第2章/Ⅲ 笹谷香織②
香織と雅彦が付き合いだしたのは、雅彦が卒業して一年が過ぎたころだった。
母親のことで口論になって以来、なぜか雅彦は香織を食事や映画に誘うようになった。香織もそれなりに忙しかったが、予定が空いていれば会った。院に進む予定の香織は、まだまだ学生の予定で、社会人である雅彦がいつも金を出してくれた。浮気の彼以降、男日照りの香織はこいつ自分に気があるのかと思ったが、雅彦は百合香の元彼だという意識があった。直接会うことはなくなったが、頻繁にメールのやりとりをしている百合香から別れたという話を聞いて、驚いた。香織が入部して以来、彼らはお似合いのカップルであり続けた。それが、卒業直前で突然別れたというのだ。たしかに、彼らの卒業間際、二人を見かけることはなくなっていたけれど、忙しいからだと思っていた。百合香との復縁を求めているのかとも思ったが、それとも違うらしい。そのうち、雅彦は香織に交際を求めてきた。百合香に相談したところ、百合香は今藤城と付き合っている、気にしないでという趣旨の返事をもらった。本当は、何度も会っているうちに、付き合うのもやぶさかではない、というより付き合いたい気持ちにはなっていた。了承の返事をして、院に入るころには交際がスタートした。
事情を聞いたのは、それから三か月後のことだった。
ばしん、と雅彦の頬を叩く。衆人環視の元、音はやけに響き渡る。今度人のいないところで話し合おう、と一方的に告げて香織はその場を去った。
話し合いは雅彦の家で、ということになった。企業の研究職につくことになった雅彦の部屋は、そういった書籍であふれていた。変な家庭の変な状況で生まれたこの部屋を、香織は今まで寂しく感じていたのに、ひやりとした怒りに支配された今は憎くて仕方がない。
「茅島には問い詰めたの」
「していない。百合香の責任だと思ったから」
「馬鹿でしょう」
雅彦側の主張の話だったが、十分に事態は伝わってきた。茅島にレイプされた百合香を、雅彦が捨てたのだ。
「私は許せない! 私の友達を傷つけたのも、女としての尊厳を踏みつけたあんたたちも! 法律家を目指す者として、人間として許さない!」
責任の所在は茅島にある。昨日、聞いてすぐ茅島をぶん殴ってきた。茅島は今後一切百合香にかかわらないと誓わせた。自嘲したように、そうやって人を大事にできる自分なら、と呟く彼が、理解できなかった。
「なんで百合香を責めたの」
「じゃあ、なぜ百合香は俺に会おうとしなかった。自分が悪いと思っていたんじゃないのか」
「自分の身を守れなかったから、合わせる顔がないと思っていたからよ。そういう意味では、自分が悪いと思っていたでしょうね」
昨日、雅彦は、自分と百合香が別れるとき、なぜ百合香は雅彦を引き留めたのだと香織に聞いたのだ。
「断じて、捨てられるのを先延ばしにするためじゃないわ」
香織は雅彦を睨む。そういう質問をしてきた時点で、雅彦は己の過ちに気づき始めていたのだろう。有能なこの男が反論もできずに項垂れた。
「お前が、百合香だったら、どうした」
男勝りで、なんだって男になんか負けないと香織は自負している。自信がある。男になりたいわけではない。女である自分に誇りを持っているし、一人で立って生きていくのが香織の目標だった。
涙が頬を伝った。悔しい。こんな人間性がおかしい男に、捨てられる想像をした。奪われて、傷ついて、なのに庇ってくれないこの男を想像した。追いすがりたい自分がいた。私は悪くない、だから許してと、別れないでと叫ぶ自分がいた。こいつよりもいい男なんていくらでもいるし、香織は一生独身だって生きていくつもりだった。だいたい、友人がそういうことがあったと相談にきたら、そんな男は屑だと、さっさと次に行けと言うだろう。自分の身ではなぜできない。どうしてこんな男がそれでも好きなのだ。
「許さない………」
ぼろぼろと涙を零しながら、香織は言った。絞り出すような、泣きぬれた声が許せなくて、もう一度繰り返す。
「ゆるさないッ!!」
「すまない」
雅彦は香織を抱きしめてきた。謝る声さえ許せない。
「あんたが謝るべきなのは、私じゃなくて百合香だ! 私は傷ついてない、百合香に謝れ! 一生償え! うわぁあああああ!!!!」
胸を叩いて、香織は泣き叫んだ。こんな男に惚れた自分が、一番許せなかった。
百合香を一番傷つけたのはと考えて、死にたくなった。
**
雅彦と別れ、鬱々とした日々が過ぎる中、百合香と藤城が結婚するという話が持ち上がった。
祝いの言葉を贈って、結婚式の相談もされた。百合香側から相談を受けていたが、一年前に大学を卒業した藤城から突然連絡があった。会って話したい、という。在学中に作家にデビューした彼は、今のところ兼業作家でそれなりに忙しい。香織が都合を付けて場を設けた。
中心街のファミレスで待ち合わせた。花嫁でもないのにマリッジブルーにでもなったのだろうか、と思うほど藤城の表情は深刻そうで、青ざめていた。
