第2章/Ⅰ 茅島新②


 それから、伊緒はたびたび茅島の家を訪れるようになった。大抵休日、連絡先を交換したから、いきなりくることはあまりないが、よっぽどのことがなければ、空けておくようになった。

 昼間に来て、とりあえず伊緒がピアノを弾いている間に茅島は絵を描く。セックスをして、まったりして、夕飯前に帰る。毎度ピアノを弾いていくものだから、とりあえず伝手を探して調律師を探してもらった。良い調律師だったのかは分からないが、とりあえず伊緒のピアノは輝きを増した。

 前日にきっちり欲望を処理していれば、こういう関係には至らなかったのではないかと、半年たった今でも思っている。いくら茅島が常識外れでも、高校生に手を出すつもりはなかったのに。ベッドの上に寝転がって、ちょうどいい位置に頭があるから撫でてみる。伊緒は不思議そうに、首だけ動かして茅島の顔を見る。見上げるような視線が、むずがゆい気がして目を塞いでみる。大人しく視線をもとの位置に戻した。

「あ、胸毛」

「やめてくれ」

「抜きたい」

「あー、勝手にどうぞ……」

 彼女の視線は茅島の胸にある。ぷちり、と疼痛が走る。胸毛はあまり生えないが、思い出したように生えているときがある。気になるときは抜くし、そうでなければ放置するのだが、今回は見つかってしまった。それはそれで微妙な気分で、今度から見つけたら抜いておこうと思う。

「結婚って、どういうものなのかな」

「それを俺に聞くか」

 公園で行きずりの女といたところに出くわしたのだから、そういうことへの倫理観が欠けていることくらい想像が付きそうなものだが。

「結婚は、男女が幸せのひとつの形なんだって、宗教の先生が言ってたの」

「へー」

「父親がいて、母緒がいて、子供がいて、そういうのが正常な家族の形っていう、考え方はどうなのかって」

「まあ、おまえは異議を唱えてもしかるべきじゃねえの。孤児なんだし」

「でも、そういう考え方の元、養子になったのも本当で、割と幸せでもあるの」

 戸籍上だけでも、父親と母親。同じ名字で、一つ屋根の下。本当の家族に、限りなく近いように整えられた空間。

「血の繋がりってなんだろう。子供ができないなら、血の繋がりのない子供を引き取るのでは、いけないのかな」

「あー、どうだろな」

 茅島は子供をつくる気がないので分からないが、自分の血縁を残したいという感覚はなんとなく理解ができる。そこを分け隔てなく接することができるのなら一番いいのだろうが、理想が過ぎるだろうとも思う。育ってきた環境からして、伊緒には分からない感覚かもしれない。

「でも、そういう考え方をする社会でなきゃ、結婚しなかったひとはどのくらいになるのかな。子供を作らなかったひとは、何人になるんだろう」

 百合香は子供が産めないと聞いた。未だに、社会はそういう女性を嫌う。女性の価値は若さ美しさと、子供なのだ。伊緒が引き取られたのは三、四年前のことだし、事情は話してあるのだろう。伊緒は百合香を慕っているし、社会のありように不満を持っていてもおかしくない。

「なんというか、おまえは暗い子供だなあ。恋でもしろよ。恋愛結婚がふつうって考えの場所にいってみればいい」

 愛さえあれば結婚するなら、世の中そんなこと考えなくていいのだ。ごちゃごちゃとお見合いや損得勘定での結婚を考えているからそういうことになる。

「茅島さんがそれを言うの?」

「あー、たしかに」

 裸の足に絡む、細い足を感じる。恋愛とは違う場所に茅島自身が伊緒をほうり込んでおきながら、言う資格はないだろう。


**


 百合香が死んだとき、いつでもぼんやりとしていた伊緒が、ぼろぼろと涙を流していたことが印象的だった。茅島は斎場に付き合うことになった。桐の箱を釘で打ち付ける度に、ぼろ、ぼろ、と加速度的に涙は増えていく。車の中で、ずっと泣いていたのに、焼かれる段になってぴったりと彼女は泣き止んだ。行かないで、行かないで、目覚めてほしいと言っていたのか。肉体がなくなれば、その願いはもう叶わない。諦めが、彼女の涙を止めた。

