第2章/Ⅰ 茅島新③

 大学三年の後期。就職活動が迫っている時期だった。このころ、講師から一定の評価は受けていても、画家として生きていけると思えるほど、展覧会で評価されているわけでもなかった。普通に就職するのだろう、もしかしたら就職浪人するかもしれない、くらいに思っていた。絵を描く以外に能のない自身を自覚していたし、それを差し引いても、まともな社会性が自分にあるとも思えなかった。おのずと、画家よりはまし程度の間口の狭いところ一点を希望することになった。

「舞台美術にでも、関わる仕事に就こうと思ってる」

「無理よ」

 即答したのは百合香だった。意外だった。柔らかな彼女は、ものごとを断言しない傾向にある。それが、茅島の進路をきっぱりと言い切った。

「だって茅島くんは、他人の創作を手伝いたいわけじゃないもの。ただ、絵を描ければいいわけじゃないもの。ゼロから創り出すことしかできないの。ゼロから一、もしくは百。茅島くんに一から百は創れないと思う」

 ああ、と納得した空気が流れた。何を隠そう、茅島自身も納得してしまった。

「茅島さん、ひとに口出しされるの、嫌がりますもんね」

 藤城が、苦笑しながら言う。香織がだよねー、と同意した。

「『これを描け!』って課題を放棄して留年とか、私には理解不能だわー」

「技法を習いにきてるんであって、テーマを押し付けられるのは苦痛だったんだよ」

 若さゆえに融通がきかなかった。ストレートで入学したものの、一年遅れて卒業する予定なのはそのせいだ。もう少し器用に立ち回れば、一年面倒くさい思いをせずに済んだのに。

「どうにかこうにか卒業できそうで良かったわね」

「丸くなった」

「テーマを無視して描くことにしたのは丸くなったとは言わないと思うのよ……」

「それで納得させるのはさすがですけど」

 自分ではだいぶ妥協したつもりでも、周りからしてみれば十分おかしいらしい。沈黙でごまかすことにした。

「静かね、雅彦」

「抽象画はよくわからん」

 理系の雅彦には、テーマがどう、と絵を見せられてもどれも同じようで、悩みどころがいまいち理解できないらしいのだ。よって議論もよくわからないようだった。

「じゃあ、俺はいったいどこに就職すればいいんだ?」

「画家?」

 一斉に答えが返ってきたが、それができれば誰も苦労しない。

 のちに、誰も茅島が画家にならない未来を、予想していなかったと聞いた。学内でも評判だった。卒業までに、彼はどこかの展覧会に入選するに違いない。大学に入ってからは一度も茅島はそういった賞に応募していなかった。卒業までに一作出せばいい、くらいに思っていた。テーマを無視したという経緯のある作品を、出す気になれなかったのが一番の理由だった。

 そして、もう一つ。描きたいものが、明確にあったのだ。けれど、描いてはならないと、確信していた。

 雅彦を見つめる百合香、百合香を気にする雅彦。

 それに、嫉妬しないと言えば、嘘になる。嘘になるが、こちらを見てほしいなどという生易しい感情なら、茅島はそのフラストレーションを素直に画布に写せていただろう。色恋の苦悩を絵に反映する画家はいくらでもいる。けれど、そうではない。

 ぶっ壊してやりたかったのだ。

 百合香の恋を、木端微塵に、完膚なきまでに粉々に砕いて、砕いた先の彼女が見てみたかった。

 柔らかな女。一方の雅彦は、鉄の男とも言えるほど、古風で男性社会の典型といった考えを持つ男だ。理想の男女でもあるだろう。そんな姿は気持ちが悪い。


**


 それは、なんでもない日常の一ページだった。

 百合香が、茅島の絵を見に、美術科の茅島の使う一室に来たのだ。茅島は一室をほぼ私物化していて、サークル棟でなければこちらに入り浸っていた。自宅に持ち帰るよりは快適に描ける。

 なにを描いているの? と聞かれた気がする。それに答えることはなかった。キャンバスは真っ白だったし、そのときはもう、日常は壊れてしまっていた。

 押し倒して、柔らかな体を固い床に押し付けた。抵抗する彼女を力で封じ込める。悲鳴を上げそうになる口を、キスでふさぐと、胸を叩く腕が茅島を引き離しに掛かっていた。彼女の体をひっくり返す。後ろから口をふさぐと、指先を勢いよく噛まれた。血が出ているだろうが、痛みが夢のように朦朧としていた。いつ下着を剥いで、いつ自分もジーンズを下ろしたのか。

