第2章/Ⅱ 出水雅彦①
たった五人のメンバーに対して、この部屋は広い気がする。
五人が余裕で座れて、長机が二台あって、それぞれが持ち込んだ荷物が散在して成り立っている。一般的な教室の半分ほどではあるが、サークルの部屋なんてふつうはさほど使うものではない。運動部はもちろんグラウンドを借りるし、ブラスバンドも演劇も、講義に使う教室を申請して借りることの方が多い。サークル活動とは言えないメンバーの交流しか主な活動のないこのサークルは、もちろんそんなことはしないけれど。
「他国を侵略したいならまず、文化をぶっ壊せばいい」
なにが発端か、茅島がそんなことを言い出した。文化論の受講でもしたのかもしれない。
「文化とは、国民性の拠り所だからだ。誇るべきものがなくなったとき、拘っていた国というものを見失う」
学生のお喋りには重すぎるテーマではあるが、茅島のテーマにしては分かりやすかった。雅彦には、芸術や精神性の話がまるで分からない。目で見て感じられない不安定なものへの感受性が著しく低い自覚はあったが、逆に茅島はそれに特化した人物だ。大抵茅島が起点の話題にはついていけないのだ。
「じゃあ、フランスはどうなんですか? 第五まで共和制を壊してきた彼の国の誇りは、不満があれば自らの手で国を変えるという意思そのものですよ?」
「変えられない状況を作ればいいだけじゃないか」
「どうやってよ」
興味深そうに香織が問う。言ってみただけで特に具体案はなかったようで、少し考えるそぶりをした後、茅島は首を振った。
「さあ、それを考えるのは俺の仕事じゃないな。ただ、変えられなかったと自覚した途端、崩れ落ちてしまう気もするな」
また意味が分からなくなった。精神の話に入っていった。
「だが、文化ではなく科学技術を盗むことでもアイデンティティは喪失するんじゃないか?」
「アメリカとソビエトは昔そういう競争で世界を支配してたとも言えるけど」
百合香が同意とも否定とも取れることを言う。
「壊れるのは文明さ。文化じゃない」
人が依存するのは、頭ではなく心、科学ではなく芸術であると彼は挑戦的に笑う。
いつも思うのだが、この妙にインテリな会話はどうにかならないものか。
外部の人間がこれに参加したら嫌でたまらないのではないかと思う。引くことは間違いない。
これから学生運動でも始まるのかもしれないとさえ思わせる論議は、特に実を結ばない。お互いに「ふむ」なんて言って曖昧に終わる。議題はなんだっていいのだろうが、結論さえ必要としない。知識をひけらかすことが目的なんじゃあるまいか。
「………分が悪いな。理系は俺一人じゃないか」
茅島と雅彦の一騎打ちの様相を呈してきた議論は、雅彦の苦笑で幕を閉じた。茅島の意見に雅彦以外の皆がなんとなく納得してしまったのだ。煙にまくような言葉なのに、なんとなく理解できて、力技で納得させられてしまう。茅島の雰囲気には、そういうものがある。
「俺の勝ちだな、雅彦」
この男のことを、雅彦は全く理解ができない。けれど、この男は雅彦のことを結構気に入っているらしい。
**
芸術というのはよく分からない。
「ここにスケッチするものはあるのか?」
空いた時間に部室に寄ると、二人きりで話すことがない男と鉢合わせた。
茅島新。絵画科の有望株。油性の絵具の付いたツナギをだらしなく着こんで、さらさらと鉛筆をクロッキーに滑らせていた。百人いたら百人が整っていると言う顔を、薄笑いに染めて、茅島は雅彦を見た。
「来たじゃないか、お前が」
「………この、誰もいない部室で今まで何描いてたんだってことなんだが」
雅彦は幼いころから優秀と言われることが多く、同じ学部の中では冗談交じりに「エリート」と呼ばれている。外見的にも眼鏡に老け顔、良いものを長く着るという考えのもと選ばれたブランドものの服、すっと伸びた背筋と、学生の甘さが感じられず、教授と間違われることもままあった。
優秀であるところの雅彦は、この茅島という男が理解不能である。文化系である他のメンバーは、文章や音楽の感覚で「ああ、なるほど」なんて頷けるようだが、一足す一が二である世界でしか生きてこなかった雅彦にはそぐわない。数学の問題を感情で表わせと言われているような、無茶な話をされているように感じてしまう。
