第2章/Ⅱ 出水雅彦②
卒業直前になり、大学に来ることも少なくなった。サークルの部屋に雅彦たちが来るくとも少なくなったが、一学年下の香織と藤城、留年した茅島はまだ入り浸っているらしい。
久々に顔を出してみると、スナック菓子を広げて一人で本を読んでいる香織と出くわした。
食べる? と言われたので、断る理由もなく席に着いた。今年卒業しない人間は追い出してくれる後輩がいない予定なものだから、追い出しコンパはしないことになっている。ぐだぐだのまま卒業することになる。
「あれ、出水くん実家じゃないの?」
丁度昼の時間で、雅彦が生協で買ったパンをいくつか広げると、弁当の話になった。自炊したくないから学食で済ませると言ったら、作るひといないのか? ということになったのだ。
「出水くんのとこも離婚してるんだっけ?」
そういえば聞いたことあった、と香織が考えなしだったと謝罪してくる。香織のところも離婚していたと聞いたことがあり、その流れで一度言ったことがあったかもしれない。親が忙しいとか、それ以前に一人暮らしなのだが、とりあえず話を続ける。
「ああ。父親の方に引き取られた」
「え、うそ」
「なにがだ」
「いや、離婚ってもう珍しくないけど、父親に引き取られるって珍しくない?」
珍しいと言われればそうかもしれない。自分としては当たり前のことだったが。
「言われてみればな。母親の方に不貞行為があったようだ」
「………」
すう、っと香織の表情が冷えた。
「なんだ」
「なに考えてんの? あんた」
いつもはノリを重視して、話を合わせる香織が、不愉快を隠さなかった。なにか、逆鱗に触れることでも言ったのかと言動を振り返るが、覚えがない。戸惑っていると、香織がことさら冷静になろうとするように言った。
「私も父親に引き取られたんだよ。うちはさ、あんたのとこみたいにはっきりした不法行為はなかったよ。性格の不一致だって。ここが嫌いだった、あそこが嫌いだったってたまに言ってる。でもさ、私、親がいつ離婚したのか、いまいち分かってないんだよ」
「どういうことだ」
香織は法学部だ。言葉の節々に法学系の言葉の使い方が見えるし、家族法も勉強しているのだろう。親の離婚を通して法律でも論じるつもりかと思ったのだが、違った。話はあくまで雅彦を弾劾していた。
「母親も再婚してしばらく経つから、もう会うこともなくなったんだけどね。お父さんと一緒に暮らしてたけど、母親とも数年は会ってたよ。幼稚園まで、母親の名字は私と同じだった。小学校に入ってから、変わったの」
つまり、幼稚園から小学校に入る間に、父親と母親の離婚が成立したことを意味する。別居から離婚まで、なにか夫婦間でこじれたものがあるのだろう。
「物心ついたころにはもう母親は同じ家に住んでなかったのに、同じ名字で、母親との病院写真もあるのよ。名字って離婚したときに申請しなくちゃ、結婚前のものには戻れなくなっちゃうものだから、きっと小学校に上がるころまでには離婚してたんだろうね。でも正確にいつ離婚したのか、未だに私は分かってない」
「なぜ聞かない」
「あんたのその神経が分かんないよ」
知りたいなら聞けばいい。そう思って言ったら、さらに冷たく返された。意味が分からなくまた戸惑う。香織はなにを言いたいのだろうか。
「うちが特殊なのか、あんたのとこが特殊なのか分かんないけど、事情を知ってようが知るまいが、あんたはおかしいよ」
なにがおかしいと言うのだろう。当たり前のことを言っただけだ。
「母親のこと、好きなの? 嫌いなの?」
「事実を言っただけだ」
「それが気持ち悪いって言ってんのよ」
母親が不貞行為をして、父親が離婚を請求した。受理されて雅彦は父方に引き取られた、ただそれだけの事実だ。そんな当たり前の流れに疑問を挟み込む余地があるのだろうか。
「会ったこともない母親に何を思えと言うんだ」
「じゃあ、父親のことはどう思ってるの」
埒が明かないと、今度は父親に話に移る。二十歳を過ぎて、父親は関係ないだろう。
「扶養義務はなくなった。だからもう自立してる」
「はぁ?」
「もう関係のないひとだと言ったんだ」
香織の顔がさらに歪む。説明しようと思ったが、そんなものいらないと拒否するように、いらいらと髪を掻いて、やり場のない怒りを机を叩いてやり過ごしているようだった。イラつかせているのは自分なのに、言っていることがまるで分らない。
沈黙が落ちて、気まずいけれど出ていくこともできない雰囲気だけがあった。少し落ち着いてから、香織はため息をついた。
「なんの感情もなく、言ったように見えたから。六法全書でも読んでるみたいで気持ち悪かった」
まさに、雅彦にとってはそれと変わらない。実験データを読むのと何が違うというのだろうか。
「親を特別に労われとか、思ってるわけじゃないわよ。憎んでも恨んでもないのに、切り捨てて当然って顔して。あんた、弁護士でもなければ検事でもないのよ。自分の親が浮気して離婚したって、それ当然のことじゃないのよ、分かってる?」
「………おせっかい」
悲しめ、と言っているのだろうか。だったら余計なお世話だ。火に油を注ぐだろうかと思ったが、香織は冷静に切り替えしてきた。
