第1章/4

 海に誘えと言い出したときは何事かと思ったが、来てみれば新鮮ではあった。あのときは冬だったが、藤城と百合香が結婚する直前に一度五人で来たことを思い出す。そのときと同じように茅島が運転して海まで来た。

ただ、伊緒が夏休みなように、大抵の学生が長期休みの時期で、香織の休みにも合わせえたから、さらに土日休みの社会人までいる。予想以上に海は混雑していた。そして誰も水着を持参していない。

「伊緒ちゃ……百合香、泳ぐ?」

「ううん。潮風に当たるだけで十分」

 そのあたりを歩きてきてもいい? と伊緒が言う。藤城が付いていくという条件で、浜辺を一周しに行った。

 茅島と二人きりになる。浜辺までは出ず、コンクリートの歩きやすい歩道から、混雑する海を見渡した。水に入るとしても、海は泳ぐというよりは、楽しむという側面の方が強い。浅瀬で水を掛け合う友人たちや、浮き輪で遊ぶ親子の姿が目立っていた。

「ああいうことって、やるもんか?」

「うちの父親は勝手に遊んで来いってひとだったけどね。疲れるからやだって、絶対海にははいんなかったわ」

 自分の父親はビーチに日よけ作って荷物番で、友人の母親や姉などが海には付き合ってくれた。香織の家庭は物心ついたころから父親しかいなかったから、それでも、仕事の合間を縫って付き合ってくれたのだから感謝すべきなのだろう。

「小学生……一年生だったな。母親が死んだんだ」

 初めて聞く話だった。

「子供から見ても、母親は綺麗な女だった。病気になって、ずっと病室にいるようになって、化粧っ気も服装も気にしなくなって。その上、病状の悪化で顔が虚ろになっていった。汚くなっていく母親を見て、こんなことなら早く死んでしまえばいいのに、と思ったものだった。あんなに容姿にこだわってたなら、今の状態は辛いんじゃないかと思ったんだ」

 綺麗な女。母親を、百合香に投影していたのだろうか。学生時代、茅島が百合香に惚れていたことは、周知の事実だった。

「最後に会ったとき、母親は俺の顔を見て、抱きしめてめそめそと泣き出した。おいていきたくない、死にたくないとめそめそめそめそ。俺をダシに使って死にたくないって言う母親が、たまらなく鬱陶しかった。こんなふうにめそめそと死んでいくくらいなら、ぱっと死んでしまえばいいのにと思った」

 茅島の思考は独特で、人間としてどうかと思う。たとえ頭の片隅に浮かんでも、言葉に出さない。悪びれもなく、受け入れてもらえると思っているのかは知らないが、発信してしまう。受け流してしまえるあたり、自分の中にもこういう気持ちがあるのだと思う。露悪的な茅島を見て、どこか胸のすく思いがするのも事実だった。

「そのころはまだ死なんて遠くて、母親が死ぬことも遠くて、もう祖母に育てられてたようなもんだから、母親の存在すら遠かった。過労で風呂で溺れ死んだ父親なんてもっと遠くて、寡黙な祖父も近くは感じなくて、俺を可哀想と慰める祖母は遠くしたかった。小学生の無意味な万能感だけがあって、きっと現実が一番遠かった」

 学生時代の考えの浅い思考。大学生ですでに病気を患っていることは珍しい。あのころは自分の死は遠かった。

「死なんて、遠いもんじゃねえよなあ」

 いまはなぜか、こんなにも近い。


 茅島と伊緒が日陰で休み、藤城と飲み物を買って帰ると、伊緒が砂浜にすっ転んでいて、茅島はそれを起こしていた。

「しんちゃん、車よごしちゃうかも……」

「構わねえよ。ジュース零すよりマシ」

 いくら払っても砂は落ちず、申し訳なさそうに伊緒が言う。茅島は軽く受け流した。

 暑い日差しが砂からも照り付ける。日陰で休んでいたはずのこの二人もまた、暑さに酔っているように見えた。

 海の汚れを諦めたのか、そのあと、伊緒は吹っ切れたかのように海辺に出ていった。ビーチサンダルを抜いで、浅瀬で海水につかる。いきなり吹いた海風に、白いロングスカートがたなびいて、裾が浸かってしまったらしくしょんぼりとしていた。三人を見ると満面の笑顔で手を振ってくる。麦わら帽子が彼女の顔に影を落とすものだから、伊緒の顔が見えなくなって、本当に百合香のように思えてしまった。

 違う、あれは伊緒だと、そう言い聞かせなければ、香織は信じてしまいそうになっていた。


** 藤城一保


「一緒に、海にいったこともあったね」

 砂まみれの体を、シャワーで洗い流して、彼女は砂まみれの廊下を掃除していた。彼女が風呂を使っている間、リビングで休んでいたのだが、怒られてしまう。せめて着替えてから部屋に入ってくれればよかったのに、と。リビングにも砂が侵入してしまったが、風呂に入る前に着替えるのはなんだか嫌だ。