「スケッチっていうのは、そこにある必要はないんだよ。頭の中にある描きたいもの、描かざるを得ないものを吐き出すために存在するんだ。ウンコと同じだ」
「うそだろ。そんなにさらさら描いといて、目の前にないものだと」
「俺にしてみりゃ、お前が数学の難問を見ただけでさらっさら解く方が意味不明だけどなァ……それとおんなじだよ、さらさら描くまでお前は絵の練習なんかしたことないし、俺も数学の勉強なんかしたことない。いやー、よく大学入れたもんだね」
「そんなものか」
「そうそう」
努力すれば大抵のことは評価された。芸術科目も、器用にはこなしてきたと思う。高校までの音楽は歌が下手でなくてリコーダーの扱いが苦手でない程度で良い。絵の方も、部活でもなければ芸術的センスまでは求められず、見たものをそのまま描けば事足りる。遠近法は得意だったし、陰影を付けろと言われれば従うくらいで良い。ただ、上手い下手が理解ができない。リコーダーの音を外す、だとか静物画なのに抽象画のようになってしまう、だとか分かりやすいものはともかく、ゴッホのひまわりも、小学校で一番絵が上手だったクラスメイトも同じに見えるのだ。だから、上手くなろうなんて思ったこともなかったし、練習すればさらさら描けるようになるというのもいまいち納得がいかない。
「そんな雅彦くんがなんで一応は音楽鑑賞サークルに入ってるんだろうなァ」
仏頂面をしていたら、茅島はからかうように言った。
「馬鹿言え。ほとんど機能してないじゃないか」
「百合香に怒られんぞ。一応、集まったときにはCD掛けてるじゃねえか」
「…………」
「聞いてなかったのかよ。徹底してんな」
音楽なんて掛かっていただろうか、と口に手を当てて思案をしていたら、茅島が吹き出した。そういえば、百合香が雅彦より後に来たときは、CDプレーヤーをいじっていた気がする。
「百合香は楽譜読むのが苦手みたいでな。課題もらった直後にまず音源を聞きまくるらしいんだよ。だから、百合香が一人のときにここで出くわすと、楽譜とにらめっこしてたりする。みんながいるときは、課題だけじゃなくてなんか良く分からんオーケストラ曲とか流してたりするけどな」
「ああ……そういえば初見演奏の成績が壊滅的だって言ってたな。そういうことか」
バックグラウンドに音楽が流れているのは、快適だとは思うけれど。自分の都合もありつつ、快適に過ごしてもらいたいという気づかいでもあるのだろう。実際、理系で実験に忙しい雅彦が暇を見つけては寄りたくなる程度には居心地が良いし、茅島と二人きりの今よりは百合香のいる空間の方がリラックスできる気がする。
「やだねぇ、亭主関白。自分の女が自分を支えるのは当たり前だってか」
「……俺のためだけじゃないだろう。自分のためでもあるし、お前らのためでもある」
今まで気づいていなかった負い目もあって、言い訳じみているように感じた。
香織、藤城とほぼ同時期にこのサークルに入ったが、雅彦の学年は彼らの一つ上である。一人だけ理系であり、メンバーとのつながりも薄い雅彦がここに入った理由には、百合香の存在があった。
**
同じ大学であることは、同じ停留所で降りるから知っていた。大学名のバス停は、いつも混雑していて、毎日同じバスに乗っていたとしても顔が分からない人間なんかいくらでもいる。その中で、やけに目に付く女だった。毎日運転手の後ろの最前席の座っている、綺麗な女。いつも文庫本を開いていて、酔わないのかと疑問だった。その特等席を毎日取れるということは、ほぼ始発のバス停から乗っているのだろうと予測がつく。このバスの系統は、海岸からのものだったはずだ。長時間乗るのに、ぼうっとしているのも時間がもったいないかもしれない。学生の多い車内で、席を譲る必要に迫られることもあまりない。ごちゃごちゃとしたバスの中、そこだけ、ゆったりと時間が過ぎていっているように見えた。
大学一年生というのは、一般教育の科目が多い。他の学部学科と、教室や開講曜日が違っても同じ授業を取っていることは珍しくない。学期終わりも近くなったある日、偶然最前席の女の隣に立つことになった。レポート用の資料を借りなければ、と思っていた矢先、その女は雅彦が借りようとしていた本を出した。
「その本」
「はい?」
