第1章/2
病室の引き戸を開けると、中には先客がいた。藤城がパソコンから顔を上げる。紙のように真っ白な顔色をしていて、個室のベッドで横になっている少女よりも病人に見えた。五人のうち二人が同年に死んでしまったという事実は香織をやるせない気分にさせたが、更にもう一人死ぬのではないかと思えてきた。
「お邪魔します」
「いつもありがとうございます」
交わす言葉は定型文だ。お互い大学の友人同士で、社会人になってからも会うほど仲が良かったはずなのに、そのまま沈黙が下りて、香織はソファーに腰掛ける。総合病院の個室。免振構造である建物の背は高く、病室は十階にあった。皮肉なものだと思う。目の前で眠る少女は、転落して入院しているのに、また高いところに運びこまれている。青空が近い。市内が軽く一望できた。
元夫、出水雅彦がマンションの十三階から落ちて死んだ。三か月前のことだった。事故だという。
それだけでも結構な衝撃だったが、その事故には更に変わった要素がくっついていた。彼は友人の娘と一緒に落ちた。彼自身は脳天から落ちて即死だったが、庇うように抱え込んでいたその子は一命を取りとめた。
それから三カ月、彼女は目覚めない。
彼が最期に見たのはどういう景色だったかと、青空を見ると思うのだ。実際、彼が落ちたのは夜だったけれど、星を見て思い出すにはまだ生々しすぎた。住宅街から俯瞰した景色は、こことはずいぶん違っていただろう。街中にあるここはビルやネオンが多いけれど、あのマンションの近くにそんなに光る建物はなかったはずだ。まっくらな闇の中、落ちていったのかと思って、考えるのをやめた。鬱になりそうだ。
香織は雅彦が転落死してから、藤城の娘の元に定期的に見舞いにきていた。
百合香が死んだあたりから、藤城はふさぎ込むようになった。皆から羨望の眼差しを向けられるような女房を手に入れ、死によって失ったというのは堪えたのだろう。しばらくそっとしておこうと様子を見ていた矢先のこと、深い友人であった雅彦は彼の部屋から落ち、娘も意識不明のままである。これは、参るだろう。
「なにを書いているの? 仕事休んでたんじゃないの?」
「入院費くらいは稼がなきゃと思いまして。事故が起きたあたりに止めていたスケジュールを動かしてたんです」
「……そう」
藤城の職業は小説家である。結構な人気作家で、それなりの蓄えはあるはずだった。少なくとも、今すぐに金に困ることはない。数か月の休養が復帰を難しくするほど、不安定な人気ではないし、この顔色で復帰するのかとそちらが心配になった。
雅彦とは、大学時代、同じサークルに入っていた縁で知り合った。腐っても国立大学で、学部学科は多く、ついでにキャンパスも広かった。その中で、なぜか地元ではあるが同郷の五人でそのサークルは成り立っていた。
香織は法学部で、雅彦は理学部、他の三人は音楽科に絵画科、文学部と、冗談みたいな取り合わせだったが、不思議と話は合った。青臭い論議を延々と繰り広げ、集まってやたらとスケールの大きな話をするのが通例で、それ以外の活動は無きに等しかったが、実は音楽鑑賞サークルだった。前の代では、コンサートなどに行っていたそうだが、サークル棟の部室でCDをかけるのがせいぜいだった。音楽科の人間が持ってくるものだから、やたらとクラシックが多く、ラフマニノフの交響曲など掛けられた日には重苦しい音楽の中で論議が紛糾するものだから掴み合いの喧嘩になった。これが音楽の力か、と思ったことは内緒である。純粋に音楽を愛する彼女に怒られてしまう。
音楽科に所属していたのは、サークルの中では所謂マドンナ的な存在の女性だった。香織も彼女を友人というよりも、憧れの女性と考えていた部分がある。彼女を射止めたのは、やはりそのサークルの一員の藤城。この藤城とマドンナの娘が渦中の少女であり、雅彦は藤城のマンションの一室から落ちたのだ。
