第3章/1
母は、冬の寒い日に死んだ。
中学生の頃、父を殺した罪で、収監されていた刑務所の中で。母は死に、伊緒は孤児となった。
父の浮気を許せなかったと母は語った。聞いただけでは、人を殺す理由としてあまりに軽いと思っても仕方がないだろう。子供もいるのに、と別れればいいのに、と思うことだろう。けれどきっと、母にとっては地球よりも重かったのだ。伊緒の父を奪い、母である自分を否定してもなお、成し遂げたいことだったのだ。
そして、伊緒の存在は、木端よりも軽い存在で。
最後に会ったとき、愛していると彼女は言ったけれど、それから一週間で彼女は刑務所内で自殺した。
「わけありの子供」として、とりあえず親戚に預けられた。作り立ての制服は無駄になって、中学校は預けられた親戚の家の学区で決められた。大学生になり、家を出たその家の子供のおさがりの制服が残っていた。新しい制服を注文するには日が足りないし、伊緒だって申し訳なかった。ウエストがゆるくて、何度かまくって調節したら、「部活の先輩がスカート短くてナマイキって言ってた」と友達から聞かされた。その部活でもなければ、かかわりもない伊緒へ、なぜそんな感想を抱くのか不思議だった。まくらなければ腰ばきになってしまって心もとない。親戚にスカートを購入してくれと頼めるほどには、上手くいっていない。そもそも、きちんと引き取る家が決まるまでの仮住まいなのだ。雀の涙ほどだったが、母の蓄えはあった。でも、自分の食費や生活費を考えると、それから引いてくれとは言いづらかった。
女の子の習い事として、ピアノはメジャーなもので、その家にもかつてその家の子供が使っていたピアノが残っていた。そのアップライトピアノは、長い間、調律を放置していたようで、少々音が歪んでいたが、久々に弾きたくなった。頼んでみると、驚いた顔をされたが、了承してもらえた。数カ月ぶりの指はなまっていたけれど、残っていた楽譜を出してもらって練習した。
藤城百合香と会ったのは、その頃のことだった。
正式に引き取るという夫婦が、この家を訪れ、伊緒に挨拶にきた。特に問題はなく、処理は進もうとしていた。話し合いの中、少し、飽きてしまってピアノの部屋にきたのだ。曲を弾きたい。今日、最後まで譜読みをする予定だったのに、と楽譜を広げていたとき。
「ピアノ弾くの?」
今日来た夫婦の、女の方がそこにいた。ピアノの前で楽譜を広げていた伊緒に、後ろから声をかけてきた。
「よかったら聞かせてくれない?」
子供の目から見てもその女のひとは綺麗で、伊緒は緊張した。
「は、はい………」
これから引き取られる家だ。伊緒も良く見られたくて、仕上げた曲を探したかったけれど、練習曲では様にならない気がした。手にした楽譜の曲しかなかった。これなら、もっと前から勇気を出してピアノに触るのだった。泣きたい気分で、「まだ途中なんですけど」と言うと、なおも楽しみそうに彼女は笑う。
楽譜を広げて、指を鍵盤に滑らせる。十ページまではさらったが、最終ページはまだ読んでいなかった。みっともないけれど、そこまでで許してもらおう。
弾き終わったとき、感動したような拍手が後ろからかかった。
「やだ、仲良くなるためにわたしも弾こうと思ってたのに、恥ずかしくて弾けなくなっちゃった。伊緒ちゃんすごい! すごい! すごい!」
興奮したように彼女は伊緒のピアノに感動していて、そんなふうに褒められたことはないからなんて反応したらいいか分からなくて、小さな声でお礼を言うことしかできなかった。
引き取られてから、百合香もピアノを習っていたことが分かった。それどころか、大学で専門に学んだこともあるという。今でも趣味程度に続けている、と言っていたけれど、伊緒がそのピアノを聞くことはついになかった。
「伊緒ちゃんは天才だもの。恥ずかしいわ」
惜しげもなくそう褒めて、頭を撫でてくれる。本当の母親は、ピアノを弾く伊緒を怒ってばかりいたから、褒める言葉がくすぐったかった。社会的には悪人であり、悪い母親と言われていても、別に八つ当たりで怒っていたわけではない。ピアノの先生の言葉を、母なりに解釈して、次のときまでに言われた通りにできるようにと思っていただけなのだろう。恨んではいないし、それも教え方の一つだけれど、「すごいすごい」と頭を撫でて、認めてくれるこの百合香という素敵な女性が、伊緒はとても好きだった。
一度、百合香の両親と会ったことがある。そもそも、伊緒を紹介したのはこの両親だったらしい。厳格そうな父親と、気の弱そうな母親。殺人犯の娘という肩書のある伊緒を、どれだけ詰るだろうと覚悟していたが、彼らは伊緒には何も言わなかった。ただ、百合香の肩身は狭いようで、「おまえが子供を産めないせいで、夫にどれだけ負担をかけるのか」「血の繋がらない子供を、自分のわがままで夫にも育ててもらうことを、よく考えなさい」と、隣にいる伊緒を責めているのかと勘違いするような言葉をかけていた。あとから、百合香に対して厳しい両親なのだと聞かされて、彼らにとっては伊緒など目に入っていないのだと分かった。それならなぜ伊緒を勧めたのか、理解しがたいところだけれど、百合香の望みを叶えるくらいの親心は、あったのかもしれないと思う。百合香の葬式で、号泣していた彼らを見て、そんなことを思った。
**
父親、藤城一保の方とは、険悪だったわけではないが、「義理の娘」という一線をお互い越えないように意識して過ごしていたように思う。
