第1話

 今夜はとても静かだ。


 美冬はカーテンを開ける。背景の夜闇にくっきりと浮かび上がるように、窓は白く曇っていた。結露は外気のせいで霜になっている。窓に顔を近づけて、はぁと息を吹きかけてパジャマの袖で窓を擦る。

 そのまま外の様子を伺うと、昼間よりも大きくなった雪の粒が、暗闇の中ぽとぽとと落ちて積もり重なっていくのがぼんやりと見えた。


「ぼた雪さなってら」


 明日の朝の雪かきはしんどいだろうな。そう思い、美冬がしばらく窓の外を見つめていると、下からぬっと人らしきものの顔が出てきた。


 あまりの恐怖に声も出せず、後ろに敷いていた布団に足を引っ掛けて転んだ。


「な……なに?」

 美冬の目に涙がたまる。美冬が住むのは築70年の木造平屋だ。家の裏にはすぐ森があって、朝でも昼でもどこか暗いこの家についに霊か妖の類が出たかと身をすくめる。


 とんとん、と控えめなノックの後、声が聞こえた。



 おれだぁーおれ、あきひと、あけてー



 その声に、緊張がほぐれたように一つため息をついて美冬は立ち上がる。

 もう一度窓に近づくと、秋人がこちらを覗きこんでいて目があった。人懐こい笑みで窓の鍵を指差しながら、「開けて」と口をぱくぱくしている。


 鍵を回し、美冬が窓に手をかけるが凍っていて開かない。窓の外側で秋人も手伝ってやっと開いた。部屋に入る冷たい雪よりも思いの外大きな音がしたことに慌てた。二人は美冬の家族が起きてこないかと家の中の音に耳をそばだてる。しばらく無音があって、やっと美冬が口を開いた。


「……もう。こっただ時間にした? 寒がべ」


「いやぁ悪い悪い。久しぶりにこっちがら来たぐなって。泣ぐな。こっだらどごがら美冬に会いに来るの俺ぐらいだべ」


「んだども、こんな夜中に来るごどねぇべ! しかもいぎなり下から出て驚かして。おばけが何か出だがど思った」


「こんな時間に家の周りがさがさ歩いでだら不審者だべ。音立てないようにしてわざわざきたんだぞ」


 ふん、と自慢げに鼻を鳴らす秋人を見て、美冬は怒るのをやめた。ふふ、と笑みが溢れる。


「こうして話すの、久しぶりだなぁ。昔みたい」


 そう言って、美冬はちょっと待ってと布団からタオルに包んだ電気あんかを引っ張ってきて、窓においた。秋人は擦り合わせていた両手の手袋を外して、タオルに手を突っ込んだ。美冬は電気あんかを両手で支えて、それで自分も暖をとった。


「んだ。ばあちゃん倒れでからずっと忙しがったはんで」

「うん」

「夏からはもう学校さいげねがった」

「うん」


 二人はずっと同じ学校で同じクラスのはずだった。実際、春まではそうだった。高校に上がって秋人が学校に来られなくなってからは、ほとんど顔も見ていない。美冬は一度両親と秋人のおばあちゃんのお見舞いに行ったが、その時も秋人はいなかった。


わぁ働いてだんだ。家族は、ばあちゃんとわしかいねがら、わが働かないと」

「うん」


 ばあちゃんは助からなかった。師走に入ってすぐのことだった。ばあちゃんのお葬式で久しぶりに見る秋人は、美冬の目には少し痩せているように見えた。


 美冬は頷くだけで、じっと電気あんかを見つめている。


「お葬式の時に来てた遠い親戚の人が今日来てな」

「うん」


「その人について、わぁも京都さ行ぐ」

「え!? 京都?」


 美冬が、ばっ、と顔を上げる。


「ん」


 今度は秋人が俯く。


「おじさんがな、なんだがって言う職人でな。京都市内に工房があるって言ってたっけ。そごさ若いのがいねぇんだと。それで行ぐって決めだ」


「でも、まださぎの話だべ? 学校は? 明日終業式だし」


「明日の朝にはこごを出るんだ。学校も辞める」


「そんな……」


「もうここに居られねんだ。わは行ぐしかねぇ。職人目指すなら半端にやっても上手ぐいがねべし」


 美冬は言葉を続けられない。秋人は目線を上げる。


「それに、やってみたいって思った。せっかくやるなら早く一人前になって、誰よりもいい仕事する職人になりたいって思った」


 この村から秋人が居なくなってしまう事が。秋人が誰にも、幼馴染の自分にも相談せずに一人で決めて、一人静かにこの村を去ろうとしている事が美冬の心を酷くざわつかせた。


「だがら、ここに来るの、これが最後だ」


 美冬には言っておきたくて。と言って秋人は黙った。秋人は別れの挨拶にきたのだった。電気あんかがぼとりと床に落ち、美冬は秋人の手を握る。美冬の目に溜まっていた涙は頬をつたってぽたぽたと落ちていく。