驚いたように彼女は顔を上げた。次に借りたい、と言いたかったのだが、少し唐突過ぎたかもしれない。けれど、彼女は気分を害した様子もなく、快諾してくれた。それどころか、今日これから返すところだから、時間に余裕があれば一緒に来ないか、と言う。一限の開始にはまだ時間がある。
「それにしても、レポートの〆切、まだ先なのにその本返すんですか?」
同じ学年らしく見えても、初めて話しかける人間にタメ口はきけなかった。同じ男ならまだしも、女性で、雅彦から見ても綺麗な女性だ。今後かかわりがなくても悪くは見られたくない。
「昨日終わらせましたから」
彼女はにっこりと笑った。雅彦も〆切に余裕を持って作成する方で、余裕を持って見積もった結果、今日から書こうとしていたのだ。ずいぶん早いな、と驚く。
「うちは実技があるので」
学科のことだろう。驚いた様子を感じて、フォローを入れてきたようだった。実技科目のあるものといえば。
「美術ですか?」
「音楽です。専攻はピアノです。学期持って歩けないので、らしく見えないかもしれませんけど」
きちんと見てみれば、少し大きめの手提げを持っていて、スケッチブックでも入っているのかと美術に当たりを付けたのだが。確かに、楽譜は入ってもスケッチブックには小さいかもしれない。
「音楽科のひとは、よく楽器持っているから、間違えてしまいました」
「副科の授業があるときは持ってますよ。今までピアノしかやってこなかったから大変です」
副科ってなんだ、と思ったが、言葉からすると専攻のピアノとは別にもう一つ楽器の実習を取らなければならない、ということらしい。音楽というのは大変だな、と思う。なんの目的で専門とは違う楽器まで練習しなければならないのか、さっぱり理解ができない。
図書館で資料となる本を無事雅彦が借り受け、授業のためにすぐに出る。彼女も同じく一限から授業があるらしく、図書館の扉まで一緒に向かった。
「学期末の実技テスト、公開されてるのでよければ来てください」
「ええ」
社交辞令だろう。講師が、公開されている授業に他の学部の生徒を誘いなさい、と呼びかけていることは想像がついた。一瞬の付き合いの最後にはままあることだ。
数週間後、その誘いを忘れていたころに、同じ学部の友人が「音楽科の姫」を見に行きたいと言った。そんな存在は初めて聞いたが、どうも件の女らしいということが分かった。どうも内輪で、その女の存在は広まっているらしく、今日が彼女の演奏テストの日らしい。別れたときの社交辞令を思い出した。
ホールに入ると、テストはもう始まっていた。緊張した面持ちで学生がピアノに向かっていた。後ろのはしっこに座る。やたら聞いたことのあるような曲と、やたらと簡単な曲を弾いて一人が終わる。
「なあ、テスト内容分かるか?」
難しい曲をすらすら弾けるようになった成果を発揮するのは分かるが、簡単な曲のテスト趣旨が分からない。こそこそと友人に聞く。
「課題曲と初見演奏のテストなんだろ」
一度は楽器をかじったことのある人間というのはどこにでもいる。ピアノを習っていたと聞いたことがあったし、彼はその内容を把握していたようだ。けれど意味が分からない。
「初見演奏ってなんだそれ」
「課題曲終わったあと、いきなり楽譜与えられてるだろ。その曲を弾けってことだよ」
「練習もしてないのに無理だろ」
「音楽科なめんなよ。とはいえ、たしかに苦手そうにしてるやつはいるけどな」
与えられた楽譜とにらめっこした末に、「ボロボロ」というタイトルが付きそうな演奏をしている生徒も見かける。
あまり話していると睨まれてしまう。その後は静かに彼女の出番を待っていた。
『名塚百合香さん』
マイクを通した教授の声が響く。「はい」と返事をして彼女が出てきた。バスで見かけるときよりもフォーマルな服を着た彼女を見て、隣の男が顔を輝かせる。
彼女がピアノを弾きだした。数分聞いて、隣の彼の様子がおかしい。
「どうしたんだよ」
「………つまらない」
「音楽なんてそんなものだろう」
「え、っと………なんだろ、強弱が付いてないっていうか、なにを聞かせたいのか分かんない」
「意味が分からん」
「ううん……いや、丹精なんだけど、上手なんだけど」
ホールでこそこそと、短い言葉で伝えられるような、整理された感想ではないらしい。聞くことを諦めた。