百合香のいないところでは、どこか話しかけづらかった。けれど、家族で出かければ笑い合う、そういう関係だった。
百合香が入院すると、藤城と伊緒はどうしても父親と娘であるということと向き合わざるを得なくなった。藤城は、伊緒の親であろうとしてくれたし、伊緒もできるかぎり甘えようとは思っていたけれど、ピアノのレッスンの帰りに車で送迎してもらうことは申し訳なかったし、〆切前はなおさらだった。
茅島新と会ったのは、そんな関係に少し悩みを抱えていたときだった。父親と同年代の、軽くて話しやすい男性。意識するなという方が無理だっただろう。茅島は伊緒との関係をすべて自分のせいだと思っていたが、どちらかといえば伊緒の問題が大きかったのではないかと思う。
百合香が死んだとき、百合香の病院の遺品を整理していて、日記を見つけた。
小学生の低学年から、綿々と、毎日一言は書いてある詳細な日記。数冊にわたり書かれたそれを見つけて、誘惑にかられないわけがなかった。
百合香の死から一年後、事件は起きた。長い地震だった。ベランダに出ている父親たちのことが心配で、揺れている最中に見に行ったのだ。そうしたら、揺れに乗じて背を押す姿を見てしまった。助けなければと腕を掴んで、自分も落ちてしまう。そして、病院での情報によれば、三か月、寝ていたというのだ。
目を、覚ましたとき、香織と藤城が目の前にいた。藤城を目にして、頭が真っ白になった。怖かった。ただ怖かった。殺されると思った。彼の目をみたとき、伊緒ではなんのためらいもなく殺されると思った。だから百合香のふりをしたのだ。彼女なら殺されないのではないかという、浅知恵だった。日記を読みこんだだけなのに、藤城や香織、茅島まで疑いの目はあってもだましとおせてしまったのには驚いた。恐らく、皆、百合香の死に思うところがあったのだ。それを契機に色々なことが変わってしまった。彼女が死ななければ、どんなに良かったのかと、皆そう夢想していたのだ。
そんな詐欺や、皆の望みをかなえることが一番の目的だったわけではない。目覚めたときは混乱していて、ただ殺されたくなかっただけだったが。罪を犯したならば、ひとは罪を償わなければならない。たとえ、事故で良いと言われたとしても、許してはいけないのだ。けれど、伊緒が藤城の犯行を目撃したとして、物的証拠がないと断定されてしまった事件の証拠には弱すぎた。藤城の自白と合わせてやっと、伊緒の証言は意味を成す。
藤城に自首してもらいたくて、伊緒は百合香のふりを続けたのだ。
きっと、藤城も、香織も、「百合香」を名乗る伊緒に疑いを持っていた。一番それを信じていたのは茅島だったのだろう。海に行ったあの日、彼は二人きりになれる場所に伊緒を誘い、聞いた。
「おまえの娘に、同じことをした俺を、恨むか」
そのときはもう、茅島の罪を知っていた。複雑な思いはあっても、百合香が許したならそれでもうおしまいだ。だから茅島はずっと付き合いがあったし、それに伊緒が口をはさむ余地はない。
「恨むも、なにも。別の話でしょう」
伊緒のときのように、違う、違うと茅島は首を振った。
「伊緒ちゃんは、ちゃんとあなたのことが好きよ?」
いつもは決して言わない言葉だった。そこまで整理された気持ちではなく、色々なものが複雑に絡み合って茅島との関係を作り上げている。けれど、百合香ならこの気持ちをそう解釈すると思った。いつもやさしい解釈をしようとしていた百合香ならば、この胸の内をそう呼ぶ。
「しんちゃんは、違うの?」
夏の日差し。立ちくらみを起こしたかのように、茅島の目が焦点を失った。伊緒の手を痛いほどに掴みながら、彼はその場に腰を付いた。
熱射病か、と思って気づかいの言葉をかける前に、もう一方の手で顔を覆って、彼は笑い出した。気持ち良いほど大きく楽しそうに笑うのに、どこか乾いた響きがあった。ぐい、と手を引っ張るものだから、伊緒まで膝をついてしまう。ワンピースの中の足が熱砂に絡む。暑い。きっと、帰るまで砂は落ちない。足は暑いままで、車を汚してしまうのだろう。なにをするの、と言わなければと思った。でも、どうしたって近くにある顔が目に入って、言葉は喉に絡んだ。
「恋に生きられたなら、おまえをレイプなんかしなかった」
百合香が日記の中で、決して使わなかった単語だ。自分は絵の材料にされた、と書いただけで、踏みにじったとはひとことも書かなかった。けれど、茅島の中では、そういうことになってしまっている。伊緒が、百合香が否定しても、茅島はそう決めてしまっている。
「俺の人生には、ただ絵があれば良い」
おまえなどいらない、と告げた声は、妙に柔らかかった。百合香ではなく、伊緒自身に向けられているように感じた。いらないと言いながら、愛を告げられている気がした。言葉を交わさなくとも、お互いの関係を名付けなくとも、それで成り立っていた日々。きっとそういうことなのだ。知っていたのだ。惹かれていたことも、愛されていたことも、分かっていた。自覚なんかしなくても、伝えていなくても、ただ存在が寄り添うだけでよかった。もしくは、そうでなければ成り立たなかったのか。伝えては、伝えられたら、終わってしまうものだったのか。
「なあ、俺を許すか?」
きっと、母はこう言う。
「ゆるすよ」
答えに、茅島は口元で笑った。
死んだ茅島の姿を見てやっと、伊緒は自覚した。
ただ、好きだっただけだ。どんな形でも、一緒にいたかっただけだった。
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