第1章/3
「藤城!」
藤城のマンションに着き、伊緒を部屋にやった上で、藤城を問い詰める。
「あれはどういうこと? 医者には相談してるの?」
「して、いません。するなと、彼女が」
「現実にあるわけないでしょう。伊緒ちゃんが思い込んでるだけよ。なによりまず医者に相談しなきゃ」
伊緒は香織の車に同乗し、そこで事情を聞いた。藤城はこのことを知っているという。ふわふわと笑う彼女は百合香そのものだったけれど、現実的にそんなわけがないのだ。
「だめです!」
「あれは、伊緒ちゃんよ! あんた、今生きているひとを消すつもり!?」
「だめ、です。そうでなくては、ぼくは、伊緒に、消されてしまう」
どういうこと、と言いかけて、そういえば藤城は雅彦と伊緒が落ちる現場を見ていたのだった、と思いだした。恨まれていると思っているのか。
「雅彦が落ちようとして、伊緒ちゃんが助けようとして一緒に落ちてしまった。事故だって警察も言ったじゃない。雅彦を助けられなかった、それを伊緒ちゃんに押し付けてしまったと思ってのかもしれないけど、雅彦が落ちる勢いはあんたが助けようとしても止められないと思ったんでしょう? 仕方のないことよ」
理路整然と、自分で整理した話を藤城に伝える。こう思って、香織は藤城一家に対する複雑な思いを封じたのだ。誰も悪くないのだと、そう解釈して笑うことにした。
それでも納得しない藤城に、彼女はは伊緒であるという証明を繰り返す。
「じゃあ、彼女が記憶の混乱があるとはいえ、伊緒ちゃんの記憶を持っているのは? おかしいでしょう」
そうでなければ医者は記憶の混乱ではなく、記憶喪失だと診断するはずだ。彼女自身の記憶があったからこそ、彼女は藤城伊緒であるという自覚があって、百合香が取りついているという発想になるのだ。
「体は伊緒だから、その記憶が伝わるのだと言っていました。どこかあやふやで、うまく伝えられず、混乱があると診断されてしまったとか」
ファンタジーもいいところだ。自分の小説と混同しているのではないだろうか。
藤城の小説は、ファンタジーからミステリーまで、ジャンルが幅広く多筆の作家として知られている。数年前まで兼業作家だったが、現在は専業となり〆切に追われる生活である。創作にどっぷりとつかって戻れなくなっているのではないかと疑ってしまう。
「お願いです! しばらく、そっとしておいてくれませんか」
香織の腕を掴んで、藤城が懇願する。穏やかなこの男が、鬼気迫る勢いで香織を見つめていた。
伊緒の記憶障害は一番の問題だ。香織は医者ではないし、放置したことで障害が悪化する可能性だって否定できない。けれど、藤城が百合香に会えて気持ちの整理をしたい気持ちも分かった。百合香が死んで以降、彼の作品は鬱々とした男が増えた。ミステリーではなくホラーではないか、ファンタジーでは世界が滅びたり、世間ではそれも面白いと言われていたけれど、友人である香織は不安だった。
「伊緒ちゃんの、夏休みが終わるまでよ」
馬鹿なことをしている。自分は馬鹿だ。守らなければならないのはなんだ。子供のはずなのに、香織は今、友人である藤城を選んでしまったのだ。
藤城の輝いた顔に、なにも言えなくなってしまった。
** 藤城一保
幻影が、ぼくを追い詰めるように見つめてきた。
「あの日も、地震があったわね」
娘の姿をして、彼女がそこにいる。死んだはずの彼女が蘇っていた。
救いであり、絶望だった。
「あの藤畑で、あなたはわたしにコートをかけてくれたの」
亡霊はくるくると部屋を動き回る。彼女はコーヒーを淹れてくれた。ぼくが淹れると、なぜか薄くなったり濃くなったりするコーヒーは、彼女が淹れると完璧な味になる。
「もう、かずさん。一杯っていうのはね、山盛りとか、少なめじゃだめなのよ。すりきり一杯のことを言うの。それを守れば、多少失敗してもおいしいのに、いつもどっちかなんだもの」
いつも怒られていたことだ。だから、コーヒーは百合香の係り、と二人で決めた。
「あの藤のもとで、わたしはあなたに恋をしたの」
百合香とぼくしか知らないことを、亡霊はふわふわと語る。しあわせそうに、百合香にしか見えない顔で、語るのだ。