大学を卒業して十五年が経ったが、未だにあの頃のサークルの交流は続いている。香織たちの代が勧誘に熱心でなかったため、あの後廃部になったらしいが、最後の世代である香織たちの結びつきは強かった。全員で集まることは稀で、お互いに年単位で連絡をしないこともあったが、集まろうと思えばやる気ひとつで集まれる。サークル内で結婚して離婚した香織と雅彦も嫌い合って別れたわけでもないため、全員で集まることは、スケジュールさえ合えば、是非ともやりたいことだったのだ。
しかし一年前、全員で集まることは困難どころか不可能になった。
マドンナ――藤城、旧姓名塚百合香が死んだ。
その数年前から、百合香の体調が思わしくないことは分かっていた。入退院を繰り返し、家にいるときでさえ、具合が良い日は稀で、いつも顔色が悪かった。心配をさせまいと、香織と会うときは化粧と紅を忘れない百合香の素顔を初めて見たとき、その白さに濃密な死の気配を感じてしまった。いつも笑っていた百合香のくすんだ顔色は、夢のようなマドンナとはかけ離れていた。もうこのひとはいなくなるのだと、病室から帰った自宅で膝に顔を埋めて泣いた。
中央のベッドに横たわる少女は、身体的には何の問題もないのだという。内臓の損傷は手術の末に元の機能を取り戻し、骨折も既に治っている。事実、記憶にある病人の百合香の顔色よりもずっとふっくらとしたきれいな顔をしていた。
「脳の機能には問題ないそうです。いつ目覚めてもいいはずですが、検査では分からない部分に問題がある可能性も、否定できないそうで」
「そう」
慰める言葉すら、藤代には重い気がした。きれいに整えた彼女の前髪を斜めにずらして閉じた目を見つめる。
今にも開きそうな、呼吸に震えるまつ毛。
重そうに、開いた。
喉に詰まる。パソコンを閉じようと、伊緒から目を離している藤城に、伝えなければ。伊緒のぼんやりとした視線がうろうろとさまよう。藤城、藤城、と出した声は震えていて、反応した藤城が振り向いて、のん気に「なんですか?」なんて言うのを、背を引っぱたいてベッドを覗き込ませた。藤城の目が見開かれる。歯の根がかちかちと鳴るのを聞いた。
「…………………」
うろうろとさまよう視線が、藤城の目を捉えた。
「…………」
香織に移って、また藤城へと戻る。
「かず、さん」
かすれた声だった。喉の筋肉が衰えているのだろう、ほそく、ほそく、ちいさな声は、聞き逃してしまいそうだった。水を求めて張り付く喉を無理やり開いているような、息の漏れる音がする。
「かおちゃん」
違和感が、あった。伊緒は、香織のことをそんなふうに呼ばない。
まして、父親を名前で呼ぶこともなかったはずだ。
伊緒ではなく、彼女の母親が使っていた呼び名だ。かおちゃん、かずさん、他のメンバーは、まーくん、しんちゃん、と。
甘い声がよみがえる。掠れた声に、伊緒の声に、なぜ、彼女の声が重なる。
長い眠りから目覚めて混乱しているだけ。心の中では、母親と同じあだ名で自分たちを呼んでいただけ。
時間にしてみれば数秒程度、白昼夢のようなものだ。幻影が過ぎ去って、冷静になって藤城に視線を向けると、混乱がありありと表情に浮かんでいた。娘が急に目を開けたからか、それとも。
急いで病室を出る。ナースステーションで、伊緒の目覚めを知らせると、これからの慌しさを予想させるような、呼び出しの音が鳴り響いた。
*
目覚めた伊緒はリハビリの末、夏の始めに退院することになった。
夏休み前の丸ごと、学校を休んでしまったことに関しては諸々の処置がとられることになったらしい。それも、明けからほぼ休まず学校に出ることが前提だった。伊緒は高校三年生で受験があり、夏休みの間も受験対策の授業がなくはなかったが、出席にあてられるとしても、退院直後であることを鑑みると難しい。伊緒の受験は険しいものになりそうだ。
