第2章/Ⅲ 笹谷香織①

 「なんていうか」と冠がつく。百合香と仲がいいと言ったときの、友人の反応だ。

 すごく美人。かわいい。いつも身なりをきちんとしてる。女性として憧れる。でも、なんていうか。

 気持ちは分かる気がするけれど、そんなに話したこともないくせに言ってくれる、と思う。でも、自分も、あの出会いでなかったら、どうだっただろう。

 入学したての時期は、大学という場所のなにもかもがきらきらしていた。他の人はどうだか知らないが、香織は浪人の末、受験に成功してこの大学に入ったのだから、その思いもひとしおだった。なにかサークルに入ってみたかった。でも、忙しいのは勘弁。ゆるそうな名前のゆるそうな案内のところを探していた。そうして見つけたサークルを見学に行こうと思い至って、サークル棟の部室まできた。

 コンコン、と戸を叩いて、「失礼します」と緊張しながら入った。

 緊張していたとはいえ、礼儀知らずだった。返事を待って、入るべきだったのだ。

 チラシを配っていたのは彼女だった。こんな砂糖菓子みたいな女性が実在するのかと思ったものだ。ゆるそうなサークルは数あったけれど、このサークルに決めたのは、もう一度だけでも、彼女を目の保養にしてみたかったのもあった。

 その人が、トップスをたくし上げて、腹に針を刺していた。

 息を呑む音が聞こえた。彼女の瞳が揺れる。後にも先にも、彼女――百合香がこんな風に動揺を香織の前にさらけ出したのは、これ一度きりだった。

 香織はその注射を知っていた。インスリン注射。父親がぶうたれながら食事前に打っていたものだった。父の病名は糖尿病。酒と煙草とハイカロリーの食事が好きだった父は、紛うことなく、生活習慣によるⅡ型糖尿病だった。何事も大雑把な父親だったが、その父でさえ、ひとさまに注射を見られるのを嫌った。

 塩分を控えた、薄い色の弁当が見えた。


**


 いや、まあ、その。

 とりあえず、男と女は別の生き物らしいと理解はしている。

 思考回路の違い云々は置いておくとして、どうも、思春期を過ぎた程度の奴らは性欲というものを持て余し気味なのだ。雰囲気と状況が噛み合えば、理性という枷を簡単にぶっ壊し、素敵な世界に吹っ飛んでいくわけである。

 要は、雰囲気が整えば、そのままヤっちまうらしい。

「ご、ご、めん……」

 目の前に広がる光景は、若さゆえの潔癖か、それとも当たり前の感情か、二十歳を過ぎた程度の小娘には受け入れがたいものだった。

 彼氏が浮気していた。恋人である香織の部屋で。


 頭が良くて、学歴もある女というのは厄介なもので、まず自分より下の男なんて論外なのである。

 県内の高校は、地方にありがちな学校のヒエラルキーの例に漏れず、私立より県立のレベルが高くて、学力順に第一・第二・第三、なんて分かりやすい名前が付いている。香織は一とつく学校の出身だった。最初の授業で、「きみたち自分より下の男となんて結婚したくないだろう?」なんて言われた。半分くらいは結婚できないね、なんて続いて、そのころは「そんなことはない」なんて思っていたものだけど、真実かもしれないと思えてきた。

 頭が良いと言っても女である以上、男には自分よりステータスが上であってほしい思いもあるわけで、必然的に色々な偏差値が高い人を求めるわけだ。しかし、間違っても男を持ち上げたいわけではない。対等でいたいわけだ。私の能力に見合う男であってほしいわけである。

 やっとというか、分かってきたのだが、偏差値が高かろうが低かろうが、男が女に求める役割は一定である。「こんなことできるなんて、すごぉい」とか言わなきゃいけないのである。私こんなことできない、と言わなければならない。ぶっちゃけ、なんでもできちゃうわけである。パソコンだろうが配線だろうが、果てはゴキブリもやる気ひとつでやっつけちゃえるのである。そんなところを見せたら最後、男は去っていくのである。

 前の彼氏にもらったティファニーのネックレスがあった。デートに着けていったら、今の彼氏はめざとく見つけて聞いてきた。多少無神経だったなと思いながら正直に話したところ、「そんなもの、どうして捨てないんだ」である。普通そういうのは女が言うことではないのかと思いながら、自分にも非があったと売ってきた。当時の彼氏が無理して買ってくれたもので、自分は生活を切りつめてまで装飾品を買うほどこだわりがある方ではない。光り物の選択肢を減らしたくなかっただけのことだった。しかし、無神経だったのは認めるとして、捨てるのが当然という考えはどうなのだ。彼は歴代の女がそうだったとかのたまったわけである。前の彼氏とのものは、きれいさっぱり捨てていた、と。だからなんだと言いたい。うちはうち、よそはよそ。そう言ってしまって別れたのが前の彼氏である。なのでぐっとこらえて売ってきた。このやろう。

