エピローグ 藤城百合香
美しい房が揺れている。
藤の木の下をふたりで歩く。
彼と最初に会ったとき、間違いなく百合香の心には別の誰かがいた。友人以上の何者でもなく、彼への気持ちが明確に変わったのがここだった。だから今でも明確に覚えている。
少し大きな地震があって、足を止めた百合香の肩を、安心させるように抱いた腕。少し寒いと震えれば、背負ったリュックから上着を取り出して着せてくれた。
特別なことなんて何もなかった。強いて言うなら、上着を取り出したとき、準備が良いと褒めてもらうことを期待したような瞳が、かわいいような気がしたことだろうか。
多分、ひとが恋に落ちる瞬間なんて、そんなものなのだ。優しくされて、なんだか嬉しかった。それだけのことなのだ。
けれど、逆はどうすればいいのか、未だに分かっていない。
後ろから、上着が掛けられる。
振り向いて、彼の顔を見る。穏やかに微笑む顔に、心が温まる気がして。
傘を傾げる。百合香の顔を、彼が見ないように。
この優しさが、憎かった。
この形のないものが、百合香には憎くて仕方がなかった。
彼自身は憎くはない。残酷な一面があっても、優しいことも彼の一部だ。自然に振る舞うとき、にじみ出る心遣いが好きだった。
けれど、愛がなければ、楽なのにと、そう思うのだ。
藤の花の香りが漂う。
少し強い風が吹いていた。藤は重たいように首を揺らす。
この美しい花が好きだった。この美しい色が好きだった。
美しい色が、死を意味するとしても。
子供を流産したあと、心機一転、新居を構えようと、そう言って彼はマンションを買った。好きにして構わない、でもキッチンは三口コンロで、と言った。百合香はそのとき入院中で、色々なことが申し訳なくて、言えなかったのだ。
退院して、新居を見て、自分のものと用意された部屋。
柔らかい、藤色の。紫の部屋。
「藤城がさ、色の話、興味深そうに聞いてたよ。小説のネタに使えるかもって文献探してた。仏典まで探し始めたんだけど、小説書くのにどんだけ調べるんだよ」
茅島と、いつだったかそんな話をした。まだ、雅彦と付き合っていたころだった。小さすぎて日記にも記さなかったけれど、覚えている。
紫は死の象徴。成仏の色。
死ね、と彼は言っていた。知らないふりをして、色に心を仮託して、意志をその部屋に置いていた。
「好きな色だろう?」
彼は部屋の中で手を広げて笑っていた。百合香は微笑み返す。素敵な部屋だわ、なんて、本棚まで紫の部屋を見回して、何も気づかないふりをして彼女は無邪気な顔をした。うれしい、うれしいと繰り返した。
彼の想いを受け取ったのか、百合香は短命に終わるらしい。
今から言うのだ。もうすぐ、自分は死ぬと。
腎臓はずいぶん前から患っていた。しばらくは投薬でごまかしていたが、透析となって数年。血管が痛み、透析もかなわなくなった。ならば腎移植を検討したが、自分の体は移植をもはや受け付けないらしい。腎臓以外にも、障害は広がっていた。そう言われたときの、言いようのない気持ちをなんと言うのだろう。涙が浮かび、それでも泣けなかった自分の気持ちが、理解できるだろうか。自分が長生きできないなんて、そんなのはなんとなく分かっていた。覚悟していたから泣けなくて、けれど絶望がじわりと胸を侵食する、そんな気持ちを、誰に言えただろう。
彼はなんと言うだろうか。悲しそうにするだろうか、それとも冗談と笑うだろうか。当たり前の、常識的な反応をするだろう。彼の小説は斜め上の展開をするけれど、彼自身は突飛なことはしないひとだから。
愛がなかったと、そう、認めてしまうのが怖かった。去るのではなく、最初からゼロであったと認めてしまえば、人生そのものをなくしてしまいそうで。
さよならよりも、なお遠く。愛にはほど遠く、恋も届かない。
自分の人生に意味があったと、そう言い切れる人間はどれだけいるだろう。茅島のような天才ならば、作品を残せるだろう。香織と雅彦のように、別れてなお想い合う関係であれば、それだけで幸せだと思う。けれど、やはり子を残すこともまた、一つの形だと思う。遺伝子上の繋がりがある子を残すことは、生物として正しい営みで、それだけで意味ある生なのだ。
それでもそれが人生の意味と同義と捉えるのは違うと思うのだ。自分は子どもを産めなかった。それでも子供が欲しくて、伊緒を引き取った。伊緒は百合香の憧れそのものだった。才能があって、病気もない。
けれど才能がなくて、病気でも、この人生に特に悔いはないのだ。戻りたい場所もない。両親との確執も、茅島とのことも、雅彦との別れも、忘れたくはあっても、そのとき幸せだったころに戻りたいわけではない。きっと、どんな道筋をたどったとして、どこかで行き詰ったのだ。そんなものを振り返ることに意味はない。だから、なかったものを振り返るよりも、あるものに意味を見つけたかった。
ピアノを上手ねと褒めるたび、目を逸らした女の子は、「こんなの当たり前なのに」と呟いた。褒められ慣れていないようで、居心地悪そうにおろおろしていた。
藤の花に触れる。細った先を指先でひっかいて散らして、ひとつ、ふたつと細かな花を数える。呼び声が聞こえた。遠い声と、走って近づいてくる声を聞いて、微笑みを浮かべて振り返った。
≪了≫
さよならよりも、なお遠く。 はぐりん @haguri
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます