第2章/Ⅰ 茅島新①
キスをして、上着を剥いで、肌寒いと訴える相手を体温で黙らせる。香水のにおいが首元から立ち上る。その奥に隠れた体臭を求めようとして、彼女と目が合った。
目を限界まで見開いて、驚きをあらわにしている少女。おい、こんな時間に何してんだよ高校生。茅島が事に及ぼうとしている場所は公園だった。なんだっけ、こういう罪。猥褻なんちゃらとか言うんだっけ。
「あー………」
なんてことを思っている間に、なんだか気が削がれてしまった。相手の首元にうなだれる。やる気がなくなってからにおいを嗅ぐと、もう臭い気がしてきて一気に興味まで覚めていった。
「やる気失せた」
なんて言ったら、柄がL・Vの組み合わせのバッグを顔にぶつけられた。行きずりの男と、屋外での行為を許容する女だが、プライドだけは高い。ついでにセレブぶりたい割に口は悪くて、さんざんな罵詈雑言を吐いてからその場を立ち去った。
その一部始終を、彼女は固まったまま見ていた。瞳は、驚きから呆れへと変わっていたが。
「なんつったっけ。百合香の娘だよなァ」
「藤城、伊緒」
友人の娘なんて、普通はそんなに会うわけがない。茅島は顔が売れているし、二、三回藤城の家ですれ違ったことがあるから覚えられていたのだろうが、こんな場面を見てすらすら挨拶ができるほど親しくはない。茅島も名前を忘れている。
「ああ、伊緒伊緒。伊緒ちゃん。コーコーセーがこんな時間になにやってんだ?」
ここは駅前から足を伸ばした程度の距離にある公園である。藤城の家はバスで三十分ほどかかるし、聞いた覚えのある学校の場所も、このあたりではないはずだ。
「ピアノのレッスン。何か食べて、ぼーっとしてたら、こういう時間……」
ああ、逆に自分の時間帯が早すぎたとか、そういう。
「ぼーっとすんなよ、危ないだろ」
「べつに」
なんだかぼんやりした子だなと思った。今にも「じゃ」とおもむろに去っていきそうで、会話をつなげるのに耐えかねて空でも見上げたら次の瞬間いなくなっている気がする。
「送ってくか?」
「…………」
「どういう意味だ、その沈黙」
大人として常識の範囲で常識的な提案をしたと思うのだが、胡乱な視線を向けられてしまった。見られた場面が場面なので分からなくはないが、友人の娘に手を出す算段をするほど外道に見えているのだろうか。
「バスで帰ろうとしてたんだけど。家まで徒歩では、帰りたくない距離だから」
車か徒歩の送迎を想像したらしい。茅島は酒の気配がするだろうし、車で来たということはないだろうとあたりをつけたのだろう。ここから藤城の家までは徒歩だと一時間以上かかるだろう。自転車でも遠慮したい。
「世の中タクシーって便利なものがあるんだよ」
「家、近いんだっけ」
「いや、多分車だとおまえんちから二十分くらいだな」
「………それは、送る意味あるの?」
確かに、一般的に同乗するような距離ではないかもしれない。酔い冷ましもかねて藤城宅への顔出しでもしようかと思っていたから、あまり考えなかった。
「お小遣いが減らないだろ」
「………まあ」
言外に自分がタクシー代を払うと言う。伊緒は納得したようなしていないようなぼんやりとした受け答えをして、歩き出した茅島についてきた。
その辺の通りを流しているタクシーを拾った。目印と番地を告げると、運転手はすぐに場所の検討がついたらしく、迷うことなく道を進んでいく。
娘さんですか? という問いに、伊緒が答えないことを良いことに同意する。否定するのは突っ込まれて面倒くさいばかりだ。伊緒は一瞬茅島に視線を向けたが、反論することはなかった。
藤城のマンションに着いて、料金を払って一緒に降りる。意外そうな顔を向けて、すぐに父母に挨拶する気なのだと了承したらしい。鍵を使ってエントランスのロックを外して、茅島を招く。