 泣きはらした目をして遺骨を抱えた伊緒は、百合香の父母の不愉快そうな目を全く気にしなかった。おまえが持つべきものじゃないという視線を受け流して、母を抱えていた。確かに、斎場での話しぶりからして、この二人が持つよりは伊緒に抱えられる方が百合香も嬉しいのではないだろうかと思う。百合香の病気で自分たちがいかに苦労してきたかを語っていた彼らに、情に厚いとはいえない茅島とてあまり良い気分はしなかった。

 三月、暦では既に春の日、異常気象が叫ばれる積雪の中で、百合香は骨になり、伊緒は母を失った。


 それから数か月、ぱったりと関係は途絶えたかに思えたが、唐突に連絡があった。

『海に行きたい』

 時は七月。海は稼ぎ時のまっさなか、彼女は夏休みがもうすぐ始まる。

「おまえ……おとーさんいるだろ、そっちに頼めよ……」

『落ち込んでるおとうさんには頼めないよ』

「友達とか」

『わたしにレッツレジャーって言える友達がいると思うなら、斬新な意見だけど』

「…………」

 すみませんでした。

「分かった。いつが良い」

『茅島さんの都合の良い日で構わない』

 自営業みたいなものである。最近は依頼が詰まっているわけでもなく、個展の予定も遠い。今描いているものをキリの良いところまで仕上げる日程を考える。言った日付に、相手が迷うことなく了承した。


 つばの大きい黒い帽子にサングラス、マスクは忘れず、上着も黒いし手袋までしている。ついでにズボンも黒い。靴下を履き、靴はおおよそ海に来ているとは思えない、レインブーツ。

「おい………」

 茅島がやったら不審者として一発で通報されそうな恰好である。海に来た途端着替え始めたと思えば、不審者ごっこでもしにきたのだろうか。

「行こうよ。みんなあっちにいるよ」

 立ち入りのできる砂浜を指して伊緒が言う。黒い傘まで広げ始めた。

「暑くねえのか、おまえ……」

 見ているだけでうだりそうだ。

「暑い」

「こういう場合、俺は砂浜で待機して、おまえは海で遊ぶのが相場じゃねえのか」

「茅島さんが海に入るなら水着買いに行っても良かったけど、そうじゃないならこれで行く」

「レジャーまっさかりの空間にそれで行くとか、おまえは特殊なレジャーでもしに来たのか」

 茅島は普通に半袖に短パンでとりあえずサンダルは持ってきたという服装で、はっきりいって三十も半ばのオッサンのこれはスマートとは言わない。年若い伊緒のそれと、茅島のこれの組み合わせは外聞的にキツいものがある。

「だいたい、さして水泳ができるわけでもないのに一人で泳ぐとか寒すぎでしょ」

 あなたに泳ぐ気あるなら別だけど? と続ける。

ああ、なるほど。茅島が自発的に海に入ろうとするようには見えないだろうし、実際水着の用意などない。一緒に海に入ってほしかったのか。そのために重装備までして、このまま海に行くのは憚られるようにして、入らざるをえないようにしたのだ。

そこまでしなくたって、頼まれればオッサンだって頑張るのに。

「いいよ。水着買いに行こう」

「………いいの?」

「いいのも何も、そうじゃなきゃお前そのまま行くんだろ?」

「うん」

 水着買いに行くのは躊躇うのにこっちは即答だった。

「理には適ってるし」

「その理は俺には猛毒だからまじやめろ」

 年頃の女の子は日焼けを嫌うし、あまりに肌を出していても微妙だが、不審者とオッサンの組み合わせは通報されそうだ。

 シーズンということもあり、海水浴場の近くには水着のショップが開いている。伊緒の体型や身長は平均そこそこで在庫がないことはないだろうし、男の水着なんてウエストさえまともならどうにでもなる。

 伊緒が選んだのはセパレートのやはり黒の水着で、茅島も黒を選ぼうとしていたが、お揃いというのもどうかと思ってひっつかんだ水着は迷彩だった。

「黒好きなのか」

「茅島さんが好きそうだったし」

「残念。俺は緑が好きだよ」

 コインロッカーに貴重品類を預けて、二人で波打ち際に来た。冷静に考えれば、この図もなかなか通報予備軍な気がする。まあ、父親とそれなりに大きくなった娘と思ってくれるだろうか。

「うそ。いつも黒選ぶくせに」

「俺は緑なんだよ」

 百合香がそう言っていたから。自分が選ぶのは確かに黒が多い。携帯から、歯ブラシなどのアメニティに至るまで、気づくと選んでいるのは黒だ。男の買い物として便利な色というのもあるが、好きでもあるのだろう。