 美冬は物言いたげに口を開くが喉がつかえて言葉が出てこない。秋人はじっと美冬を見つめている。


「泣ぐな」

「嫌だ」


 美冬はいっそう強く手を握る。


「い……行ぐ……な」


 涙が止まらない。たまらず美冬は顔を伏せた。ここから離れていって欲しくない。引き止めたい。

『秋人が学校に来られない間の授業をまとめたノートを作ったし、多分テストも受けていないだろうから追試対策のための要点だけ押さえた問題集も作ったから、だから今まで通り学校に行こう』とか、『高校の修学旅行は海外らしいよ』とか、『これからは家で一緒にご飯食べればいいし、お風呂だって入ればいいし、なんなら住んでもいいし、だから京都には行かなくていいじゃん』とか。

 美冬の頭にはそんな事ばかりが浮かんでは言葉にできず消えていく。


 秋人は彼にとって最善の道を選んだのだ。自身がこれから一人でも生きていける術を身につけるために。

 浮かぶ言葉はどれも陳腐で現実味がない。引き止めたいのに自分にはその術がない。美冬は、何もできずに子供のように駄々をこねる事しか言えない今の自分に腹が立った。


 秋人は美冬に手を離させて、自分の手で美冬の手を包み込んだ。


 なぁ。


 秋人がかける声音は優しい。


「昔、お前ん家の田んぼの手伝いしに来た時、美冬んちのハウスさ転がってたコンテナ勝手に持ってきでここさ置いてさ、よく遊んだっけな」

「かくれんぼしたり、ここから美冬んちさ入っでお菓子食って田んぼの仕事が休憩になったら顔出してまたお菓子食ったり。森の中探検して顔中蚊に刺されたり。あぁ今の時期はそりに乗って美冬に突っ込んだな。毎年何かしらやって、いつだかついに拳骨くらったっけな。ほんずねぇしょうもないごどばっかりしてって、よく言われたっけな。しっかし美冬の父ちゃん、拳骨いてがったなー」

「この辺に美冬以外に年の近い子は居なくて、いっつも二人で遊んだっけなぁ。いっつも……」


 秋人の言葉がじわじわと美冬に入ってくる。

 そう。ずっと一緒だった。何をするにもどこにいくにも二人だった。下手したら家族よりも濃い時間を秋人と過ごした。もうあの頃のような子供同士では無くなったが、お互いかけがえのない存在だったことには変わりない。離れることになっても。だからこうして秋人は別れの挨拶をしにきてくれているのだ。


「ほんずねぇのは秋人だ」


 美冬が言うと、二人は顔を見合わせてぷっと吹き出した。


「よかった。笑った」


 秋人は心底ほっとした顔をした。


「うわ〜顔ぐちゃぐちゃ。凍るぞ」


 秋人はそう言って上着の下からスウェットの袖を引っ張り出して、美冬の涙と鼻水を拭ってやる。

 少々手荒な扱いに美冬は目を瞑る。顔中をごしごしとやられた後、両頬が温かくなった。目を開けると、秋人の両手で頬を包まれていた。

 秋人の顔からは笑みが消えていて、その決意のこもった眼差しに美冬はどきりとした。


「絶対に一人前の職人になるから」


 体冷えさして悪かった。と、秋人は美冬から離れて背を向ける。


 去っていく秋人に、美冬は言った。


「へばな!」


 秋人は振り向いて、あの人懐こい笑みで嬉しそうに手を振った。




 ◯




 窓を閉めて、床に転がった電気あんかを拾って布団に潜り込む。

 布団の中で、美冬もある自覚と決意を持った。

 自分にとって秋人は幼馴染以上の存在になっていた。自分があんな風に泣けるのも、文句を言えるのも。気を抜いてへらりと笑い合えるのも。それだけ心を許していたのは、思い返せば秋人だけだ。


 今の自分には何もできない。家族を亡くした秋人をここに留めおく力なんてないし、養っていくこともできない。

 しかし、しかしだ。

 無いのならこれから持てばいい。自分に力をつければいい。秋人が職人の道を目指すように。

 そして自分も一人前になったら、秋人に想いを伝えたい。


 あなたは一人じゃない。私もいるよ。一人きりで頑張らなくてもいいんだよ。と。

 私はあなたと共に居たいのだと。


 今まで見たことのないくらいの秋人の真剣な顔を思い出して美冬は胸が熱くなる。ぎゅっと自分を抱きしめるように丸くなって、そのまま眠りに落ちた。


 またね、とか、じゃあね、とか。

 美冬が最後に秋人にかけた言葉はそういう意味のごくごく軽い別れの挨拶だ。

 これが最後だなんて私はさらさら思ってない。美冬はそれだけは秋人に言っておきたかった。



 明け方、家の外を駆けていくじゃりじゃりと高い金属音に美冬は目を覚ました。除雪車が走っている。その少し後、車のエンジン音がした。

 普段こんな早い時間に車の音はしない。青森駅へ向かう秋人を乗せた車だろう。美冬の目が潤むが、もう涙は流さない。


 自覚した熱を胸に、美冬は布団の中で遠くなるエンジン音を静かに聞いていた。

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雪を溶く熱 @muuko

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