた。彼女は続けて、

「で、来る?」

 再び頷いた。息吹に追従して、階段を下りた。

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