「足の裏がうぞうぞする」

 波が引けば水はなく、波が来れば水に浸かる部分で立つと、段々と海に引き寄せられている気がしてくる。

 水に慣れてきた伊緒は海へと身を浸していく。その辺で買い、手に持った浮き輪に身を通してぷかりと浮いてこちらを振り返る。

「茅島さん!」

 伊緒が笑った。彼女にしては珍しく、曇りのない、満面の笑みだった。呼ぶ声に引き寄せられるように彼女の元へと歩を進める。水の抵抗はさほどでもなくて、すぐに彼女の浮き輪へと手が届く。

「しょっぺ」

「わたしも久々に来たから、こんなに塩水だったっけってびっくりした」

 水を舐めると、思いのほか塩気が強かった。学生以来の海は、忘れていることも多い。足裏の暑い砂の感触だとか、吹き付ける海風だとか、海水の味はもちろん、水面の美しさ。初めて見るものに感動するのではなく、自らの記憶への発見。また違った味わいがあると思っている。

 浮き輪のひもを、伊緒ごともう少し深いところへと引っ張る。

「足付かないよー!」

「俺は付くから安心しろ」

「ちょっと!」

 不満顔をしながら、楽しそうにも見えた。不安定さに快さも感じているのだろう。

「緑、かあ」

 茅島の顔を見ながら、伊緒は言った。疑問符を顔に浮かべている。

「緑かなあ?」

「なんだよ」

「やっぱり黒の方が似合ってるよ」

「まあ、そう思うんならそれでいいけど」

 今日の水着は緑に近いんだから、認めてくれてもいいと思うのだが。認めづらいなにかがあるのだろう。

「おとうさんは、白が好きで、やっぱり白のイメージなんだけど」

 藤城の普段着もボトムスはともかく、トップスは白のイメージだった。汚れやすいのではないかと一度聞いたが、好きなのだと言いきられた。まあ、好きなもの以上にいいものはないだろう。

「香織さんは赤っぽいよね。デキる女! って感じで、燃えてそう」

 藤城、香織ときて、思い出す。こんな会話が、大学時代にもなかったか。百合香が同じことを言っていた。赤は香織、ヒーローなのだと。男以上のことを軽々とやり遂げる香織にこそふさわしいのだと、今では理解ができる。

「おかあさんは、紫が好きだった。藤が好きだったから」

 そんなことも言っていた。思い出す。でも、と続けられた言葉は、なんだっただろうか。

 色の意味を、言ったのだ。あまり良い意味ではなかった。後で調べてみたところ、それ以外の意味もあれば、むしろ癒しの効果のある色だとも言われていることも分かった。けれど、百合香が言っていたのは悪いもので、だから茅島も、他のメンバーも共通認識として、紫とはこういう意味だというものがあった。

「わたしはなにいろかな?」

 伊緒の口調は少ししんみりとした空気を紛らわせようという響きがあった。励ますように頭を叩く。考えてみようと、視線を伊緒から海に向ける。水面に反射する陽光が、美しかった。

「………黄色、かな」

「なんで?」

「教えない」

「えぇ~?」

 黄色。黄信号。危険を知らせる色であったり、いろいろな意味があるとは思うが。

 今、茅島の目に、黄色は光の色に見えていて、希望そのもので。彼女はただ美しかった。


 海から上がって、仮設のシャワーを使ったが、勢いがないため潮がまとわりついているような居心地の悪さがあった。とりあえず、服に着替えるが、おさまりの悪さを感じる。

 車に乗って、帰り道を走る。

「なあ、百合香に、俺のこと、聞いたことあるか」

「ないよ。バレちゃいそうで、なかなか言えなかったし」

 親と同じ年の男と、恋愛の意味で真面目に交際していてもそれは言えないだろう。そして聞きにくいものかもしれない。

「じゃあ、みんなのことは」

 みんな。サークルメンバーを指していることは、伊緒にも分かったらしい。

「二人が話題にしてたりしたら、話にまざることくらいはあったけど……そのくらいだよ」

 そうか、聞いたことはないのか。今日の会話の中の、濃密な百合香の雰囲気は伊緒から出たものなのか。百合香が茅島になにかを伝えてくれたわけでもなければ、残したわけでもない。