**
携帯電話の呼び出しコール。留守番サービスにいってしまう直前で、相手は出た。
「茅島?」
『あ? ああ、
かけた番号は携帯電話で、電話帳で香織の名前が出ていただろうに、初めて知ったかのように彼はぼんやりと受け答えする。
「伊緒ちゃんが退院した。その報告」
『………本当か』
雅彦の葬式でも茅島はぼんやりとして、挙動がおかしかった。香典袋を忘れて慌てて買いに行ったり、焼香の席を立たなかったり、精神的に参っている様子がうかがえた。百合香のときよりはこんなことはなかった。百合香より雅彦の存在の方が茅島にとって上ということはないだろう。なぜか、と話題を振ったとき、藤城が「伊緒を心配しているのかもしれない」と言っていた。ピアノ教室帰りの伊緒と偶然会った茅島は、彼女を藤城の家まで送ってくれたそうだ。それから伊緒は茅島にお礼をしに挨拶に行ったから、親しみを感じているのかも、と。情に厚いイメージはないが、死ぬことよりも、どうなるのか分からないほうが心配になるのかもしれない。まして、相手は変人の茅島で、それが顕著でもおかしくはない気がした。
「うん。でも、様子がおかしくて、自分は百合香だって言ってるのよ。藤城は医者に相談しないって言ってるし、もうどうすればいいのか」
『………』
おかしなことを言っている、と自覚していた。だから、どんな素っ頓狂な声が電話口から聞こえてくるかと覚悟していたのに、電話の相手は沈黙する。真剣に、香織の言葉を飲み下していた。
『なあ、四人で、海に行かないか』
「は?」
突然の提案に、逆に香織の方が素っ頓狂な声をあげてしまう。いきなりこの男ななにを言い出すのだろうか。
『百合香に、会ってみたい』
「だから、伊緒ちゃんだって」
藤城にしろ、茅島にしろ、ロマンを受信するのは勝手だが、大事なのは生きている人間だ。百合香は死んだのだ。どうしてそこを直視せずにファンタジーを信じてしまうのだろう。
『それでもいい。藤城がこだわってんのは、百合香との思い出をなぞりたいからだろ。消化すれば医者にでもなんでも見せるかもしんねえだろ』
そういうことだとは思う。突然失った妻を懐かしむ、そうして心の整理をつけたい、そういう気持ちなのかもしれない。結局、香織は他人で、医者に診せろといくら言ったところで、最終的には親である藤城が決断しなければならない。無理やり引っ張っていくというのは、褒められた選択肢ではなく、藤城の方を変えればいいという茅島の提案はもっともではあった。
けれど、ならば茅島の方は、いったいなにが目的なのだ。親切心でこんな提案をするようなひとだったかと疑問がつのる。
『俺が車出すから、誘ってくれ』
「………分かった」
茅島は予定はこちらに合わせると言って電話を切った。もやもやとした疑問が、胸にはたまっていった。
**
香織の弁護士事務所は土日が休業である。大学院を出た後すぐは、地元では大きい法律事務所に勤務していたが、数年前に恩師に誘われてそちらに移ることにした。
藤城の家を訪れる。海の話をしたところ、藤城も伊緒も快諾してくれた。茅島の運転で、香織もついていくと言ったところ、予定は次の土曜日ということになった。
藤城が編集者との打ち合わせのために今から家を空けると言い、昼食は伊緒と外で食べてほしいと金を置いていった。藤城を見送り、伊緒が出る準備をしている間、廊下で待つ。
トイレと、藤城の書斎、伊緒の部屋、リビングに通じる扉と、もうひとつ、扉があった。
百合香の部屋か、となんとなくのぞいてみたくなって、その部屋のノブに手をかけた。
「だめよ、かおちゃん。そこは、あけちゃだめ」
振り返ると伊緒が笑っていた。
「ご、ごめんなさい」
ひとの家で勝手に扉を開けようとしていたなどと、なんて不躾なことだろう。百合香にしろ伊緒にしろ、あまり良い気はしないはずだ。けれど、伊緒はふわりと笑った。
「ううん。でも、わたしの部屋、伊緒ちゃんが入院してた間掃除してなかったはずだから、入っちゃだめ。かおちゃん、花粉症だから」
