幽かな日々の残滓を

清野勝寛

本文

幽かな日々の残滓を





 明け方の公園は独特の寂しさを孕んで朝を待っていた。花浅葱に染まるコンクリートの凹凸をぼんやりと流し見ながら、コートのポケットに手を突っ込んで、あたしは夜勤明けの体を引きずって公園を横切ろうとして、足を止めた。


――こどもだ。こどもがブランコに座っている。


 公園にこどもという組み合わせだけを取り出して言えば、その光景はごくありふれたものであるはずだ。しかし、今時分であれば話は大きく変わる。ましてやそのこどもが纏う雰囲気は、まるで世界から分離してしまったかのようにさえ感じる。玉虫色に覆われた体と、こども特有の光を宿した眼差し。それらがこの光景を「異様なもの」へと昇華させていた。疲れてろくな思考が出来ないあたしにも、それくらいは理解出来る。理解出来てしまう。

見なかったことにする、というのはなんとなく嫌だなと思い、あたしはそのこどもの下へ向かった。


 女の子だった。なぜ近寄るまで気が付かなかったのか、こどもは小学生くらいの女の子だった。白いワンピースは暗がりの中では光そのものであるはずなのに。胸元まである髪は黒髪なのだろうが、一本一本が光を放っているかのように眩しい。玉虫色を帯びていたのは恐らくこの髪のせいだろう。簡単に折れてしまいそうなほど細い四肢も気になったが、なにより違和感を覚えたのは、こども特有の輝いた瞳の中でどす黒い、つや消しを施した鉛のような瞳孔だ。首が動き、その瞳があたしを捉える。思わず体が後ろへ僅かに跳ねた。


「ねぇ、あなたの夢を教えて?」


 想像していたよりも消えてしまいそうな弱々しい声で女の子はあたしに問う。彼女はあたしを真っすぐに見つめていた。

 その言葉は、嫌いだった。夢。あたしにないもの。あたしを不幸にする言葉。目を閉じて、込み上げる感情を抑えて、答えた。


「うーん、夢はないなぁ。それより、こんな時間に出歩いたら危ないよ? まだ暗いし、早くお家に……」


「あなた、夢がないの? 可哀想」


 あたしの言葉を遮って、女の子はそう言った。可哀想? 誰が、あたしが? その言葉も嫌いだ。あたしの心を掻きまわす言葉。無いことは悲しいことなのか。あたしにはわからない。有ったことがないから。無意識に体に力が入る。その反面、血の気が失せていく。体がふわふわと浮きだして、倒れそうになる。まるで泡沫だ。私は今、沈むわけでもなく、浮かぶわけでもなく、漂っていた。


「――ねぇ、私を見て」


 彼女の声で我に帰る。いつの間にか彼女は立ち上がり、あたしの左腕に抱きついて、あたしを見上げていた。その瞳があたしを悲哀に満ちた瞳で見つめる。恐ろしい。恐ろしいと思った。こんな、その気になれば全ての自由を奪い、命さえも簡単に奪えそうな、弱弱しい少女のことを、これまで感じたことがないほどに私は恐れた。僅かな抵抗。私は半歩だけ後ろに体を引き、彼女を見た。

 やめて。そう一声言って女の子の腕を振り払ってしまえばよかったのに、出来なかった。出来なかったのだ。


「あなたは、忘れてしまっただけ。だから、なかったことになんてしないで……しないでよ」


 目が離せなくなってしまった。顔色一つ変わらないまま、彼女はあたしに言う。まるで見てきたかのように。全てを分かっているかのように。あたしはそれが気に入らなくて、ふてくされて、やっぱりそのうちに忘れてしまうのだろう。


「……わから、ない」


「どうして? あなた自身のことなのに?」


 絞り出した声は、あたしのものではないように感じて、気持ち悪かった。それでも彼女は繰り返しあたしに問うのだ。どうして、どうして、どうしてと。


「……やめて」


 そのうちに両手で耳を塞いで、しゃがみこむ。そんなもので逃げだすことが出来るのなら、あたしはきっとこんな生活をしていない。でも、だって。その数が増えれば増えるほど、あたしは立ち上がれなくなっていく。踏み出せなくなっていく。



「もうやめて!!」



 その一言を叫ぶと目が覚めた。部屋中にけたたましく鳴り響く電子音をどこか遠くの方で聞きながら、先程の夢を想った。女の子は、家に帰れただろうか。

ああそれにしても、今日も夜勤だというのに、こんな、陽が昇る時間に目覚ましをセットしたのは何故だろう。記憶にない。きっと設定を間違えたのだろう。


そう言えば、


「なにか……おかしな夢を見ていたような……なんだったろう……?」


 起きるにはまだ早い。早すぎた。

 あたしは目覚ましの時間をセットし直して、目を閉じる。


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