Snowbirds and Townies

下村アンダーソン

Track.1 Song in the Air

 医院のある通りから駅へと向かいかけて、ざわめきに気を取られ立ち止まった。葉擦れに管楽器が入り交じったような甲高い音色で、不思議なことにそれは頭上から聴こえた。

 眞見燈火さなみとうかは耳を欹てた。ざわめきは絶えることなく継続している。

 それらしい方向へゆっくりと視線を巡らせてみたが、背の高い街路樹、あるいはビルが整然と立ち並んでいるばかりだった。ようやく慣れてきた都市の、夕刻の光景。越してきて初めての冬が、じきに訪れる。

「あの、すみません」

 背後から不意に呼びかけられ、燈火はびくりとした。感覚は彼女の意思と関係なく、鋭敏と鈍重を行き来する。今は後者だった。人の息遣いをまるで察せなかった。

 振り返ると、二十歳手前――おそらくは自分と同世代と思しい女性が立っていた。長身に硬質な気配と暗色のロングコートを纏い、片方の手はポケットに収めていた。もう片方になんの変哲もないポリ袋を提げていて、それだけが妙に現実的に見えた。他はすべて、映画の中の出来事のようだった。

「はい、なにか」

「いえ、忘れ物ではないかと思って。これ、違いますか」

 女性はまさにそのポリ袋を差し出しながら言った。こちらの幽かな怯えが伝わってしまったのか、丁重で柔和な態度を取ろうとしているのが分かった。

 え、と曖昧に唇を開いたが、自分の手許をあらためてみて青褪めた。確かにふたつ持ち帰ったと思い込んでいた袋が、ひとつしか無かった。

「ありがとうございます、私のです。助かりました」

 慌てて応じると、声は案の定、掠れた。気恥ずかしくなって視線を伏せ、手だけを伸べて受け取った。頼りない小動物にでもなったような気がした。

「いちおう、中身だけ確認してくださいね。そのまま持ってきたつもりですけど、なにかあるとお困りでしょうから」

 ちらとでも覗かれたのだと思うと、燈火は途端に胸苦しくなった。きちんと仕舞い込める大きさのバッグを持ってくるべきだった。自分の性格上、無造作にぶら提げて歩けば置き忘れもしよう。この女性には、いや、世の大半の人々には生涯無縁であろう代物が、次の通院までの一か月ぶん、ぎっしりと詰まっているというのに。

 袋をいい加減にかき回してから、燈火は頷いて、

「大丈夫だと思います。本当に、その、わざわざ」

「ぱっと目に付いただけですから。じゃあ、これで」

 そう残して離れていく女性の背中に、燈火ははたと視線を送った。長い髪が風になぶられて揺れている。雑踏へと失せそうになる。

 一瞬のためらいのあと、燈火は自分でも驚くような蛮勇を奮い起こした。ごめんなさい、ひとつだけ、と呼び止める。少し困惑した顔で戻ってきた相手を見返し、

「上のほうから、ざわざわって――聞こえたことありますか。あ、今もまた」

 余程のこと奇妙に思われたに違いないと覚悟したが、女性は事もなげに笑って、

「ああ、これですか。鳥の鳴き声ですよ。冬が近づくとたくさん集まってきて、あちこちで囀るんです。駅の西口は特に多くて、だからちょうど、ここの通りを『さざめき通り』って呼んだりします」

「さざめき?」

「平仮名でさざめきです。このへんでしか通じない呼び名ですけどね。越してきたばっかり?」

「ばっかりでもないですが――今年の春に。大学で独り暮らしを」

「じゃあ初めてだ。あるていど長く住んでると気にならなくなるんですけど、確かに鳴いてます。私にも、聴こうとすれば聴こえますよ」

 幻聴ではないらしいと知って安堵した。心因性、という医師の説明を思い出し、耳にまで波及したかと恐怖していたのだ。枝の一本はすでに折れている。二本目が折れない保証はどこにもない。燈火は吐息交じりに、