玄関を開けると、すぐに藤城が出てきた。後ろに控えていた茅島を見て驚いた顔をした。
「茅島さん。どうしたんです? 伊緒と一緒なんて」
「久しぶり。街で偶然会ったんだよ。おまえ、高校生をこんな時間までひとりにするなよ。いくら田舎だって最近物騒だぞ」
「あなたに常識とかれる日が来るとは思いませんでしたよ」
学生時代から茅島はサークルの中でも非常識な方だった自覚はあるので、笑いで返した。そんな当たり前のことを言われても堪えるわけがない。
「でも、伊緒ちゃん。帰るときは連絡するように言いましたよね?」
「だって、おとうさん〆切」
ピアノのレッスンというものは、白熱するほどに長くなっていく。予定時間には終わらない傾向があるし、駐車場がないなら待っているよりは呼び出してもらう方が良い。なんとなく事態の把握ができた。ついでに、藤城は原稿がぎりぎりらしい。学生時代から〆切前日からレポートを書き始めるような男だったし、今でも余裕をもった進行はしていないのだろう。
「おとうさんだってプロですから。ちゃんと間に合わせましたよ」
「ちがう。徹夜明けに車で迎えに来られると、とても危ない。怖い」
「…………」
この伊緒というのは、養子で遠慮もあるのだろう……なんて思った矢先だった。藤城が沈黙する。親子関係のパワーバランスは上手くいっているらしい。
「おい、藤城。なんか面白いぞ」
「子供に心配されるほど、僕はなにをしたんでしょうか……?」
「後ろから追突される、バス専用車線で捕まる、あとこのまえ車擦ってた」
それは心配されるだろう。
「おまえんちの保険、大丈夫か?」
「いや、使ったの最後だけですから」
気まずそうに目をそらして藤城が言った。真ん中は警察に反則金を払えば良い話だし、一番最初は藤城の責任ではないだろうが、彼が事故にあいやすいことは理解した。そして、あんまり運転がうまくなさそうである。
とりあえず上がってください、と言われて、他人の家に上がり込む時間ではなかったが、遠慮せずに上がることにした。伊緒はなしくずしに自室に下がっていった。コーヒーが出てきて、口を付けると、なんだか薄かった。
「そういえば、百合香は」
「入院中です」
数年前は検査入院と称して半年に一回、一週間程度だった入院も、最近はペースが上がった上に長くなった。悪いことを聞いたな、と薄いコーヒーに口を付ける。百合香が淹れたここの家のコーヒーは美味かったから、つい聞いてしまった。
「おまえ、徹夜明けって言ってたな。なんの仕事だったんだ?」
「雑誌の連載ですよ。延ばして延ばして今日だったので、担当さんには悪いことをしました」
「不良作家」
「茅島さんに言われたくないですー。そっちこそ、今はどうなんですか?」
「ぼちぼち。こんどデパートでなんかやる」
「なんかって。ちゃんと覚えときましょうよ」
「直前になってからじゃねえと頭に入らん」
「あー……お互い、忙しい身の上になりましたけど、そこは同意します」
向かいに座って、藤城は自分の淹れたコーヒーに口を付けた。とたんに、顔を顰める。
「うすい」
悲しそうにコーヒーに目を落とす。
「豆の分量、一杯間違えました……」
ドジなところは変わらないな、と茅島は笑った。
**
来客の予定はなかったはずだが、突然インターホンが鳴った。通話ボタンを押して、来客者の顔を見ると、昨日会った少女が画面に映し出される。
『突然すみません、藤城伊緒です』
すぐに出る、と言って玄関を開ける。なにか贈り物らしきものを持った伊緒が立っていて、挨拶もそこそこに頭を下げた。
「昨日は、ありがとうございました」
お礼です、と差し出されたのはワインボトルだった。藤城に聞いたのか、茅島の好みの銘柄だ。これはタクシー代より高くついたのではないだろうか。
