第3章/2

 「こんなこと、あるわけないじゃない」そう、彼女――藤城伊緒は言った。


 藤城は出水雅彦の殺害を近くの警察署に出頭し自供した。その後、逮捕されることになる。警察はその犯行を疑ってはいたが、物的証拠がなかった。この自白ともう一つの証言を以って彼は逮捕に至る。

 藤城一保の養子、藤城伊緒の目撃証言である。

 留置場に勾留された藤城は、起訴を待つ身だった。香織は、藤城への面会を申し込んだ。ガラス越しに藤城が現れる。わけのわからないまま、ここまで来てしまった。藤城が雅彦を殺す理由が分からない。疑われていたことは知っていたが、理由がないと香織は藤城を庇っていた。そして、冷たい仕切りに世界を区切られ、お互いを見つめ合っている。

 藤城は香織の視線にうつむき、告白を始めた。

「流産したと、彼女の両親に報告した日、『離縁しても良い』と言われました」

 藤城と百合香が結婚してから二年、懐妊したという報せを受けた。その年に香織は雅彦と結婚し、めでたいことが続くと喜び合ったものだ。しかし、百合香はその子を流産し、もとの病気との兼ね合いで、二度と子供は望めないと宣告されたと聞く。

 結婚の報告のときの話を思い出す限り、そうかもしれないとも思う。百合香の両親は百合香に対して、わが子とは思えない仕打ちをすることがある。

「結婚の報告のときのように、彼女を辛辣に表現して。つい、口ごもってしまって」

 藤城から、彼らの言葉は当時相談を受けたことで聞いたことがある。今回のことも想像がついた。それは面食らうだろう。

「口ごもったあと、彼女の顔を見て、しまったと思いました。彼女は、見たことのない顔をしていた」

 なんでも百合香は許すと言ったけれど、それは心の整理をつけていたからだ。子を失ってすぐに立ち直れるわけはなく、聞き流せはしなかったのだろう。

「僕の様子を見て、傷ついた顔をしていた。かばってくれないのと、責めるような瞳に見えた。涙をぼろぼろと零して、顔を覆った」

藤城だって若かった。すぐに妻の両親に反論ができるような豪胆さは持ち合わせていなかっただろうし、瞬時に反論できなかったことは仕方のないことだ。また、百合香が唯一の味方である藤城に救いを求めるのも、当たり前のことだった。

「『こんなこと、ちゃんとお前が言うべきなんだ』『泣くんじゃないみっともない』『この石女が、ひとさまにご迷惑をおかけして』うまずめって、石女って書くんですね、あのとき、初めて知りました」

 震える。自分が言われたらどう思うだろう。守ってくれて当たり前の存在に、自分を否定される。女を否定し、価値を否定し、存在を否定される。

「いつも耐えていたのにそのときだけ、彼女は、机に突っ伏して声を押し殺して泣いていました。罵詈雑言は続いて、僕は」

 妊娠したときの百合香の喜びようを知っていた。失った悲しみは、香織には絶対に見せなかったけれど、簡単に癒えるはずがないのだ。追い打ちをかけるような声に、耐えられるはずはない。

「僕はかばうしかありませんでした。だって、一番傷ついたのは彼女です。彼女の気持ちを考えずに、石女石女と繰り返した父親の方が間違っているのは明白でした。でも、でも……!」

 藤城のそれは、確かに優しさだった。そういうことが間違いだと、彼は思っていたし、行動もしなかった。内心は責められない。行動しなければ、すべては闇の中だ。香織だって、どんなに雅彦が百合香を軽蔑していたとしても、捨てることをしなければ責めることはできなかっただろう。でも、哀しい。

「彼女が子供を産めなくなったと言われたとき、ぼくは、間違いなく、失望していたんです」

 涙が零れた。

 当たり前にあるべきと思っていたものがない事実。それに失望したからといって、誰が責められるだろうか。けれど、そういうことではない。彼は、子を産めなくなった彼女に、魅力を感じなくなったということ。

「別れたくて仕方がなくて、いっそ死んでくれればいいのにと」

 それでも藤城は自分の良識や良心と戦っていた。それはいけないことだと。傍らにいる彼女に優しくはしたいと感じていただろう。それでも、妻として、女として愛せなくなっていたのだ。

「僕は、彼女を愛してなんかいなかった。彼女が生むはずの、子供が欲しかっただけだったと、気づきました」

 身を切るように、彼は言った。

 よくあることだ。子供が産めない女には価値がないと離縁することは、さして珍しいわけではない。あからさまに言うことは憚られるが、仕方のないことだ。未だにあからさまに言うことだってある。夫の両親に詰られ、そうやって実家に帰った友人が、再婚を考えられないほど傷ついていたことも知っている。

 ショックだったのは、優しく微笑む彼がそういう男であったことと、愛されてしかるべき存在の彼女が、愛されていなかった事実だった。

 そういう思考を、忌むべきと考えていることは救いだっただろう。けれど、確実に彼は喜んだのだ。彼女の死を、喜んだのだ。

「誰にも知られたくなかった。こんな醜い気持ちは封印してしまいたかった。別れたかった。でもあの日の彼女の顔を思い出すと、そんなことできなかった。病気を患う彼女を気づかうふりをして、いっそ悪化すればいいのにと思っていた。いけない、そんな自分は許せない。でも、どうしてもいなくなってほしくて」

 香織は藤城をまっすぐと見据えたまま、なにも言わなかった。目を逸らしたまま言葉を続ける藤城と対照的に、ぼろぼろと涙を流しながら、彼の告白を聞いている。

「あの日、そう思っていたことを、彼に、知られてしまった」

 雅彦はなにを知ったのか。伊緒がかたくなに隠そうとしたあの部屋に、答えはあるのだろう。きっと、雅彦は見てしまったのだ。藤城の殺意を。

「そしたら、揺れたんだ。大きくマンションが。バランスを崩した彼を、今なら殺せるのではないかと思った。強く背を押して、柵の外に飛び出ていく体を見ていた」

 あの日、地震があったことは周知の事実で、だからこそ雅彦の死亡は事故であるという判断もされやすかった。地震がなければ、雅彦は死ななかったかもしれない。藤城の狂気は、雅彦を見つめたまま、閉じていったかもしれないのに。

「伊緒が、百合香さんとして目覚めてくれて、助かりました」

「伊緒ちゃんは、見ていたのね」

「見られているとは思いませんでした。伊緒が雅彦を助けようとしたとき、一緒に落ちてしまえと思ったんです。結局、彼女は雅彦の重さに耐えきれず、一緒に落ちて行ったけれど」

「あなたは、伊緒ちゃんをどう思っていたの」

 実子を欲しがるあまり、妻に死ねと呪いをかけた男は、彼女のことをどう思っていたのか。

 それだけは、彼は答えなかった。答えなかったけれど、ただ、一言。

「百合香さんでなかったら、僕は、きっと」

 殺せてしまうような存在ではあったと、そう。

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