「ええ、押し付けだった。でも、あんたのは気持ち悪い」
理不尽だ。押し付けなら、香織側の責任だろう。雅彦だけは気持ち悪いと言われるのは心外だった。
「だって、なにも考えてないでしょう。浮気したら離婚が当たり前、ええ、そうね、私も彼氏たたき出した身だから同意する。でも、あんたは浮気されたわけじゃない。浮気は恥ずかしいことで、それをやったのが自分を産んだ母親だってこと、分かってる?」
分かっていると思ったのに、反論ができなかった。本当の意味で、自分はそれを理解していただろうか。ただ、離婚をする条件として、浮気を見ていなかっただろうか。
「それを許すも許さないも自由よ。自分は絶対にしないとか、そういう決意をしたならそれでいい。もしくは、そんな母親の子だって開き直るのも生き方の一つではあると思う。親がいる以上、そういうことからは逃れられないわよ」
もう縁の切れた存在だ。親も自分も、そう思っている。香織は違うと言う。親の生き方になんの感情も持たないなんてことはできないと、言っていた。
「考えたくないわけでもない。思ったこともなかったって口調が、気に食わなかったのよ」
浮気した女を切り捨てることを、なぜ当然と思っていたのか。
そうだ、自分の親がそうやって離婚していたからだ。そういうことがあったなら、迷いなく切り捨てることが当然と、雅彦の歴史がそう言っていたからだ。事情とか、感情とか、そういったものを切り捨てて、雅彦は機械的に切り捨てた。何の感情も抱かなかった。一足す一は二であるのと同じことだったのだ。そういう意味で、親の歴史から逃れられていなかったと言えるけれど、同時に、従った理由はそれだけなのだ。
芸術性を語られるくらいに意味が分からない話のはずだったのに、なぜか、目が開かれた気がした。
ごめん、と呟く香織に、いや、とだけ答えた。
同時に、少し、言いようのない焦燥感があった。なにか、致命的なことをしてしまっていないか。それが何かを理解するには、まだ時間が必要だった。
**
大学卒業から数年たち、百合香が藤城と結婚するという葉書が届いた。
それと同時に、サークルメンバーで一度会わないかという連絡があった。大学卒業後、全員で会うのは初めてだった。冬にもかかわらず百合香の希望で海に行こうということになり、茅島の運転で海へと到着した。
覚悟していたつもりだったが、冬の海は風が冷たい。茅島は車を出ようとしなかったし、藤城は温かい飲み物を買いに行った。香織は海に向かって叫んでいて、ふいに、百合香と二人きりになったのだ。
「すまなかった」
百合香へは、一度謝罪の手紙を出していた。香織が百合香はおまえなんかと会いたくないだろう、と言っていて、先に読んでもらい、謝罪の手紙だと伝えてもらった上で、百合香に渡したと言っていた。
「あの頃の俺は、お前の痛みよりも、自分の嫌悪が先に立ってしまった。お前が悪いわけではないのに、受け入れることができなかった。本当に、悪かった」
謝られても許せないと思うと、香織は言った。それが自分に起きたことならば、立ち直れないとも言った。
香織を愛している。雅彦は、自分はどこか人間的におかしいのだと自覚した。自分勝手で、傲慢だ。だから、香織を通してやっと、雅彦はそれが残酷なのだと知ったのだ。あれだけ気丈な女、自分と同じ合理的な思考を持つ人間が、自らの身に置き換えて考えるなどという愚挙をおかし泣いていた。そこで唐突に理解したのだ。ああ、あれはどうしようもなく傷つける行為だったのだと。想像するだけで壊れてしまうほど、残酷な行いだったのだと。
そして、自分は百合香を、香織を愛するほどには愛していなかったのだと、理解した。
未だに、雅彦は人間的に歪んだままだ。けれど文句のつけようのないほどに有能な人間だ。香織だけだった。お前はおかしいと雅彦を引っぱたき、相互理解をしようとする人間は、香織だけだったのだ。
本当に、悪いことをした。
「もういいのよ」
別れのとき、呪われてしまえとばかりに雅彦を睨んでいた女は、穏やかに微笑んだ。
「だって、あなたなんか目じゃないほど、今はかずさんのことが好きだもの」
雅彦は自分が優秀であることを疑っていないけれど、藤城の方が自分よりもいい男だろうということは認められる。こんな自分に付き合う女は哀れだ。
「なぜかしら。傷ついたのは事実なのに、忘れていたの」
百合香はマフラーに埋めていた顔を上げる。長い髪が海風にさらわれて靡いた。自分などのことなど忘れてほしいと思う。百合香は幸せになるべきだ。
「とても、好きなの」
そう言って百合香は苦笑した。いつも幸せそうな百合香にしては珍しいと思った。謝る雅彦を慰めていることの苦さか、恋愛感情の恥ずかしさか、そのときはそう思っていた。
数年後、彼女が亡くなったあと、藤城の部屋を訪れて、苦笑の意味を理解した。
紫の部屋を見て、彼女を哀れに思った。
彼女がそれでも愛したものが自分ではなかったことを、ささやかな免罪符にしながら。
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