「冬の海は、すごく寒かった」

 ぼくも着替えて、掃除をしている彼女を手伝う。雑巾がけは、あっという間に砂だらけになった。これは脱衣所と、服自体も一度砂を払わなければならないようだった。

「あのときね、まーくんとかおちゃんが一度別れてたよね。くっついては別れて、結婚して離婚したのに、まだ仲が良かった」

 聞かない、聞いてはいけない。

「いつかまた、復縁するかなって思ってたんだけど」

 ぼくが壊してしまった。彼女は責め続ける。


**


 その次の日、礼を言おうと電話をかけたが、つながらない。気になって様子を見に茅島の家を訪れることにした。

 ばらばら、と扉を開けた途端に紙が舞う。家の中はスケッチであふれていた。

 狂ったように描きちらしては破り捨てたクロッキーの一ページ一ページが、香織の目の前を通り過ぎて行った。妖しくも美しい女の肖像。鉛筆画なのに、白い肢体が見えた。今にも振り返りそうな見返りの姿。

 違う。女ではない、少女だ。若さを宿した瞳もあった。行為への興味を瞳に乗せて、男に身を絡める少女。そこには顔しかないのに、そういうものを連想せざるを得ない、官能的な表情。

 白いワンピースと麦わら帽子。百合香みたいな恰好。ふわふわと風にたなびくスカートと、つばをおさえる指。指先ひとつ、髪の毛の一本、記憶から映し出すとばかりに、丁寧に描かれていた。背景には海が見えた。水面が陽光を映し出してきらめいていて、なのに彼の瞳は少女の方に釘付けだった。「綺麗だ」と呟くのに、彼女は「今日は天気が良いよね」と答える。彼は伝えることが面映ゆくて、それ以上言葉を重ねることはしなかった。言えばよかったのに。そうすれば、きっと、こんな、何も伝えられずに終わることはなかったのに。

 見えてくるようだったのだ。描いた人間の感情のひとつひとつ、描かれた人間が彼をどう見つけていたのか、彼にどう見えていたのか、感じられるような。


 描かれていたのは、伊緒の姿。

 そういうことか、と。


 他の部屋への扉の前に、伊緒が佇んでいた。

 呆然としているように見えた。

 紙を避けながらそこに進んで、香織も体が硬直した。


 鬱血し、赤い顔。

 ドアノブに紐を絡ませ、茅島が首を吊っていた。

 伊緒は、彼の頬に指先を当てていた。

 その指先はなにを感じているのだろう。

 その瞳は茅島を通り越して、遠くのものを見つめていた。ぼろり、ぼろりと涙が零れ落ちていた。ああ、冷たいのだ、と思った。


 救命作業をしなければ。

 無駄だと頭の中で声がした。うるさい。無駄じゃない。だって、まだ香織は茅島の体の冷たさも、首を絞める縄の食い込みも知らない。持ち上げなければ、縄は茅島を殺してしまう。その前に。もう死んでいるのに。死んでない!

 茅島の体を持ち上げる直前、目に入った紙。クロッキーではない、罫線の引かれた便箋の一枚。それは体のすぐそばに落ちていて。


―――――愛している

 彼が書き残したものは、ただ、それだけだった。


** 藤城一保


 茅島さんの葬式で、彼女は消沈していた。雅彦のときは眠っていたし、仲間たちの葬式は初めてだっただろうから。

「しんちゃんも、死んじゃったね」

 制服を着こんだ彼女は、リビングのソファーでぼつりと呟いた。

「三人ぽっちになっちゃったね」

 茅島さんと、出水さんがいなくなった。三人しか残っていない。

「これから、二人になっちゃう」

 だれと、だれが?

「それとも、ひとりかな」

 だれが残るのか。

「かなしいね」

 ああ、かなしい。彼女の言いたいことが分かって、ぼくは項垂れた。

「ごめんなさい」

 膝に頭をこすりつけて泣くぼくを、「いいのよ」とやさしく撫でる指。いとおしい感触。

 あなたが、伊緒の体を使ってぼくと生活してくれると分かっていたら、ぼくはあんなことなんてしでかさなかったのに。


**


藤城が自首をしたと、弁護士事務所で話題になったのは、茅島の葬式から二日たった朝だった。

出水雅彦の殺人容疑で逮捕。雅彦が香織の元夫であることは知らせていたし、事故で決着もついていた。いきなり殺人で逮捕と言われても理解が追い付かない。

 逮捕に至った経緯には、彼女の証言もあった。藤城伊緒が、藤城が雅彦を殺害する現場を見たと、自首した藤城の傍らに寄り添って、そう言った。

 藤城のマンションを訪れる。事務所には早退届を出し、好意で受理してもらった。

「伊緒ちゃん……」

 玄関で出迎えてくれた伊緒は、それでもしあわせそうに微笑んでいる。彼女は伊緒として証言してなお、百合香のままだった。

 リビングに通され、おいしいコーヒーが出てくる。口を付けられなかった。指先から冷えて、震えが止まらなかった。

「もう、伊緒ちゃんに戻っていいじゃない。藤城のために、あなたは」

「………、あるわけないじゃない」

 柔らかい声音だった。微笑みすら浮かべて、穏やかに彼女は言った。

 その響きには覚えがあって、まるで百合香のようだった。

 息を呑む。

 あるわけないと言ったその前にあった、あまりにも微かな声を耳にして。

 あり得ない、これは伊緒だと言いながら、香織はやはり信じていた。

「どうして?」

 目の前で微笑む彼女は答えない。

 思い出の中の百合香とその姿は重なる。あまりにも完璧な姿で、佇んでいる。


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