ひとさまの娘の心配とは、自分も偉くなったものである。弁護士の仕事の合間、退院に立ち会ってしまうほどには、思うところがあった。元夫の忘れ形見のようにも、敵のようにも思える。警察の見解では、落ちようとした雅彦を伊緒が救おうと手をつかみ、どちらも落ちてしまった事故であるということだった。
伊緒は、その見解に、異を唱えなかった。というのも、事故直後の記憶がないのだという。珍しい話ではない。事故の衝撃で記憶が抜けてしまうというのは、ままある話である。それ以外にも、ここ一年間の記憶があいまいであると、藤城に聞いた。目覚めた後も一度見舞いに来たが、彼女はリハビリ中で、花だけ置いて帰った。だから、事故後、初めて話をすることになる。言葉を考えるが、事故のことを覚えてないのに事故の話を振るのはあまりに酷だし、そうでなくても嫌味だ。あたりさわりなく挨拶するくらいだろう。
「おはよう」
「香織さん。お手伝いありがとうございます」
退院の手伝いをする、と連絡を入れていた藤城が、スライドドアを開けた途端に言う。奥の方で、普段着の伊緒がお辞儀をしていた。
「おはよう、伊緒ちゃん」
伊緒はにこり、と微笑む。言葉はない。
どこかで見たような微笑みだった。いや、と首を振る。
記憶がないとしても、事情くらいは聞いているかもしれない。それならば、香織に積極的には話しかけづらいだろう。やはり、余計なお世話だっただろうか。藤城にしても、電話で手伝いを申し出たとき少し困った声をしていたかもしれない。香織はそのあたりの機微に疎い自覚がある。ただ、数か月の入院に必要だったものは藤城親子では手に余るように見えたのだ。実際カート二つになっていて、藤城の車一台では運び切れるように見えない。小説の〆切同様、前々から準備しておけばいいものを、直前になって慌てるのが藤城で、話を出してみれば案の定だったのだ。宅配便で出せば、なんて言う藤城を止めて今に至る。
エレベーターでエントランスに降りる。待合室は総合病院の常でものすごい混みようだった。将来、ここに通うことになったらと思って考えないことにした。独身女の老後は気が重い。
藤城が車を取りに行く、と言い、伊緒と二人きりになる。カート二つと、女二人。この組み合わせにしてしまうあたり、藤城は何も考えてないな、と確信した。通りすがりの老婆が、「おかあさんと一緒なの、偉いねえ」なんて言うのを苦笑で誤魔化す。伊緒の顔を覗き込むと、こちらは苦みの一つない笑顔だった。
見習わなくては、と思う前に、藤城の車が見えた。荷物の積み下ろしのための駐車場所にカートを動かそうと、伊緒に背を向けたときだった。
「かおちゃん」
ふわり、と耳を撫でる声。笑顔の気配。見習わなくてはいけない笑顔は、伊緒ではなく、彼女に近いものだと、分かっていたけど。そんなわけがないと、頭の中で何度も否定したのに。
振り返る。照り付ける日差しの影、一歩出れば反射でアスファルトまで照り付けてくるような日和。今日は、暑い一日になると、朝のニュースで天気予報士が言っていた。そんな日の日蔭の中、薄い陰影の中で彼女は言ったのだ。
「わたしは百合香よ。藤城百合香」
病院のエントランスを背に、彼女がふわりと微笑んだ。
蝉の声に気付く。うるさいほど鳴いていたのに、今の今まで流してしまっていた。夏に自然に溶け込んで、声は耳を素通りする。
その微笑みが、あまりに自然だったものだから。
夏は盛り。アスファルトは熱に燃えている。もやつく視界は陽炎のせい。日差しが強い。めまいがする。
地方都市であるこの地は、夏は他より過ごしやすいとされている。ただし、残暑は長く、つらい。
蝉の声が、聞こえている。
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