香織は春先にティッシュボックスとマスクが必須だ。これお伊緒には話したことはないし、そんな時期に会ったことは、なかった気がする。あまり人の家に行きたくない時期で、仕事以外ではあまり出歩かないようにしているのだ。まして、埃もダメだということを、いつ伊緒に伝えたのか。
違う。藤城から聞いたのだ。馬鹿か自分は。自然な笑顔に百合香を感じても、伊緒であることに変わりはないのに
近所のファミレスに入ると、時分時ということで少々待たせられた。二人で向かい合って座り、ハンバーグを頼む。食べている間、喋っていたが、頭がおかしくなりそうだった。彼女は伊緒には知りえないことを、当たり前のことのように話す。大学時代のこと、香織のパーソナリティー。生前に百合香から聞いていたのだと、そう結論付けたうえで、結局「百合香」として接することにした。伊緒であると押し付けてこの場で喧嘩するのは得策ではない。
「伊緒ちゃんは、養子でしょう?」
伊緒は百合香がおなかを痛めて産んだ子ではない、血のつながりはなく、百合香の両親の紹介で親がいなくなってしまった親戚筋の子供を引き取ったらしい。
「昔、そんな話をしたよね」
そうだっけ、と応じる。大学時代、あの五人でどうでもいいことをずっと議論していた。指示代名詞ではいまいち分からない。
「男のひとは、『あなたの子よ』って言われたら、信じるしかない、とか」
「男の勝手な理論よね。だから女の方が得だって、馬鹿じゃないの」
ポイントを言われれば一発で思い出した。こういう話題は香織がよく噴火しながら意見を述べていたものだ。今でもそういうきらいはあるが、若かったな、と思う。そんなに怒らなくてもいいだろうに、男はずるいと当り散らしていた。
「そうそう。そんなふうに、かおちゃんが言って。かずさんが、『女のひとは、その分子供から逃れようがないですから』なんて」
「それもまたふざけんなよね。男も女も子供から逃れちゃだめだっつの」
「そのときは、『じゃあ、養子ならどうなんだ』ってまあくんが聞いたのよ。しんちゃんが『自分で選んだのに、実子より逃れられるみたいな言い方はおかしくねえ?』なんて。しんちゃんが常識的なこと言ったから、みんなびっくりしちゃって」
茅島もたまにはふつうのことを言う。いつも斜め上の意見ばかり言っているくせに、と思ってしまうのは茅島の人柄か。
そして、雅彦の切り口も懐かしい。正しい意見を踏まえると、人間としてそれはどうなのと思ってしまうのが彼らしい。
「雅彦、そういうナチュラルにサイテーな男よね。ホント」
「それで、もし、嫌になるなら母親と父親のどっちか、なんて。本当に若かったよね」
「あー……あたまかるいね。全部に答えがあるとか思っちゃってる系だよね……」
「誰だったかな。『より、実子にこだわりがある方が拒絶する』って言ったのよね」
人間の感情なんて一言で説明が付いたら誰も苦労はしない。統計を取るわけでなし、子供を育てて見たこともない五人が寄り集まって議論したところで結論なんて出るわけがないのに、本当に馬鹿な話をしていたものだ。
「そこから、かおちゃんが家族法について解説しだしたのよ」
「仕方ないでしょ。その頃習いたてて、知識使いたかったのよ! ひけらかしてみたかったの!」
「かおちゃんが優秀なことなんてみんな分かってるわよ?」
優秀だから、諦めきれなかったものも多い。その言葉に苦笑で答える。彼女は香織がうらやましい、と呟いた。
** 藤城一保
彼女の部屋で、彼女は佇む。埃一つない、整頓された部屋だった。彼女が目覚めてからすぐに、片づけた部屋。けれど、彼女は伊緒の部屋を使う。この部屋を避ける。
「わたしの部屋を、用意してくれたのは、かずさんだったね」
良い部屋だろう、とぼくは笑った。引っ越しのとき、彼女は入院していたから、喜ばせようと思って頑張ったのだ。本当だ。嘘じゃない。
「伊緒ちゃんの記憶を見てね、分かったの」
背筋を悪寒が伝った。一年前までの記憶は薄いのではなかったのか。彼女には、認識できていないはずじゃないのか。
「かずさん、あなたは」
そのあとの言葉が気になったけれど、彼女はそのまま、なにも言わなかった。
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