 言い訳のできないところを過ぎてしまえば、彼女は一切の抵抗をやめた。疲れたのか、諦めたのか、噛まれた指の隙間から、涙まじりの吐息を感じた。「いや」とか「なんで」を繰り返しながらも、かすれた喉の奥から、悲鳴が上がることはなかった。

 これほどの情熱を、茅島は他の女に感じたことはなった。付き合った経験も、性欲処理のためだけの存在がいたことも、ある。だが、何度も何度も、覚えたての少年のような、際限のない欲を感じたことなどない。

 相手が気絶するまで繰り返し、収まったところで、唐突に、画布が目に入った。

 肉体は限界を訴えていた。行為は数時間に及んでいた。なのに、黒炭を取って、下書きを書いて、絵具を乗せていた。夜を越え、朝日が昇って、目に入った世界は、茅島の描きたかった全てだった。

 この衝動はどこからくるのだろう。

 学生時代の恋愛は移ろう。百合香が雅彦と別れ、茅島と付き合うことが全くなかったとはいえない。その末に、百合香と添い遂げる未来だって、あったかもしれない。けれど、「そんなもの」とぐしゃぐしゃに丸めて捨てて後悔しない程度に、自分にはこれしか選びようがなかったのだ。

 描かずにはいられないもの。描くために必要なものを、どんな尊厳を踏みにじっても奪い取らずにはいられない衝動。すべてのものを壊して捨てて、それで圧倒的な「作品」だけが残れば満足なのだ。

 茅島は、自分の作品を作るための機械だ。自分はそういうものなのだ。

 ああ、朝日はなんて、眩しいのだろう。あの夜は、過ぎ去ってしまったのだ。

 眠い。


**


 起きたとき、既に夕方だった。

 行為の跡は残らず消えて、茅島だけが半裸だった。全て夢だった気がした。

 それでも夢であるはずはない。絵はそこに厳然と存在していた。人の気配がある。

 茅島の蹂躙に気絶した女。先に起きたのだろう。明らかにそういうことが行われた部屋の惨状を、放っておけなかったのはともかく、この部屋に長くいる理由はどこにもない。茅島の存在する部屋から逃げなかった理由が分からない。

 女は、茅島が描いた絵を見ていた。その指が絵に触れようとして、やめる。

 なぜ、壊さないのだろう。なぜ、彼女はこれを壊さないのか。

 自分の犠牲の上に成り立った絵。抽象画だ。具体的な彼女の何かがあるわけではない。だが、絵は完全に、この夜を物語っていた。

 彼女は目を伏せた。

「茅島くん。大丈夫よ、ゆるすよ、ゆるすから」

 なぜ、そんなことを言えるのだろう。

 彼女は歪んでいる、と思った。殺されたって文句は言えない。そんな罪を、なぜゆるす。悔しそうに涙を溜めて、それでも「ゆるさない」とは言わないのだ。

「ゆるすしか、ないから」

 彼女の瞳から涙が伝ったとき、彼女は柔和な笑みを浮かべていた。夕暮れの教室は美しくて、美しい彼女から現実味を奪っていた。


 図らずも、それは茅島が画壇へと進んでいくには十分すぎる賞を取った。

 百合香が棺に収まったとき、既視感を覚えた。あまりにそのものだった。

 その絵は「百合の葬送」と呼ばれ、今でも代表作とされている。百合と女が絡み合い、紫を抱く。誰にそう見えなくとも、茅島はそれを描いたのだ。

 死を抱く百合を、藤抱く百合香を。



*名塚百合香


 あの絵の前で、私は凡人だった。私は凡人で、茅島くんは天才だった。

 私の選択は、間違っていたのかもしれない。女として、許してはならなかったのかもしれない。

 でも、あのとき、私は彼がうらやましかった。

 天才になりたかったわけじゃない。でも、天才の絵を見て納得してしまうくらいには、芸術に焦がれていた。

 あんな圧倒的な絵の前には、ゆるすことしかできなかった。


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