 で、次の日。とはこのことである。女ともどもほぼ裸でたたき出してやったものの、なにかがむわむわと漂ってきている気がしてもう気持ち悪い。ベランダの窓を全開にして、ついでにキッチンの小窓と換気扇まで回す。この寒空にこれをすると冷蔵庫も真っ青な室温になる。ベッドはまだ見たくなかった。原因を取り除かなければと思いながらも、そんな現実は見たくない。

 一周めぐったら泣きたくなってきた。泣き伏せるベッドは他人の体液にまみれているわけである。

「このやろう………」

 ティファニーのネックレス、返せ。


**


「二十くらい年上の彼氏ってどう思う?」

 ため息とともに吐き出した問いは、周囲の友人数人を振り向かせるのに十分だったらしい。

 とりあえず、布団とシーツはクリーニングに出した。出したが腹の虫はおさまらず、謝り倒す男に別れとベッドを含む寝具一式を請求した。学生にはきつい出費である。真っ青になって更に謝り倒された。そんな金はどこにもないと言うのだ。それでも許さないと言ったら、親に泣きついたらしく、ベッド一台には多すぎる金と親からの謝罪文が送られてきた。また頭痛をこらえながら今度は彼の親に電話である。こんなに多くはもらえない、いやひとさまの娘に申し訳ないことを、その応酬。疲れたのでとりあえずベッドと寝具は買ってきて、余った金は彼の実家に勝手に送り返した。世の男はかくも女々しい。

「ありえない」

 即答したのは友人の中では派手めの子で、彼氏を駄目男から立派な男に成長させるのには定評があった。

「だって、どう考えたってすぐ要介護じゃない。遊びたい盛りに介護なんてそんなの嫌」

「その発想はなかったわー」

 引きこもりは引っ張り出し、果ては自分で某大型テーマパークのレストランを予約するまでに成長させる彼女は、なぜか成長しきった男に「君は一人で生きていけるよね」と振られがちである。そしてまた一からそれを育てる彼女には脱帽するが、確かに二十年上は彼女が尻を引っぱたく余地はなさそうだった。

「金持ってればありじゃないの?」

「施設とかに頼めるから?」

「なんで一足飛びにそこなのよ。まずヘルパーさんとか呼ぼうよ」

「だって邪魔じゃん」

「うわあ……」

 考えなしの若者の会話とはいえ身もふたもない。そりゃあ世の中の老人は不安になるだろう。

「まあ、まずウチらは女捨ててる現状をどうにかした方がいいと思う………」

「ああ………」

 一人の言葉に、皆がため息交じりの同意を示す。話題の最初が大抵「男って無能」で始まる女子数人の春は遠い。


**


「二十くらい年上の彼氏、私が作ったらどう思う?」

「………愛してくれるならいいんじゃないの?」

「………そっか。……まあ、そうよね」

 腹の虫がまだ収まらず、サークルでもくだを巻いた。答えた百合香はキレイゴトかましてくれたが、ごもっともな話である。というか、香織が欲しかったのは年上の彼氏ではなく、この友人の答えの通りだ。

「真実の愛とはー」

 綺麗すぎて敬遠される傾向にあるこの友人を、香織は嫌いではなかった。美しいことを臆面もなく言ってくれる彼女に、どこか憧れの念を抱いていた。

「とりあえず、笹谷は彼氏に浮気されたから浮気されない彼氏を探してるだけだろ」

「男に言われたくねえ」

 茅島がからかい交じりに笑いながら言う。こちらもごもっともだが、今度は踏んづけてやりたい。

「でも要介護はともかく、二十年上の男と付き合う女はいても逆は珍しいのはなんででしょうね」

「やっぱあれか、女には賞味期限が」

「殺すわよ」

 藤城の素朴な疑問に茅島がまた冗談交じりに言ったが、今度の香織は本気だった。男尊女卑も甚だしい。やべ、と呟いて茅島は目を逸らす。

「男女の結婚には、子供が望まれることが多いから。子供を産む年齢というのは、限られてるからね」

「社会的地位が保障された後に結婚できる男という立場は、得といえば得なんだろう」

 百合香が苦笑しながら言って、雅彦がなにか文献を読みながら答えた。雅彦は香織の話題など心底どうでもよさそうである。

「そうですか? 男も結婚しないと出世できないって聞きますけど」

「一般的な適齢期を逃しても結婚してない男性にはお給料とかの利点があるけど、女性は年を重ねる利点が少ないわね」

 百合香の言葉に、藤城がなるほど、と頷く。誰がどう見てもキャリアウーマン向きの女である香織は、女性差別というものが気持ち悪くて仕方がない。反論したくても、そういう社会の向きがあるのは否定しようがなかった。

