第3章/3


 伊緒は父親の逮捕から、家を出なかった。もはや留年は確定したかもしれない。けれど、スキャンダルが知れてしまった場所で学生生活を送るのは厳しいものがあるだろう。落ち着くまで、家にこもるという選択を、香織は否定できなかった。

 とりあえず香織は伊緒の後見人となり、夜はこのマンションに帰っている。雅彦が死に、茅島が自殺して、藤城が消え、伊緒まで死んでしまう気がして、ひとりになどしておけなかった。

 ただいま、と声をかけると、伊緒はぼんやりとおかえり、と返してくる。なにをしているのかと見れば、百合香の日記を読んでいた。繰り返し、繰り返し読んだのだろう。いくら精神状態がおかしかったとはいえ、同じ家に住んでいた藤城や、過ごしていた時間の長い香織や茅島を信じさせてしまうほど、伊緒は百合香を理解していたのだ。

伊緒が手放したとき、一読した日記は、百合香のやさしさが感じられ、けれどなぜか哀しかった。茅島を許すしかないと語った一文、香織が恨まないのかと聞いたとき、答えなかった意味。幸せそうな百合香が、頭の中でなにを考えていたのかを知ると、泣けてきたのだ。

父親に会ってきたと、伊緒には言えなかった。伊緒にとって、藤城はどういう存在なのだろうか。殺人犯であり、百合香――母親の夫で、戸籍上は父親。そして、伊緒は恐らく、自分が自分として目覚めれば、藤城が自分を殺してしまったことを理解していたのだ。

 今日の話を聞いて、やはり一度百合香の部屋を見なければ、と思った。鍵はないけれど、家主の許可はなくて、今まで開けられなかった場所。そこに、雅彦の死の真相がある。藤城が、百合香の死を望み、雅彦を殺した動機があるのだ。

 伊緒が就寝のために部屋に行った。百合香の部屋を、開く。

 百合香が死んでから、整頓していたのは伊緒だという。そのままにしていたらしい部屋は整頓されていて、彼女が実家にいたころの部屋にそっくりだった。

 そして、一面の紫。

 そうか、雅彦は、これを見たのか。自分たちの共通認識、紫の色の意味。

「見ちゃだめって、言ったのに」

 部屋に入ったままぼうっとしていた香織は、声に扉を振り返った。伊緒だった。手元を見て、足がすくむ。電灯に照らされたきらめきは、包丁の形をしていた。

「おかあさんが、誰を憎んでいたのか、分からないけど、私は香織さんのような気がするの」

 日記の最後の一文は、『憎い』だった。細い字で、日記の中でさえ誰も責めなかった彼女が、一言だけ。

「おかあさんは子供が産めなかった。でも、香織さんは子供が産めるのに必要がないって。なんで、そんなに不公平なの。どうしてって、思ったんじゃないかって」

 思わなかったと、そう言い切れはしない。香織が百合香の立場ならば、思っただろうと思う。

「だから殺す。わたしは、おかあさんが憎んだかもしれない全てを殺す」

 日記にはすべてが描かれていた。茅島の過ちも、雅彦の非道も、色の意味さえも。幸せだった記憶も、ほろ苦い記憶も、そこにはすべて。百合香が心を整理するために書き募った、ながいながい日々の記録。

 百合香は死に、その日記は伊緒に渡った。雅彦は殺され、茅島は死に、藤城は去った。ここにいるのは香織ひとり。

けれど疑問がある。伊緒のこれは、復讐劇なのか?

「おとうさんのことも?」

「殺してみせる!」

 刑期を終えて出てきた、日常では優しい父だった藤城も殺すのだと、彼女は息巻いた。百合香の代弁者となるのだと、叫んだ。

「そうね。百合香はそう考えたかもしれない。でも、わたしだって考えたわ」

 なぜ、私は子供が産めるのだろう。女を捨てた身で、この体はなぜ血を流すのだろう。

「男は家庭を持つことが出世の近道だけれど、女は女を捨てなければ出世できないのよ。子供を産んで、何年も仕事を休んだ末に、どうやってキャリアを積めっていうの」

 だから別れた。雅彦は仕方がないと頷いた。香織は子供が欲しくないわけではなかったし、雅彦も子供が欲しかったわけではない。ただ、結果としてできる、できないという話ではなく、「作らない」と夫婦間で決定事項としてしまうのは、お互いに負担だったのだ。

 嫌い合って別れたわけではなかったから、定年を過ぎたとき独り身だったら再婚しよう、なんて話も冗談交じりに言っていた。そのころには割り切れているだろうと。会えば笑いあったし、再婚の話が相手に出ないことにどこか安心もしていた。

 好きだった。それでも香織は仕事でのキャリアを捨てられなかった。

 自分が子供を産めなくなっても、雅彦は夫婦でいてくれたのではないかと思う。むしろ、それだったら夫婦でいられたのかもしれない。けれど、自分は妊娠になんの問題もない女で、だから割り切れない何かがあった。

 なぜ、私は子供が産めるのだろう。

 なぜ、私は子供が産めないのだろう。

「………あげられるものなら、あげたかった。傲慢と言われても、それが私の本音よ」

 羨ましいとは言わない。ただの予想に過ぎず、自分が不妊の体質ならあっけなく捨てられた可能性もなくはないのだ。ただ、どちらにしろ自分には必要のないものだった。

 伊緒は香織を睨み、包丁を握ったまま近づいてくる。香織も凶器をかざされれば、相手が非力な少女でも恐れを感じる。けれど、ごくりと唾を飲み、覚悟を決めた。逆上させてしまうかもしれない。それでも、自分たち大人は、伝えなければならない。