「よかった。安心しました。つまらないことで足止めして、すみませんでした」

「いえ。さざめきのこと、久しぶりに思い出せました。以前はいちいち驚いてたんですけどね。最近はずっと、忘れていました」

 ふたりで顔を見合わせた。やがて女性は再び、じゃあ、と言って遠ざかっていった。燈火も今度こそふたつの袋を携えて、駅へと繋がるアーケードに向かった。

 まだ灯されてこそいないものの、入口の看板は外枠を電飾に覆われている。アーチ状になった硝子張りの天井のそこかしこに、色鮮やかな造形物が下がっていた。

 楽器店の前を通りかかり、つい足を踏み入れかけて苦笑した。少し前まではよく葵に連れられて来ていたから、入らずとも店内の配置まで脳裡に再現できた。二階の奥の壁にかかっていた黒いリッケンバッカーを葵は欲しがって、いつまでも飽きることなく眺めていた――。

 気の早いクリスマスソングに急き立てられるように、燈火はその場を離れた。アーケード街を脱して階段を上り、ペデストリアンデッキから駅構内へと入る。反対側へと抜ける通路の途中、アパレルの店舗が途切れた一帯で、ふと足が止まった。

 横長の壁面に、鳥の装飾が施されている。数十羽の群れ。全員が同じ向きで、音符のようになだらかに配置されている。何度となく通った記憶のある道だが、これまで意識に上ったことはなかった。

 ここ、ずっとこうだったっけ――。

 すれ違う、あるいは追い越していく誰も、気に留めている様子はない。通行の迷惑にならないよう隅に寄り、待ち合わせの風情を装って、燈火はその銀色の装飾を観察した。

 シルエットから判別できるような知識は持ち合わせない。しかしただ漠然と、冬鳥だと思った。煉瓦にふわりと浮かび上がった雪のような色味からの連想と結論しかけて、先ほど出会ったばかりの女性の言葉のせいだと気付いた。冬が近づくとたくさん集まってきて、あちこちで囀るんです。

 平仮名でさざめき、と確か彼女は言った。スマートフォンを出し、聞き慣れないその語を検索したが、なるほど漢字は無いらしかった。ニュアンスはざわめきと同じ。波や虫や鳥が響かせるような、いちいち意味を識別できない喧騒のことだ。

 さざめき、さざめき――と頭のなかで繰り返しながら、人混みを避けて帰路についた。アパートに辿り着くと鍵は開いていた。例によって葵が訊ねてきていて、パソコンの前の椅子に陣取って楽器を爪弾いていた。ヘッドフォンを架けたままで、部屋の主の帰着に気付いてさえいない。

 燈火はポリ袋から中身を出し、台所の横に備え付けてある棚に置いた。葵は演奏に熱中している。邪魔をするのも申し訳ないと思い、声をかけずに部屋に入り込んだ。ベッドに腰かけて枕元にあった文庫本の一冊を広げる。

 峯島葵はふたつ年上の従姉妹だ。同じ大学に通う先輩後輩という間柄でもあるが、そうした意識は互いに乏しい。学部がまるきり異なっているせいもあろうけれど、なにを今さら、といった感覚のほうが色濃い。実の姉妹か、でなければ近しい友人のように接してきたのだ。どう態度を改めていいものやら、もはや分からない。

「うわ。帰ってたんなら言いなよ。びっくりした」

 遂にして振り返った葵が唇を尖らせる。燈火は本を閉じ、小さく笑って、

「ずいぶん集中してたから」

「単に聴こえなかっただけだよ。多少は値が張るだけあって、さすがノイズキャンセルが優秀」

 葵はヘッドフォンを外して首に引っ掛けた。わざわざ持ち込んできたらしい愛用のジャズベースを傍らの壁に立てかけてから、椅子を回転させる。

 気安さから合鍵を渡してはあったものの、こうも頻繁に遊びに来るとは思っていなかった。自宅よりここにいる時間のほうが、おそらく長い。家族と折り合いが悪いわけはなかろうから、独り暮らしの気分の一端でも味わいたいのだろう。実家住まいだと大学生らしくない、とたびたび口にしている。

「だらだら弾いてたわりに、けっこう疲れた。ちょっと小難しいフレーズがあるとね、途端に指が動かなくなる。特に小指が駄目」

「葵は器用だと思うよ。私は一本残らず駄目だもん。素朴なコードを掻き鳴らすのがせいぜい」

 燈火はジャズベースの隣にある、サンバーストのテレキャスターを見やりながら言った。こちらは自身の楽器だ。高校時代、決死のアルバイト生活を経て手に入れたギター。

 言葉は、謙遜ではなかった。単純なコードストロークとちょっとしたアルペジオ、あるいはイントロ、合間の短いフレーズくらいしか弾かなかった。手ぶらで舞台に立つよりはまし、程度の心地でいた――それでよかったのだ、かつては。

「言い訳っぽく聞こえるね。練習、怠けてるわけじゃないんだけど。せめてギターだけは」

「必要な役割が果たせればいいんだよ。曲に寄り添えればいい。少なくとも私はそう思う」

 葵の音楽観は、当初から一貫している。余計な音は弾くべきではない。これは同時に、もっとも肝要な音をもっとも適切に発すべきだ、とする厳格さでもある。彼女が現出させんとする音楽の、核となるのは――。

「そういえば燈火、今日も病院に行ってきたんでしょう? なんだって?」

 問いかけるタイミングを見計らっていたのだと察した。来訪自体もそれが目的だったのかもしれない。燈火は咽に指先を当て、

「腫れや炎症はもう、治まってるんだって。あとは心理的な問題だろうって。いちおう薬は貰ってきた」

 そう、と葵は短く頷いた。それきりなにも言ってこないので、詳細な説明を求められているのかもしれないと思った。燈火は立ち上がり、台所の棚まで行って白い小袋を取り出して、

「今回のぶん。次の検査は、また来月に」

「月一でいいんだ」

「うん。最初のうちは週一で、内視鏡で覗いたりしてたんだけど。治療が切り替わったんだよ」

「なるほどね。あとは養生しろって感じなのかな」

 たぶん、と応じたあと、燈火は付け加えて、

「ネストポールのことは、その」

「いいって。体がいちばん大事。当たり前でしょう? 待ってるからさ、大丈夫」

 葵は気丈そうに笑った。話題を打ち切ってくれようとしているのだと分かった。

 それからは大学の講義のことなどを取り留めなく話した。程なくして、どちらともなく飽きた。葵は椅子で、燈火はベッドで、互いの気配を感じながら漫然と過ごしていたが、やがて葵がこちらを振り返って、

「家賃代わりに、夕飯でも奢るよ。なにか食べに行こう」

「泊っていくの」

「いや、帰るけど。いつも好き放題に居座ってるから、そのぶん」

「気にしなくていいよ。今日は買い置きしたのがあるから。それで済ませる。おとなしく薬飲んで、寝るよ」

 分かった、と葵は応じ、ジャズベースをナイロンツイルのケースに片付けて背負った。彼女が出ていってしまうと、それだけで部屋に静寂が満ちたような気がした。

 葵のいた椅子に腰かけた。テレキャスターで単純な旋律を辿ってみたが、どうにも無心になれない。燈火は吐息してギターを置き、目の前のパソコンを立ち上げた。仕舞い込んであってフォルダを開く。ネストポール。

 もともとは従姉妹どうし、遊び半分で始めたバンドだった。葵が歌いたがらなかった、単にそれだけでヴォーカルを担当するようになった。テレキャスターを選んだのも、弾きながら歌えるイメージの強い楽器だったからだ。

 歌に自信を持てたことはない。それでも舞台で声を張るのは快かった。詞も大半を書いた。くすぐったさと昂揚が同居したような日々を自分なりに疾走し、そして転倒した。バンドが五年目に突入した矢先だった。

 日常生活に支障はない。しかしヴォーカリストではいられない。ネストポールは停滞を余儀なくされた――。

 葵に宣言したとおり、残り物で夕食を拵えた。噛むことも飲み込むこともできる。味も感じられる。食事のあと、処方された薬を順番に嚥下した。薄らとした眠気が訪れたが、この時間から寝付ける気はしなかった。かといって夜、熟睡できるでもない。毎晩長く横になっているわりに、純粋な睡眠時間は短い。

 思い立って硝子戸を開け、サンダルを突っ掛けてベランダへと出た。途端に冷気に晒されたが、意識が洗われるようで心地よくもあった。

 日はすでに落ちかけて、オレンジ色の残滓だけをぼんやりと残している。青を薄く透かしたように見える空に、高さの違う建物のシルエットと窓明かりが浮かんでいた。

 耳を澄ませた。冬の街の発する混迷した響きのなかに、さざめきを探していた。

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