Track.3 EndSerenading

 時間だと気付いて、ふたりで外に出た。酔った頭を夜の空気が冷やした。思ったより寒かったと言って、葵がコートの襟をかきあわせて笑った。息が白かった。

 ライヴハウスへと続く薄暗い階段を下る。来客の姿はまだ疎らだ。雑然としたロッカールームを抜け、ポスターやステッカーがべたべたと貼られた狭い通路を歩む。スタッフに料金を支払い、ドリンクの引換券を受け取った。バーカウンターでジンと交換する。葵と並んで、ステージの真正面で待った。まだ幕は閉じている。

「二番手だっけ?」

 と葵が話しかけてきた。燈火は氷の浮かんだ透明なカップに一口つけてから、

「うん。バンド名は――カイリ。アルファベットで」

 ぱらぱらと人が集まりはじめた。アマチュアバンドばかりのイベントで、会場がごった返すほどの客入りはもとより望めない。自分たちのような出演者の友人、あるいは関係者も多かろう。メインアクトの出演時間が近づけば多少なり増えるだろうが、現時点ではすかすかと形容しても憚りない域だった。

 一組目のバンドは、性急でシンプルなロックンロールだった。演奏はけっして技巧的ではなく、転倒すれすれで疾走しているようだった。しかしそれがかえって、荒っぽい雰囲気に合っている。昂揚した。リズムに乗せて頭部を揺らした。

 二曲目、三曲目と勢いのいい演奏が続いたが、メロディが似通っていることもあって、終わってみれば強い印象は残らなかった。聴き取れた歌詞もほぼ皆無だった。とはいえ烈しい音の塊に殴りつけられる感覚は、やはり痛快である。

 ざらついた声質でシャウトを多用するこのバンドのヴォーカリストと、燈火の歌い方に共通する部分は少ない。歌もバンド全体の発する音の一部、といった扱いらしく、ときおり他の楽器に埋もれて不明瞭になる。ネストポールとはまったく違ったバランスで成立しているのだ。

 最後の音が消失すると幕が閉じ、内部からは新たに、ステージを転換する雑音が響きはじめた。方向性はいいが、もう少し歌メロがしっかりしているほうが好みだ、というのが先のバンドへの葵の評価だった。彼女は常に歌を、詞を、重要視する。そうした曲を書き、そうした演奏をする。愚直なまでの信仰。

「カイリのリはR? L?」

 ふと思い出したように、葵が訊いてきた。確かLだと答え、バンド名の由来までは聞かなかったと付け加えた。いくつかの単語が脳裡に浮かんでいた。葵は顎に指を添えて、

「一海里って何メートル? ヴェルヌの『海底二万里』が『海底二万マイル』なんだから、四キロぐらいか」

「それ、違うらしいよ。一海里って確か二キロ弱。というか、その海里だと思ったんだ」

「ぱっと思い付いたのがね。燈火は違った?」

「……私はビーバーかな。海の狸」

 照明が落ちた。四つのシルエットが、光に包まれながら舞台上に浮かんだ。客席からいっせいに、歓声と口笛が起きる。

 由宇は燈火の対角線上に立っていた。いつものポール・リード・スミスではなく、ギブソンのフルアコースティックギターを抱えている。大振りな楽器だが、長身の彼女にはよく似合った。こちらに気付いてはいたのだろうが、目立った素振りは見せなかった。普段どおり平然としていた。

 ヴォーカリストはベーシストが兼任する構成らしい。小柄な女性が中央に陣取り、僅かにマイクの位置を下げる。由宇を振り向いて視線を交わした。

 奥のキーボーディストが鍵盤に指を落とした。俯いたその横顔が逆光に翳る。奏ではじめたのは想像したよりずっと軽妙な旋律だった。ポップと言ってもいい。

 歌が重なった。甘く若々しい声だった。同時に弾いているベースも、陽気に跳ね回るようである。フレーズは存外に複雑だが、奏者は笑顔を絶やさない。体を目いっぱいに使ってパフォーマンスしている。

 音の層が分厚く重なり合う。生きた波動となる。燈火は鳥肌を立てた。

「――カイリっていうバンド名は、ギターの由宇が考えたんですけど」

 最初のMCに入った段で、ベースヴォーカルは息を弾ませていた。疲弊しているようではない。昂奮を押し殺しきれずにいるのだ。

「シンプルだけどいい響きだなって。音楽もね、もちろん格好良くて。誘われてびっくりしたけど、嬉しかったです。私が入るって決めたときにはもう決まってたから訊きそびれたんだけど、リーダー、どういう意味なの」

