Track.2 Diary

 音だけの夢を見た。目が覚めたとき、そういう自覚があった。明確な旋律を伴わない、いわば質感のみの音楽の夢だった。既存の楽曲からのサンプリングなのか、あるいは眠っているあいだに自分で生み出した音色なのかは判然としない。ベッドから抜け出した段階で記憶は失せ、どうにも思い返せなくなっていた。

 さざめきという言葉を教えてくれた女性の顔を再現しようとしたが、こちらも上手くいかない。硬質な光を放つ冬の星のような気配だけが、燈火の胸中にはあった。この近くに住んでいるには違いないが、同時に、どこか遠い世界の存在のようにも思えた。なんであれ、忘れ物を届けてくれたというだけの、ただ一度の交錯にすぎない。もう会うこともないだろう。

 顔を洗って歯磨きを済ませ、電気ケトルで湯を沸かして珈琲を淹れる。午後に入っていたはずの講義が休講になっており、予定がぽかんと空いていた。語学のテキストを漫然と眺めていると、枕元に置いたままにしていたスマートフォンが振動しはじめた。葵からと予感したが、画面に表示されているのは違う名前だった。萱原由宇。

 久しぶり、と挨拶しながら、最後に会ったのはいつだったかと考えた。ネストポールのリードギタリストだ。県外の実家に住んでいる都合で、遅くまで居残ったり遊び歩いたりということを滅多にしない。時間割も相応の組み方をして、通学してくるのは週に三日ほど。バンドの全体練習が休止になってからは、ほとんど顔を合わせていなかった。

「調子は」

 と短く問われ、まだ時間がかかりそうだと正直に答えた。病気のことはよく知ってくれている。燈火が小さな咽の違和感を訴えたとき、最初に耳鼻咽喉科に行くよう勧めてくれたのは、彼女だ。

「そうなんだ。私、お休みしてるあいだに、いろいろ試してることがあるんだ。いつもとは違う音楽を取り入れたり」

 由宇がいくつかの名前を挙げた。いずれもネストポールとはかけ離れたバンド、アーティストだった。むろん聴くぶんには楽しい。しかし自分たちに奏でうる音ではないと感じる。

 稲澤夏凛というピアニストに話題が及ぶと、由宇は饒舌になった。ジャズを基調に、遠視音楽や民族音楽をクロスオーバーさせた独特の音楽性で、最近、古生物を題材とした風変りなコンセプトアルバムを発表した。日本とアメリカを行き来しながら活動している。

「――たまたま、稲澤夏凛が好きだっていうキーボーディストを見つけたの。それで、ちょっと合わせてみようって話になって」

「へえ。いつ合わせるの?」

「もう何回か。けっこういい感じでさ。バンド形態でライヴもやろうって」

「実現したら観に行きたいな」

「実はメンバーも集まってる。やるんだ、今夜」

 燈火ははたとして唇を引き結んだ。想像以上に進展していたらしい。一瞬の沈黙をどう受け取ったものやら、由宇は慌てたように、

「とっくに話した気になってて、ごめんね。今日の今日で申し訳ないんだけど――もし来てくれるなら」

 行くよ、と答えた。会場は近所の、小規模なライヴハウスだった。ネストポールでも何度か出演したことがある。時間やチケットの代金などをメモして電話を切った。

 いつの間に、と思う。ネストポールにおける由宇は常に淡々として、自身の意見を主張することも少なかった。最後はリーダーたる葵に委ねる、という態度を崩さなかった。ギターは燈火よりもずっと巧い。しかし伸び伸び弾いていたとは言いがたい。ネストポールはあくまで、歌を主とするバンドだ。

 パソコンに向かい、昨夜から開きっぱなしにしていたフォルダを覗いた。書きかけの歌詞の断片を読み返したが、次に置くべき一節が浮かぶことはなかった。むしろいっさいが陳腐に見え、危うく消してしまうところだった。私にとっては無価値でも、他のメンバーには違うかもしれない。なんらかのインスピレーションを呼び起こすかもしれない。そう自分に言い聞かせ、残したまま閉じた。

 不意に玄関の呼び出し音が鳴った。出てみれば葵だった。またしてもギグバッグを背負っているので、燈火は少し呆れて、

「ベース、ここに一本置いておけば」

「本当? そうできると助かる。前によく使ってたやつがあるんだ。燈火も勝手に弾いてていいから」

 荷物を下ろした彼女に、由宇の新しいバンドについて訊ねた。とうぜん知っているものと思い込んでいたのだが、葵はきょとんとしていた。いま初めて聞いたという。

「サイドプロジェクトか。別にいいけど。どういうの演るって?」

「さあ。でも稲澤夏凛が好きなキーボードと組むって」

「じゃあちょっとジャズっぽいの? でもまあ、あの子なら弾けるか。器用だしね。気になるし、私も行ってみよう」

 葵はそう、あっさりと得心した。ベッドに腰かけ、なにか音楽をかけて、と言う。話の流れからして稲澤夏凛か、それに類するものにすべきかと思ったが、葵のほうからサニー・デイ・リアル・エステイト、と指定してきた。九〇年代に誕生したエモーショナルハードコア、エモと呼称されるジャンルの、最初期の一組だ。ネストポールも多大な影響を受けている。