「かたわもの、ってなんのことか知っていますか?」
「なにそれ」
藤城は文章の専門家で、そちらの方が専門なのだから聞かないでほしい。恥をさらすだけだ。
「百合香さんの家に結婚のあいさつに行ったとき、お義父さんが言っていたんです」
予想がついた。それは娘をけなす言葉だったのだろう。
「こんなかたわものでいいんですか。後悔しませんか。こんなかたわでよかったらもらってやってください……ぼくは、その言葉を知りませんでしたが、彼女の病気のことを貶して言っているのはわかりました」
結婚するにあたって、藤城も百合香の病気について聞いたのだろう。
彼女は生来のⅠ型糖尿病で、現在は腎臓も患っていた。だから塩分を控えた食事しかできない。結婚相手となる藤城に、百合香は病気を告げたのだろう。そして、香織はこのことを知っていることも。
「ぼくは、覚悟して行ったんです。百合香さんは、だれの目にも魅力的に映るでしょう? 父親の愛はいかほどのものかと、それはもう震えながら名塚の両親の前に座りました」
藤城にとって、病気のことなど、百合香の魅力を損なうものではなかったのだろう。けれど、百合香の両親にとっては違った。
「彼女のお母様が、かたわかたわとお父様が繰り返すたび、いたたまれないように諌めるんです」
自分の両親は仲良くない、と言った日の百合香を思い出す。
もしかすると、百合香自身が原因だと言うのだろうか。それは根が深く、香織が見ていた世界が崩れていくのを感じた。自分さえいなければ、彼らは良い夫婦でいられるのに。
「どんな病気を持っているにせよ、大事な人です。愛していることに変わりはない。衝撃を受けたんです。愛されて当然の彼女が、あんなにもいたたまれないものを作り出すことに」
彼女はとても美しく、価値あるひとのはずなのに。どうしてこんなに、彼らは価値がないと言うのだろう。
藤城をどう励ましていいのか、香織には分からなかった。こんなことを百合香に言えるわけがない。香織にしか話せなかったのだろう。
けれど、百合香の根幹を見た気がした。なぜ、彼女はあの二人を許せたのか、分かった気がした。
**
雅彦を許さないと叫んだ次の日、百合香に会った。百合香の部屋で、額を床にこすりつけて、頭を下げた。
いいのよ、と百合香は笑った。穏やかな顔で、彼女は笑っていた。
「ああいうひとだから、かおちゃんが付き合うのは不安だけど、わたしに気を遣わなくていいのよ? 好きなら、それでいいじゃない」
信じがたいものを見た気がした。本気で言っているように見えた。彼女は、あんな仕打ちを受けてなお、また五人で会いたいと言っていた。
「か、茅島のことは」
「結果的に、彼はわたしを踏みにじったけど、ああいう作品に昇華されちゃったら、恨めないわよ」
百合の葬送。話を聞いた後、茅島のその絵を確認して香織は愕然とした。自分はなんて鈍いのか。あれは、百合香そのものだった。
「どうして………」
「茅島くんは、天才だから」
雅彦は、いつも芸術を良く分からないと言っていた。その気持ちが今は分かる。なぜ許せるのか。天才に踏みにじられるのなら、それは仕方がないとでも言うつもりだろうか。そんな馬鹿な話があるか。こんなにも綺麗な彼女が、どうしてそんな犠牲を払わなくてはならない。それを受け入れてなお、なんでこんなにも美しい。
「……恨まないの」
「恨まないわ」
「悔しくないの」
「悔しくないわ」
百合香はふわりと笑う。幸せそうに、暗いところなんかひとつもないように、彼女は笑った。
「どうして?」
心底から出た疑問だった。なぜ恨まずに、悔しがらずにいられるのか。それを受け入れて、生きていけるのか、分からなかった。
「さあ?」
ここで答えられていたら、きっと自分との違いに香織は諦めていたのだ。あのサークルメンバーとの付き合いを、断絶していたのだ。でも、その笑顔があまりにも美しくて、そうなりたくなった。百合香は、香織の憧れだった。
百合香が、藤城と結婚する前、全員を海に連れ出した。百合香が許しているのなら、香織の出る幕ではない。茅島への言葉を撤回する連絡もした。複雑な思いがあるはずなのに、五人での海はどこまでも楽しくて。
雅彦と復縁し、結婚し、離婚した。百合香はすべてを許してくれた。
彼女は、自分の価値を信じていないのだろう。両親に価値を否定された百合香は、茅島の作品の中の自分に価値を見出したのだろう。そして、そんな自分がいるから、雅彦の言葉も否定しきれなかったし、価値がない自分を切り捨てられても納得してしまったのだ。
それでも、許せる彼女がとても美しく見えて、そうなりたかったのだ。
香織は、百合香の笑顔を、彼女が死んだ今でも、忘れられずにいる。
*名塚百合香
答えられる問いならば、とっくに答えは出ているの。
だって、私も考え続けているのだから。
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