「お、おおう」
ちなみに、初見演奏は隣の友人がそんな声を上げるほどには酷かった。
彼は、演奏会に行くのが趣味だったらしい。ピアノ自体は練習が面倒になって中学校でやめたらしいが、レッスンでもらう演奏会のチケットが楽しみで続けていたものだという。ポップスならともかく、若者の趣味として一般的ではないからあまり言わなかったが、好き嫌いの判断ができる程度には耳が肥えていることは分かった。
だから、憧れの彼女の演奏に、なんとなく失望したらしいのだ。きっと素晴らしい演奏をするだろうと思っていた彼女が、平凡すぎる演奏をしたことが不満らしい。演奏の良しあしの判断がつかない雅彦には分からない世界だった。
帰りのバス停で、彼女、百合香と鉢合わせた。図書館でも聞いたかもしれないが、今日の演奏前のコールで初めて名前を認識した。前に並んでいた彼女に、声をかけると、笑顔で受け答えしてくれた。
「今日、聞きに行きましたよ」
「えぇ? ホントに来てくれたんですか?」
「お上手でした」
自分としては、嘘偽りのない感想だ。楽器の弾けない身としては、なんだって上手に思える。
「お恥ずかしいです。初見演奏なんて酷いものでしたし」
そちらは素人目にも酷かったので否定ができなかった。沈黙で答えると、百合香は苦笑する。
「いつも、なにを伝えたいのか、って怒られるんですよ。今日の講評もそうでした。自分では、頑張って解釈してるつもりなんですけどね」
テストが終わってすっきり、というよりは、どうも落ち込んでいる様子だった。そこを超えられないことが、彼女にはネックになっているらしい。
「俺には、良い演奏に思えましたけどね」
友人の感想も、百合香の悩みも、切って捨てていいものではないかと雅彦には思えてしまう。良いも悪いもない。すらすら弾ければそれでいいじゃないか、と思うのだ。さらり、と言った言葉に、本音を感じたのか、百合香は驚いたように雅彦を見た。
「ありがとうございます」
花のように笑った。雅彦の言葉が救いであったかのように、笑ったのだ。
**
そこから付き合いが始まり、交際に至って、百合香が入り浸るこのサークルへ入部した。二年に入ってすぐのことで、浪人して入学してきた香織と入った時期はさほど変わらない。
百合香と同時期に入ったというこの茅島は、雅彦よりも百合香との付き合いは一年長いことになる。一年生に取るべき単位をほとんど落としていて、学年上は同学年だが留年が確実らしいが、今年の入り浸り具合を見る限り、学校に来ていなかったわけではない。百合香との付き合いはこの男の方が確実に長いし深いのだろう。
「おまえ、自分がおかしいって自覚あるか?」
初見演奏のくだりから、百合香の出会いを掻い摘んで説明したら、茅島はそんなことを言った。至ってふつうの話をしたつもりなのだが、どこにそんな要素があったのだろう。
「俺はある。絵を描く以外のなんでも切り捨てられるだろうな。情緒も少々おかしいだろう」
茅島の言動はたまに倫理的におかしい。彼はおかしいこと自体は認識しているから、そこを踏み越えたりはしない。だから友人づきあいができるし、彼が問題を起こしたという話も聞かない。
「百合香がなんでおまえに惚れたのか、分かんないだろ」
あのときの言葉が嬉しかった、といつか聞いた。あのとき、とはいつのことか、まるで分からない。
「おまえにとっては、なんでもないどころか、百合香の悩みなんてくだらないって言っただけなんだろ。でも百合香にとっちゃ救いだった」
しまったな、そういう言葉をかければよかったのか、と茅島は苦笑している。今の話に出てきていることを言っているのだろうか。
「だって、俺にとって百合香の演奏はただ変な演奏だったし、悩むことに意義があると思ってたからな」
茅島が百合香に惚れていたらしいと分かったのは、さほど前のことではない。雅彦は恋愛の機微に疎いが、百合香以外に茅島は露骨だった。逆に言えば、百合香には伝える気が全くなかった。しまった、と言いながら、そういう、恋を実らせる努力なんかする気もなかっただろう。
茅島が席を立って、置いたスケッチブックには、百合香と百合と藤の絵がびっしりと描いてあった。
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