Track.4 &Serenading

 担がれるようにして退店した。真夜中といってもいい時刻だが、一帯は依然としてまばゆい。赤、白、黄色、緑――あらゆる色合いの照明が闇を追いやり、喧騒を呼び寄せる。飲み歩くサラリーマン。学生の集団。狭苦しい道をのろのろと進む車。

「もう大丈夫だってば」

 と訴えたが、葵は腕を絡めたまま放そうとしなかった。身を捩って逃れようとすると、彼女は吐息交じりに、

「倒れるよ、燈火。ふらふらなんだから」

「ふらふらじゃないよ。まっすぐ歩ける」

「歩けないよ。燈火ってそういうところあるよね。強がりで、助けを求めるのが下手」

 黙って俯いた。不器用さは自覚している。しかし最低限、自立した人間でありたいとは思う。よちよち歩きと見られたとしても、燈火からすればそれは、懸命な疾走だ。

「いつも限界まで我慢してる。今だって吐きそうでしょう」

「吐かないよ。ちょっと気持ち悪いだけ」

 葵はいったん黙った。それから思い出したように、

「咽のことだってそうだよ」

「私――歌えてたよ。巧くはなかったけど」

「歌の質に問題は出たのは、最後の最後だったかもしれない。でも燈火、ずいぶん前から様子は変だった。私、どうしたのって何回も訊いたんだよ」

 即座には返答しえなかった。記憶になかったのである。僅かな違和感を覚えてすぐ、由宇に相談したというのが燈火の認識だった。あえて相談相手に由宇を選んだのは、客観的な、もっといえば直截で突き放した意見をくれると思ったからだ。頼りない妹ではなく、バンドの一部分として自分を評してほしいという念があった――おそらく。

「どこが変だった?」

「なんていうのかな、私の知ってる燈火と違ったの。具体的にどうっていうより、雰囲気が」

「思い込みだよ」

「違う。私には分かった」

「葵が私のこと気にかけてくれるのは嬉しい。でも、いつでも私を優先してくれる必要はない。もっと自分のこととか、他の人のこととか、考えたほうがいいよ」

「どういう意味」

 葵の腕から脱し、近くの壁に手を付いて体を支えた。燈火は息を荒げ、

「由宇がやめたのは私のせい。葵だって――私を待ってたらいつまでも音楽ができない。せっかく才能があるのに、私のために引っ掛かって留まってるの、自分で勿体ないと思わない?」

「そんなふうに考えてたの?」

 葵が愕然とした面持ちで、距離を詰めてきた。

「ただ従姉妹だから一緒にやってるって、そう思ってるわけ?」

「そうとまでは思ってない。でも葵は私を買い被りすぎてる。私に縛られなくなれば、もっと遠くまで行ける。由宇の判断が正しいよ。葵も――私を置いていけばいい」

「燈火」

 その悲しげな瞳をしばらく見据えたあと、燈火はかぶりを振って駆け出した。酔客たちのあいだをすり抜け、繁華街の外へと。

 振り返らなかった。葵も追いかけてはこなかった――。

 独りきりになると、鼻の奥がじんと痺れた。黒々とした路面に視線を落としたまま、燈火は漫然と歩いた。倒れはしない。ふらついてもいない。もとよりこうした歩き方なのだと思った。傍目にはさぞ、もどかしいだろう。私はなんの才も持たない。

 舞台に立って歌っていた日々の記憶は、もはや遠い。覚めた夢の世界にはもう帰れない。

 公園の、平坦な照明が頭上から注いだ。冷え冷えとした夜だというのにスケートボードで左右する青年の姿があった。邪魔にならないよう遠回りして避け、反対側へ抜けるべく遊歩道を進んだ。今さらのように涙が出てきた。

 滲んだ視界の隅で、小さな影が跳ねた。ふわりと浮かび上がってやっと、正体が鳥だったのだと気付いた。視線を上げる。道に沿って連なった公園樹の、枝の隙間から覗く外灯のあかりは、ほんの少し色味が違って見えた。カンテラや蝋燭の火に近い暖色。

 冬のざわめきに歌声が混じる。幻聴?

 燈火は吸い寄せられるように向きを変えた。曲がりくねった道の先の広場に至る。小さな時計台の周囲に備え付けられた石造りの椅子に、ぽつんと座り込んだ人影を認めた。

 歌っていたという確証はない。しかし燈火はなぜか、その場を離れられなかった。ただ茫然として、夜の底に佇んでいた。

 遂にして相手のほうが立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。長身の女性だった。白んだあかりが、その顔に複雑な陰影を投げかけていた。燈火は息を詰めた。

「またお会いしましたね」

 やはりそうだった。曖昧に浮かんだ輪郭から、あるいは気配から、なんとはなしに予感していたのかもしれない。遠慮がちに笑いかけてきた女性は、いつか燈火に薬の忘れ物を届けてくれた人だった。

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