 ふるり、と助手席で伊緒が羽織ったタオルを握りしめた。

「寒いか?」

「ん……だいじょうぶ」

 うとうと、ととろけるような声だった。寝ていい、と言うと伊緒はそのまま目を瞑って、頭を扉に寄りかけて眠りについた。

「俺は、おまえが」

 こんなことなら、聞いておけばよかったのだ。結果が目に見えていても、諦めることも、戦うこともできた。

 大事なことは、失ってから気づく。

 百合香に許しを請うことも、できたのに。


**


 茅島の家に着くと、六時を過ぎていた。藤城になんと言って出てきているのかと聞くと、友達と海に行くと言って出てきているという。遅くなる可能性があることと、夕飯はいらないことは告げているらしい。

 とりあえず、海では流せなかった汚れを落とそうと風呂を勧める。伊緒が風呂を使っている間に、店屋物を適当に頼んで、夕飯にした。茅島が風呂に入っている間に届くはずで、それの受け取りを頼む。海の帰りの体をシャワーで流すと、風呂の床が砂だらけになっていた。二人分の砂。排水溝に流したら詰まりそうだ。とりあえず今日は放置することにして、風呂桶に入る。伊緒の香織がした。

 風呂から上がると、伊緒は慣れたものでドライヤーを使って髪を乾かし終え、茅島の家に置いてあった自分の荷物からの着替えを来ていた。店屋物は来ていて、適当に二人で食べる。楽しかったか、と聞くと笑って頷いた。

 夕食を食べ終わって、伊緒は帰り支度を始めた。玄関で靴を履いている伊緒に、言う。

「伊緒、もうここに来るな」

「どうして?」

 心底不思議そうに、問いかける瞳。今日、なにかお互いの関係が崩れることはなにもなかったはずだと言っていた。確かに、そんなことはなかった。今日のことではないのだから。

 玄関先で押し倒す。戸惑う視線を見下ろした。

「こうやって、奪われたいのか」

「………」

 また来ると言うなら、と脅しつける。それなりに気を使っていた行為を、違うものへと変化させる。女に残酷な行為にしてやる。怖いはずだ。生ぬるい関係をぶっ壊して、男だけが気持ちいいことをすると言っている。伊緒の表情は変わらなかった。恐れてもいないように見えた。

「なぜ泣くの?」

 むしろ、茅島の頬を涙が滑り落ちていた。こんなことをしたいわけではない。どうして、自分はこんなことをしなければならない。この少女と別れたい、違う、別れたいわけではない。別れなければならない。そもそも、こういう関係になることがあり得なかった。別れる別れないではなく、最初からあってはならなかった。

「お前は好きでもない男と、寝ている。俺があのとき自制できなかったからだ」

「わたし、傷ついてないよ。気持ち良ければそれでいいじゃない。嫌いじゃないならそれでいいじゃない」

 茅島が成り立っていると思っていたのは、そこに感情が介在していなかったからだ。愛がなければそれでいいと思っていたのだ。けれど、よくよく考えれば年若い伊緒がそれを受け入れているのはおかしい。

「俺が、そうしたのか」

「きっと、わたしはもともとこうだよ」

「違う、違う、ちがう、はずだ」

 若さとは、そういうものではない。自分が一番大事だと、そう思える傲慢さだ。肉体をさらけ出す行為に、感情面でマイナスでなければ良いというのは、自分には価値がないと言っているのと同じことだ。そんな根底が、最初からあったとは、思えない。

「あなたのせいで何かが歪んだとして、それはあなたという人間のせいじゃなくて、作品のせいだよ」

 あなたの作品に感動しました、生きる希望を見いだせました。何度か、そんな言葉をかけられたことがある。

 素直に素晴らしいと、そう言ってくれる方が嬉しいのに、という本音を隠して、笑った。ありがとうございますと、評価に対する礼は言いながら、自分に理解できない気持ちはただのおべんちゃらと片づけていた。

 けれど、今なら分かる。彼らは本気でそう思っている。作品に救われているのだし、作品の先にいるのは確かに茅島ではあっても、茅島自身ではない。同化して見えても、救ったのは自分の作品で、自分ではない。

「わたしは最初から茅島さんしか見てない。作品も、画集も、見てない。抽象画ってよく分かんないんだもん」

 芸術とは、人そのものを表す。練習を怠れば、衆目はすぐにその歪みに気づくだろう。表現するたびに、丸裸の自分がそこに横たわる。どうかわたしを見てほしい、どうかわたしを暴いてと、作品は主張する。深奥には常に表現者という正体が隠されている。