「つまり、男はずるい」

 香織が常々言っていることだから、今度の反応は薄かった。この話題は香織だけの問題であってそれに付き合ってくれているのは好意だということは分かっている。そろそろ落ち着いただろうと皆がそれぞれ自分のことをし始めたのは気にせず、ぶつぶつと呟いていく。

「っていうかね、私絶対うまずめよりも種無し男の方が多いと思うのよね。そりゃあ、体つきでそれなりに難産体型はあるかもしれないけど。体弱いとかなら分かるけどさあ」

 不妊は女の方に問題があると言われるのはなんでなのか、不思議で仕方がないわけである。

「だってさあ、ちっちゃいころの熱とかでもやられちゃうわけでしょ。どんだけ弱いのよ、って話。蹴っ飛ばすとか言っただけで青ざめるし」

 男三人がものすごく複雑そうな顔をした。

「笹谷……おまえ残念な奴だな」

「今男にドリーミングしてないからあんたにどう思われようとどうでもいいこったわ」

 多少下品だったとは思うが、理想でないからと女に幻滅していくのは男の勝手である。知ったことではない。

「結婚って、結局財産分与の権利の主張でしょ。意味はそこにあるんであって、愛ともいえるのよ。子供とか付属物じゃない。そこがむしろ大事ってなんなの」

「荒れてるな」

 最初は愛が欲しいとぐちゃぐちゃしていたのに、今度は結婚制度の不思議を問うている。雅彦が呆れたように言った。

「重要なのは子供ができるかどうかじゃなくて、夫婦が幸せでいられるかでしょ」

「でも、うちの両親仲良くないよ?」

 百合香が苦笑して言った。夫婦が連れ添うだけでは幸せになれない、と彼女は言う。

 これが、香織には不思議である。

 香織の両親は離婚している。性格の不一致というあいまいな理由で、親権は父親が取った。母親は若かったし、祖父母が孫を強く望んでいたらしい。経済的な理由から、親権を取ることはさほど難しくはなかったようだ。しかし小学生の頃に祖父、高校に入ってから祖母は他界した。二人とも七十代だったが、この長寿の時代ではさほど長生きではなかったといえるだろう。

 さらに不思議なのが、この祖父母のこともバツイチであるところの父親は「仲良くなかった」と言うのである。離婚したくせに、その自分たちよりも仲が悪いとでも言う気だろうか。いや、別にそこまで考えていないのだろうけれど、くっついているんだから、離れるよりは仲がいいと言うのではないかと思うわけである。世の中には星の数ほど冷えた夫婦関係があるが、見る限り、愛憎劇や家族ドラマが始まりそうな予感はどこにもなかった。

 喧嘩している風景はよくあっても、笑い合っている図は見たことがないという、ただそれだけの話なのかもしれない。お互いに無関心よりはいいだろうとか思ってしまうのは、直接の父母ではないからか。やはり子供としては、幸せな夫婦関係を見せてほしかったのだろう。ただ、晩年、祖父は脳梗塞をやって数年、がんで死んだ。その間、介護の期間があった。祖父の体調の変化を最初に気付いたのは祖母だったし、彼女は体の自由がきかなくなった祖父の面倒をみていた。それは自然で、祖母も特に文句は言わなかった。脳梗塞で祖父は口がきけなくなっていたから、口から出てきたような祖母は、可哀想になってきたのかもしれない。

 だいたい、十年来の友人も、たった一つの失言で二度と会わないことがあるのに、夫婦関係がそれに準じないわけがない。

 しかし、百合香はただ香織の狭い見解に異を唱えたかっただけだろう。子供なんて夫婦には必要ない、と主張しているように見えてしまったのかもしれない。

「ところで、妻の方が老後の夫の介護をすることになってるけど、逆は考えてみないの?」

「あ」

 百合香の言葉に、思いつきもしなかった、と声が漏れた。

「あー」

「ああ……」

「われわれ、世話される気満々でしたね」

 藤城が苦笑して言った。女に世話される気満々とは、図々しいことこの上ない。


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