 演奏中は自分の手許に意識を集中し、ときおりコーラスするほかは微動だにしなかった由宇が、珍しく顔をあげた。私? という感じの表情だった。

「それはまあ、いろんな意味があるじゃん。各々、好きに想像してもらって」

「思わせぶりだなあ。実際のとこ、リーダーの心のなかでは決まってるの?」

「どっちでもいいじゃん。次の曲、やろうよ」

 笑い交じりに流す。そのままイントロを弾きはじめて、話題は打ち切りになった――。

 カイリにおける由宇のギターは、他のどの楽器にも増して技巧的だ。ネストポールでは決して弾かないような華美なフレーズや、長尺のソロも大々的に取り入れられている。ギタリストとしての単純な力量で比較すれば、燈火は彼女にとうてい及ばない。

 彼女らの出演時間は三〇分ほどで終わった。萱原由宇が目指した音楽を簡明に形容するなら、親しみやすいメロディとテクニカルな演奏の融合、ということになろう。ジャズの素養があるキーボーディストを起用したのも納得がいく。間違いなく巧い。そして引き出しが多い。よくあれだけのメンバーを集められたものだ。

 葵に肩を叩かれた。耳元に唇が寄せられる。

「終わったら、由宇が合流しようって」

「打ち上げ? 私たちも入っていいのかな」

 葵は曖昧な頷きだけを寄越して、

「店は予約してあるってさ」

 すべての日程が終了したのは一〇時過ぎだった。出演した五組のうち、もっとも印象深かったのはやはりカイリで、燈火は店に向かいながら称賛の言葉を考えていた。聴き手の好みこそあれ、演奏力が抜きんでていたこと自体は、場に居合わせた誰もが認めるところだろう。旗揚げしたばかりのバンドとは思えない纏まりのよさだった。

 数本離れた通りにある酒場へ向かう。店名を示すネオンの輝き。細い階段を上がり、奥の個室へと至った。扉を開ければ、由宇の姿だけがあった。

「お疲れさま。カイリの他のメンバーは? 後から来るの?」

 問いかけながら向かいに腰かけた。そういえばまだ名前さえ知らない。

「みんなには外してもらった。私の問題だから」

 言葉の意味が分からず、燈火は唇を開いて由宇を見返した。彼女は表情を固くしたまま、

「いきなりごめん。先になにか、飲み物を」

「そうさせてもらう。お腹も空いてるしね」

 葵がコートを脱ぎ、燈火の隣の椅子を引いた。三人分のビールと軽食が揃うのを合図に由宇は声を低めて、さっきの話なんだけど、と切り出した。

「私とネストポールの問題、かな。ずっと考えてたことなんだけど」

「聞くよ」

 と短く葵。こちらもやはり口調が固い。

「とりあえずね。私が勝手に思ってるのとは違う話かもしれないし」

「たぶん違わない」

 ふたりは乾いた声で笑い合った。なにやら自分だけが無知でいるらしいと察し、燈火は自分なりに強めた口調で、

「ねえ、カイリの初ライヴの打ち上げだよね? なんでこういう空気になるの」

 目だけで葵が促す。由宇は一瞬の躊躇いを覗かせたが、やがて観念したように、

「私、ネストポールを抜けようと思うの」

「どういうこと」

 あまりに唐突なことで、燈火はただ茫然としたのみだった。なにかの冗談ではないかと思った。しかし由宇の強張った顔つきは変わらない。

「抜けるって――脱退? やめるの?」

 現実の出来事と認められず、妙にふわふわした声色になった。眼前の由宇はゆっくりと、それでも確たる意思を宿した頷きを返して、

「やめる。気持ちは決まってたのに、なかなか言い出せなくてごめんね」

 困惑し、葵を振り返った。厳粛な面持ち。告白をあるていど予期していたのだと、この段になって分かった。しかしなぜ? いつから?

 由宇に視線を戻した。すっかり顔色を失った燈火を見つめる瞳。撤回が望めないのは直感的に理解できた。とはいえ、即座に受け入れられる話ではない。

 やがて葵が息を細く吐き出した。僅かに身を乗り出して、

「理由を訊いてもいい? 正直に言うと、私は引き留めたい。でも音楽性とか人間性で折り合えないなら、引き留めても仕方ない」

「それは違います。ネストポールの音楽も、葵さんも燈火も好きです。厭になったわけではないとだけは、はっきり言っておきたいです」

「じゃあ、どうして?」

 由宇はグラスを手にし、一口つけてから、

「立ち止まっていたくないからです。燈火の歌抜きでは、ネストポールは成立しない。復調を待つしかすべがないけど、いつになるかは分からない。そういう状況を脱して走り出したくなったから――それが理由です」

「両立は考えられない? サイドプロジェクトは別に禁止じゃない」

 葵がすぐさま提案する。これは燈火の頭にも浮かんでいたことだった。複数のバンドの掛け持ちは、べつだん珍しくない。

 ところが由宇は間髪を入れず、きっぱりとかぶりを振った。

「サイドですか。私を中心に考えるならそうでも、他のメンバーにとっては違います。期限は分からないけど一緒にやってほしい、ネストポールが再始動したらそっちに尽力したい、そんな都合を押し付けたくないんです」

 言葉は澱みなかった。事前に考えてきた科白なのかもしれないと思った。

 葵もまた気圧されたらしく、じっと唇を引き結んでいた。言葉を探している様子の彼女に向かい、由宇は続けて、

「私は走りつづけていないと生きられない人間です。カイリのみんなも同じで、どんな形であっても音楽がやりたくて仕方がなくて、半ば自然と集まったんです。私がサイドプロジェクトのためだけに集めたわけじゃありません」

 リーダーと呼ばれて困惑を覗かせていた理由を悟った。自分はあくまでバンドの命名者にすぎない、という思いでいたのだろう。そういう性格だ。夢想の牽引者をはっきりと自認している葵とは、正反対の思考の持ち主といっていい。

「ネストポールでしかできない音楽がある――由宇、そう言ったよね。同じ夢を見てこられたって、私は信じてた。みんなで作ったもの、手放すの? 手放せるの?」

 曲の大半は葵の作だが、由宇の貢献も少なくない。アルバムを作れば必ず彼女の曲は採用されるし、アレンジャーとしても異彩を発揮する。不可欠の人材であり、なにより同胞だ。

「だから、凄くつらい決断でしたよ」

 由宇は視線を伏せ、長く嘆息した。

「ネストポールは特別なバンドです。カイリでは望んだような評価は得られないかもしれません。思ったよりすぐに燈火が復帰して、早まらなければよかったって後悔するかもしれません。そのくらいのことは、分かってるつもりです」

 じゃあ――と言い出しかけた葵を、由宇が遮る。

「でも現時点では、なにもかも想像です。いま確かなのは、私には立ち止まっているのが耐えられないという一点だけです。ここで決断するほかはない。カイリのみんなと出会えたのは幸運でした。ぐずぐずして逃がしたくない、始めるなら今しかない――これが本当の気持ちです」

 そう、と葵はつぶやき、そして沈黙した。由宇も新たな論を重ねようとはしなかった。

 ふたりの様子を交互に窺いながら、燈火はいまだ、物悲しい夢の中にいるような心地でいた。質量も手触りも欠いた世界を彷徨っているかに感じられた。

「変えられない気持ち、なんだよね」

「はい。葵さんにも、燈火にも、本当に申し訳ないと思います」

 場がまた静まった。ずっと黙りこくっている自分を、燈火は臆病者のように思った。それでいて慰留の言葉を見つけ出せるでも、由宇の意思を尊重できるでもなかった。ただ夢が覚めて、なにもかも元どおりの――咽の故障さえなかった世界に戻りたいという、子供じみた感覚が胸中を支配しているばかりだった。

「由宇。葵。ごめん」

 ふたりの視線が同時にこちらを向いた。いくら考えたところで、それ以上の言葉は発しえなかった。燈火は頭を下げ、ごめん、と繰り返した。なにをどう謝罪しているのかも判然としない。ただ悔しさと、名状しがたい自責の念だけがあった。

「別に燈火が悪いんじゃない。勝手なのは私。病気はどうしようもない……だけど」

 私の、と言いかけて、由宇は口を噤んだ。分かっている。燈火の病がどうしようもないなら、由宇の選択だってどうしようもない。物事はなるようにしかならない――そう理解しているつもりなのに胸が締め上げられるようで、燈火は今しも嗚咽してしまいそうだった。

 不意に店員が入ってきた。誰が呼んだでもなかったが、ただ帰すのも悪いと思い、減ったぶんの飲み物を注文した。同じ銘柄のビールと言ったはずが、なぜか色からして違うものが来た。取り換えるのも面倒でそのまま飲みつづけた。名前も分からない、ひどく度数の高い酒だった。

「――キーボードの子、巧いね。ずっとピアノやってたの?」

「そうです。ジャズピアニストを目指してた時期もあったけど、ロックに転向したと」

 いつの間にか、葵と由宇は雑談に移行していた。どちらも脱退話から離れたがっているのは明らかだった。結論は変わりようがない。しかしすぐさま散会できるでもない。時間を引き延ばすためだけの会話と分かった。形式ばったやり取りを耳だけで認識しながら、燈火はぼんやりとグラスを傾けていた。

 ふと眩暈に見舞われた。あれ、と違和感を覚えたときにはすでに体が傾いでいて、横から葵に支えられていた。ずいぶんアルコールが回っている。つくづく情けない。

「燈火は、私が連れて帰るよ」

 ぼんやりと霧に包まれたような音声。いっさいが薄い膜を隔てた向こう側の出来事に思えた。

「お願いできますか。すみません、葵さん。私はこれで」

「分かった、いいよ。気を付けて帰ってね」

 小さく頷いてから、由宇が顔を寄せてきた。その淋しげな表情だけが、浮き沈みする意識のなかで奇妙なくらい鮮明だった。彼女は短く、

「ごめんね。おやすみ、燈火」

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