「茅島さんはわたしを歪ませたと言うけれど、あなたはわたしをピアノなしで見ることができるの?」

 息を呑む。伊緒の才能に平伏して出来上がったのが今の関係だ。この部屋を訪れるたびに、彼女のために調律したピアノに彼女の指が滑るたびに、目が離せなくなっていった。止まらない絵筆と、彼女の体に触れる指先。藤城伊緒という人物そのものが、ピアノの音に表れている。ああ、そうだ、だから止まらないのだ。

「わたしのピアノは、変わった? だったら、考えなきゃいけないけど」

 変わらない。彼女は、変わらない。彼女のピアノに拒絶が混じったことなど、一度もない。

「未だに、わたしは自分のピアノを聞くたびに、重くて苦しい、冬が見えるよ。お母さんが死んだときの、景色が見える」

 実母のことか。藤城と百合香は、養子であるということ以外、伊緒の出自を語らなかった。親戚筋から引き取ったとはいえ、実の親が育てられない状況というのは、今の世の中では限られている。

 泥を水に消化するのに時間のかかる重さが、彼女のピアノには隠れている。

「だれか、助けてよ。生きるのが、重いの」

 伊緒が泣いていた。最初から、伊緒にとって自分は軽い存在だったのだ。だから、茅島の最初の間違いをわけもなく許してしまえたし、そうやってもとから歪んでいたから、変わっていないともいえたのだ。

 ならば奪ってしまえ。壊してしまえ。歪めばいい。歪んで茅島を拒否するような彼女なら、もう自分を軽くなどは考えないだろうから。

 唇を奪って、ベッドになど誘わず、その場で蹂躙する。行為の重さに彼女が泣いても許さない。床についた腕や膝が赤くなっても止めはしない。

 意識のない伊緒を見下ろして、その身を起こさせる。抱きしめた体が、話しがたいほどに、温かくて。


**


 以前よりも歪んだ関係は、それでも穏やかに過ぎていった。唐突に伊緒が来て、会話もなく、玄関先でただ体をつなげ、そのまま帰るのを見送る。送らないし、迎える準備もしない。きっと、茅島が留守だったこともあるだろう。セックスフレンドと変わらないはずなのに、会話の一つもないことが、お互いの感情の重さを物語っていた。

 許されたくないから、歪ませたはずだった。かつて茅島は、伊緒の母である百合香に罪をおかした。伊緒が自分の身を軽く扱うから、さすがに嫌になるだろうとこうしたはずなのに、もっとこじれている気がしてならない。けれど、どうすればいいのかもわからない。

 三月中旬、事態はさらに歪みだす。始まりは、香織からの電話だった。

『雅彦が、死んだの』

 疲れ切った香織の声。反射的に嘘だろうと言い出しそうになるが、香織は雅彦の元妻である。そういった冗談は言わないだろうと、呑みこんだ。百合香のときは、入退院を繰り返していたこともあって、ある程度覚悟していたが、あまりにも突然の訃報だった。

『藤城の家のベランダから落ちて……即死だったって』

 落ち着こう、落ち着こうと、声を絞り出している様子が、電話越しでも伝わった。なにをいったらいいか分からなくて、沈黙してしまう。

『藤城は、いま、手術に付き添ってる』

「手術って、雅彦は即死って今言ったじゃねえか」

 病院に運び込まれるまで、死んでいるように見えても素人は簡単に死んでいるとは口にしないし、即死という用語も使わない。死んでいるなら、手術はできない。

『ああ……ごめんなさい、混乱してるわね。順番めちゃくちゃ』

 嫌な予感がした。疲れ切っているのに動揺している香織の声は、事態の複雑さを伝えてくる。聞きたくない。

『雅彦は、伊緒ちゃんと一緒に落ちたのよ。雅彦は死んだけど、伊緒ちゃんの方は手術中なの』

 話の途中だったが、受話器を戻した。

 死んだのは雅彦で、死にそうなのは伊緒。

 正しく把握している。そう、伊緒は死にそうなのだ。もう二度とここには来ないかもしれないし、今日唐突に来ることもない。

 嘘だろう。

 閃くように、考えは頭の中に表れた。

 百合香にしたよりも、罪深いことを、したのではないかと。

 これは、罰か。

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