「何枚目のどの曲」

「ファーストを頭から」

 言われたとおりにした。ざらついて生々しい音色と、物悲しい歌声が部屋に満ちた。燈火もベッドに移り、ふたりで隣り合って聴きつづけた。アルバム一枚が終わるまで、これといった会話もしなかった。こういうことは多いから、とくべつ気に留めなかった。

「このバンド、オリジナルメンバーで出したのって最初の二枚だけなんだよね」

 最後の音が消失してから、葵がつぶやくように発した。燈火は小さく頷いて、

「私は、再結成後の二枚も好きだけどね」

「洗練されてて、完成度は凄く高い。音も崇高だって言えるくらいに美しい。でもどっちが好きって訊かれたら――私は最初の二枚かな。青春の焦燥感をそのまま詰め込んだみたいで、聴いてると胸が締め付けられるような感じが」

 葵の論評は当を得ていると思った。同意見のファンは多かろう。燈火はパソコンの前に移動して、プレイリストを眺めた。同時代、同ジャンルで活動したバンドには、短命のものが少なくない。

 以前の小宴のときに買ったビールはまだ残っているか、と葵に問われた。独りではまったく飲まないから大量にあると答えると、ではここで飲もうと言い出した。燈火は立ち上がり、冷蔵庫から缶、隣の棚から適当なお菓子を取り出した。ほろ酔いの女ふたりが、まもなく出来上がった。

「――昨日の晩、大昔の日記を読み返してみたんだよ」

 頬を紅潮させながら葵が言う。ぼんやりと頷きながら、自分も似たような顔をしているのだろうと思った。ふたりともアルコールに弱い。

「いつ頃の?」

「小学校低学年とか。よく捨てないで取ってあったなあって感心が半分でね。晃彦小父さんの結婚式、覚えてる?」

「なんとなく。新郎新婦がタキシードとドレスじゃなくて着物だったこととか」

「記憶のポイント、そこ? 私たち、一緒にお祝いの歌をうたったんだよ。日記にもちゃんと書いてあった。『とうかちゃんは歌がとても上手で、わたしはびっくりしました』」

 あえて子供っぽい口調で引用してから、葵はけらけらと笑った。思い出せないと告げると、彼女は腕組みして、

「一大イベントだったのになあ。晃彦小父さん、感動して泣いてたんだよ。燈火は歌が巧い、将来は歌手になれるって」

「晃彦小父さんって大袈裟に言う人じゃん。作文で賞を獲ったって言えば、作家になれる。描いた絵を見せれば、画家になれる。なんにだってなれる」

「何者にもなれない、どこにも行けないと思われてるよりはいいんじゃない? いいか葵、お父さんやお母さんにどう言われようと、やりたいことはやれ。つまらなかったらつまらなかったでいい。飽きたら飽きたでいい。経験したことは無駄にならない。私はあの人の考え方、すごく好きだよ」

 しばらく晃彦小父さんにまつわる思い出話をした。どこか風来坊めいた、それでいて気前のいい親戚の小父さん、というのが、幼少期の燈火にとっての彼だった。会う頻度こそ少なかったが、そのぶん顔を合わせれば必ずなにか買ってくれた。両親に叱られるのではないかと不安を覚えるほどに高価な品も、何度となく贈られた。生れて初めての楽器も、彼からのクリスマスプレゼントだった。日本製フェンダーのストラトキャスター。

「それ、小父さんの結婚式の年だよ」

 と、葵が自信たっぷりの口調で補足する。

「そうなの? もう少し大きくなってたような気がするけど」

「間違いないって。私はベースを貰った。形だけでギターだと思い込んで、小父さん、ギターをありがとうって電話したら、それはベースっていうんだぞって教わった。燈火にあげたのがギターだ。ふたりで一緒に弾いたらもっと面白いぞ、正月休みにでもやってみろって言われた」

 同じ年という確信が抱けなかったのは、結婚式に比べて合奏の記憶がずっと鮮明だったことによる。僅か数か月でそうも劇的な差が生じるだろうかと眉を顰めた燈火に、葵は重ねて、

「絶対に本当。なんなら日記をここに持ってきてもいい。ちゃんと書いてあるはずだよ」

「そこまでしなくても信じるよ。酔った勢いで日記なんか見せたら、絶対後悔する」

 かぶりを振りながら回想した。合奏といっても、ただ向かい合って無造作に掻き鳴らしたのみである。アンサンブルもなにもなかった。ミニアンプから出てくる歪んだ音を、ふたりで面白がった。近所迷惑だから音を小さくしなさい、と叱られながら、自分たちはロックバンドを作るのだと確信した――。

 小父さんに贈られたストラトキャスターは、まだ手許にある。全体に半音下げたチューニングにしてあり、必要に応じて持ち替えている。堅牢で頼りになる楽器だ。不調に陥ったことは数えるほどしかなく、楽器店に持ち込めば容易に元の音色と弾き心地を取り戻した。体力と辛抱強さは美徳だ――音楽を鳴らしつづけるのに不可欠な。

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