第34話 奔流(2枚目17日目・7月9日)【終話】

マスクを浸すべく注ぐ水の流れに目を遣りながら、自分の中に降り積もった心情の爆発を抑えられない私がいた。

マスクの色もどこか暗いというのは、いくら何でも感傷に浸りすぎか。

しかし、こうしている間にもとめどなく流れる水は洗面器を満たそうとする。

素直に手を差し入れるが、今日は一段と水が冷たく感じられた。


人の感情というものは不思議なもので、これを的確に表す言葉を掴むのは非常に難しい。

だからこそ、嬉しいや悲しいなどの感情を端的に表現する言葉が存在するのであり、平穏な日常においてはそれを用いることで心の乱れを防いでいる。

そして、端的な言葉があれば落第点ではない程度の一致率でそうした言葉を用い、人との交わりの中で生じる種々の思いを型に当てはめてしまう。

決してこれは悪いことではなく、先に述べたような効用から心の平穏を保つには正しい在り方である。

特に、自分の感情を平準化させることで客観視することが可能であり、また、意思表示をするうえでもその感情の概形を掴みうるため有益である。


ただ、こうした感情が牙を剥くのが非常時であり、人は強い無力感を感じることとなる。

常時に戻ればそれらの感情も整理され、組み立て直され、装いを新たに何らかの言葉で表されることとなる。

しかし、非常時の渦の中に在っては決して逃れることなどできず、有象無象の感情と対することとなる。

その最たるが災害と人の死であり、比類のないものであればあるほど「リヴァイアサン」という感情の本質が現れてくる。


まずは熊本地震の際の私が抱えていたものは恐怖という言葉がいかに陳腐なものであるかを痛感させられた。

目の前で踊り狂う黒いものが冷蔵庫だと気づいて炬燵の中で震えあがったという話はよくするが、四方八方から揺れの後に響く緊急地震速報や地に走る罅もまた心をえぐるに充分であった。

生と死の彼岸を行き来するというのは自我を保つのも難しく、安堵と共に目頭が熱くなったというのがその思いを表す最大の事実であった。


大学時代に友人を水難で亡くした際の悲嘆もまたその二文字がいかに安価なものであるかを知らされた。

学部に在ってその気さくさは代え難く、同窓生一同で葬儀に出たのは今でも鮮烈に刻まれている。

そして、そうした思いを明確に表した一言が私の友人から出たのは、それを知った後輩の無配慮な一言に対してであった。

「殺すぞ」

日頃から軽口に定評のあった友人をしての飾り気無きドスのきいた一言が何よりの象徴であった。


このような状況に在って、紡ぎ出される一言にこそその人の人生の在り方が凝集されるのであるが、東日本大震災の際にインタビューを受ける男性の一言が印象的であった。

「また、再建しましょ」

瓦礫の野と化した中で救出され、笑顔を見せる姿とその一言は豊かな人生経験に裏打ちされなければ出てくるものではない。

日常に在っては辛さや悲しさという言葉が頭を過るが、非常時に在って暴れ出すはずの感情を見事に御す姿には感服以外の感情は出てこなかった。

願わくは、私もそうありたいものであるが、やはり暴れる感情の成すがままになる自分しか存在しない。


そして、今日の悲報に対してできることが祈ること以外にないのもまた事実であった。


マスクを干して夕食を摂る。

まとまらない感情との格闘は始まったばかりであり、その先は明るいとは言い難い。

それでも、揺れるマスクを眺めながら、今は精一杯祈るばかりである。


(アベノマスクといっしょ 終)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アベノマスクといっしょ 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