「でもね、伊緒ちゃん。あなたはどちらも手に入れられるかもしれないのに、どちらも捨てるの?」

 時代が変わったとは言わない。多少の変化はあれど、やはり女が女として自立することは難しい。

 けれど、彼女は丸ごと捨てようとしているのだ。百合香に憧れ、百合香の人生をなぞり、その続きを完遂したあと、彼女は何をする? 彼女は自分の人生を生きるのか? そうではないだろう。

「戻れるよ、伊緒ちゃん」

 びくりと、包丁を持つ伊緒の体が震えた。

 誰もが見逃してしまったけれど、伊緒に重くのしかかっていたのは、雅彦の死でも、義父の逮捕でも、憧れ続けた義母の死でもない。

 茅島の自殺だ。

 考えてみれば当たり前のことだった。伊緒が百合香のふりをしたことで、茅島は追い詰められて首を吊った。高校生の身で、人の死を背負うのは重すぎる。伊緒のせいではないけれど、伊緒が百合香のふりをしなければ茅島は死ななかっただろう。

 果たしてそうだろうかとも思う。茅島は芸術家らしく不安定だった。ちっぽけな出来事に精神を左右され、慣れている香織たちは気にしていなかったが、世間一般的には社会不適合者である。学生時代はまだましだったことを考えれば、百合香との一件が、彼の不安定さに拍車をかけたのは言うまでもなく、なんらかのきっかけで簡単に糸が切れてしまっただろうとも思う。遅いか早いかの違いだったようにも思うのだ。不幸なことに、伊緒がその要因になってしまっただけで。

 それを伊緒に言ったところで、背負ってしまった重みが消えるわけではない。茅島は自分勝手だ。勝手に罪を負って死んだ。

 伊緒は、踏み越えてしまったと思ったのだろう。殺してしまったと思ったのだろう。後戻りができないから、全部壊してしまいたくなったのだ。そうではないと、どう言えば伝わるだろう。どう言えば、彼女は生きてくれるのだろう。

「百合香は、なにかを恨んでいたようだけれど、なにも語らなかった」

 なぜ恨まないのか、許すのかと聞いたとき、百合香は答えなかった。百合香自身にも、答えは分かっていなかった。きっと、日記の最後に残されたこともそうなのだ。恨んでいる。対象はなんだと問われて、答えられない程度には、百合香はすべてを愛していたのだ。少なくとも香織はそう思う。

「語らないものは、なかったのとおなじ」

 苦しみも、哀しみも、百合香は笑顔の中に隠して捨てた。この日記は捨てたものの一部であり、それでも書かなかったのならば「ない」ものなのだ。


「ねえ、かおちゃん。きっと、かずさんはね」

「わたしと、別れたいのよ」

 ふわふわと、柔らかな百合香の声。そんなはずないと、笑ったかつての香織。

 事情は知らなかった。子供を産めなかったことさえ、百合香たち夫妻が伊緒を引き取るまでは知らなかったし、その頃にはこの言葉は忘れていた。思い出したのは、藤城の告白を聞いてからしばらくしてのことだった。ああ、あのときの言葉は、このことだったのか、と。

 香織はあの日記帳を読んだけれど、そこには一言も触れていなかった。

 あの闇を、伊緒は知らなかった。知らない百合香を演じていた。大学時代から長く一緒にいた香織たち四人に百合香を見せていた。百合香だと、思った。

伊緒は、部屋を見られたことで殺された雅彦を見て分かったのだと思うが、そもそも、色の話をしたときに藤城はその場にいなかった。どこで藤城がそれを知ったのかは分からない。日記だけ見れば、偶然、好きな紫の部屋を藤城が用意してくれた、嬉しい、と書いてあった。色の意味など忘れたと読むことができる。嘘が記されていても、死んだ百合香に問うことはできない。

 だから、思ったのだ。語らなかったものは、ないのと同じなのだと。人が胸の内に隠した真実など、他人の目に映るそのひとの髪の房一筋にも当たらないのだと。

 少なくとも百合香はそうだった。彼女は肝心なところは何も語らなかった。偶像である彼女は、いつだってしあわせで、暗いところなどひとつもない顔をしていた。

「百合香はなにも語らなかったでしょう?」

 しあわせな自分を、彼女は見てほしかったのだ。真実の自分よりも、綺麗なものを残したかった。心が悲鳴をあげたとしても、それが自分の価値だと言い聞かせたのだ。

「だからね、ないのとおなじよ。茅島もなにも語らなかった」

 茅島が死んだ理由が、伊緒にあると、誰が言いきれるのだ。彼は「愛している」と残しただけで、理由も意味も書かなかった。部屋の様子は、狂気じみているほどに伊緒を見つめていたことだけを示していて、死をもってなにを止めようとしたのかなんて、知りようがない。

「だからね、戻れるよ。なにも、なかったんだから」

 言ったとたんに、妙な脱力感が襲ってきた。伊緒だけではない、囚われていたのは、香織もだったのだと気付いた。虚しさが襲ってきた。十五年。自分たちの十五年は一体なんだったのかと思った。深く付き合い、楽しく会話し、それでも壊れてしまった関係を思った。正しく「なにもなかった」。相手の深いところに、何も及ぼさないものだった。

伊緒の手から包丁が落ちた。

 その手に生を握らせるために、失ったものを思った。けれど、それでも、香織は愛していた。

 あの時間を。あの空間を。幼く、青臭く、それでも輝いて美しかった若きあの頃を。

 伊緒の頭を撫でる。彼女の瞳からぼろぼろと流れるものを見ながら、香織も少し、涙を零した。


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