「どうやって来たんだ?」
「おとうさんに聞いた。昨日お礼忘れたのを思い出して」
別に良かったのに。学生のせっかくの休日をデパートと茅島邸への来訪で終わらせてしまうのと、藤城への挨拶も兼ねた送迎では割に合わないだろう。
「………画家さんの家、見てみたくて」
そっちが本音でよかった。茅島は変人の自覚があるが、対人コミュニケーションを閉ざしているタイプではない。むしろそこが開放的なくせに頓着しないのでトラブルがあったりする。連絡なしの来訪も特に気にしないし、上がりたいと言われれば上げる。
「ピアノ………」
茅島の家には、アップライトピアノがあった。ずいぶん前の女が音楽関係の仕事をしていて、家に来たときに弾きたいと言うので買ったのだが、結局すぐに別れてしまった。百合香が一度、ひどい調律、なんて笑った。百合香は柔らかい曲をさらさらと一曲弾いて、確かに付き合いで聞きに行かされたピアノと音が違うと感じた。
「弾いてみるか? 調律してないからひでえ音だけど」
「いいの?」
伊緒は目を輝かせた。昨日からぼんやりした視線しか見ていなかったから、初めて年相応の表情を見た気がして、驚いてしまう。
ピアノなんて、家でも弾けるし昨日だってレッスンで弾いただろうに。楽器を弾く連中というのは、自分の触ったことのある楽器を見るといじらずにはいられないようだ。百合香もそうだったし、他の例も見たことがある。
いそいそと伊緒はピアノの前に座り、蓋を開いて鍵盤を撫でる。その指が、旋律を奏で始めた。
百合香が弾いたピアノと、同じもののはず。
ラヴェル、水のしらべ。専門ではない茅島でも知っている曲だ。茅島の記憶では、水が流れるような旋律の静かでクリアな曲のはずだった。
伊緒のピアノは、本人のぼんやりと浮遊する印象とはまるで違う、重厚で、どこまでも重く重く沈んでいきそうな、過剰なまでに訴えかける弾き方だった。水どころか泥と言われても納得してしまいそうな異色すぎるラヴェルは、音楽界には受け入れられないものだろう。けれど、苦悩する水の姿は、茅島の脳を揺らした。
カンバスと絵具、絵筆。水。ここになぜない。持ってくるべきだ。この頭の中のそれを白い画布に落とさなければ。少女の世界をとどめなければならない。
道具を揃えようとばたばたと暴れているうちに、伊緒が曲を止めた。止めるな、と画布の向こうに告げる。ぼんやりとした視線はピアノに戻って、重いしらべを奏でだす。
数時間後、衝動が落ち着いた頃には、伊緒のピアノはさらりとした水を表していた。デッサンを見てみれば、泥から水への変化を表現した抽象画がそこにある。
「ああ、そうか」
手を止めて、天井を見上げていた。そこに浮遊する音を見つめるかのように。
「みずの、しらべね」
なぜ、
酷い調律のピアノ。重厚な音も、軽く軽く、水面をさらっていくような音も、出せるようなポテンシャルのあるピアノではない。
画壇で天才と呼ばれる人物には何度か会ったことがある。気にしたことはない。茅島はもともと評価を気にしない。吐き出したそれが、他人が表現できないものであればそれでいいのだ。茅島の中身は、世間とずれていて、画布の中の世界はいつも異質であり続けた。
その茅島が、かなわない、と思った。これは天才だ、と。同じ芸術家とはいえ、分野の違うものに圧倒されるなど、思ってもみなかった。
伊緒が画布を覗き込む。ぼんやりとした瞳が焦点を結んでいったところが見えた。
衝動があった。柔らかい少女の体を床に押し倒して、顎を上げる。露わになった首元に頭を埋めて、そのにおいを嗅いだ。
絵具のつんとしたにおいが混じった、若く甘い香りがした。
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