雪を溶く熱
@muuko
第1話 修正しました②(6月28日)
カーテンを開けると、窓は白く曇っていた。部屋の中なのに、窓際の空気だけはどうやっても暖まらない。結露が霜に変わっているくらいだ。
はぁと息を吹きかけてパジャマの袖で窓を擦る。溶けた霜が袖口にじわりと染みて、指先から凍りついてしまいそうだ。
時が止まったような夜の世界に、いつのまにか昼間よりも大きくなった雪の粒が止めどなく降り落ちて、木々も地面も、全てを白色に塗り替えていく。
「ぼた雪さなってら」
これは明日雪かきが大変だな。
ふと思い浮かぶのはそんな情緒のかけらもないことだが、目は窓の外に釘付けだ。
雪が好きだ。
生活していくには厄介だ。この時期は毎日毎朝、庭の雪かきがある。これが中々の重労働で、父も母も私も早起きして汗をかく。雪かきをしないと外に出られない。車も動かせないし、動かさないと仕事にも学校にも行けない。
だがそれはそれとして、この光景を見られる自分はなんてラッキーなんだろうとも思う。
世界を塗り替える程降り積もる厳かな夜、ちらちらと可愛らしく舞う昼と、雪の表情はくるくる変わる。気象条件が揃えば、幻想的に煌めくとびきりの朝を迎えられることもある。この地に住んでいなくては堪能できない美しさには、毎年魅了されるばかりだ。
しばらくそのままでいると、下からぬっと人らしきものの顔が出てきた。
あまりの恐怖に声も出せず、後ろに敷いていた布団に足を引っ掛けて転んだ。
「な、なに?」
目に涙がたまる。築70年の木造平屋だし、家の裏はすぐ森だし、朝でも昼でもどこか暗いこの家についに霊か妖の類が出たかと身をすくめる。
とんとん、と控えめなノックの後、声が聞こえた。
おれだぁーおれ、あきひと、あけてー
その声にほっと息をついて立ち上がる。
もう一度窓に近づくと、秋人がこちらを覗きこんでいて目があった。人懐こい笑みで窓の鍵を指差しながら、「開けて」と口をぱくぱくしている。
鍵を回し、窓に手をかけるが凍っていて開かない。窓の外側で秋人も手伝ってやっと開いた。部屋に雪が入ってくることよりも、がたりと思いの外大きな音がしたことに慌てた。秋人と二人、両親が起きてこないかと家の中の音に耳をそばだてる。どうやら気づかれなかったようだ。
「もう。こっただ時間に
「いやぁ悪い悪い。久しぶりに
「んだども、こんな夜中に来るごどねぇべ! しかもいぎなり下から出て
「こんな時間に家の周りがさがさ歩いでだら不審者だべ。音立てないようにしてわざわざきたんだぞ」
ふん、と自慢げに鼻を鳴らす秋人を見て、怒るのをやめた。思わずふふ、と笑みが溢れる。
「こうして話すの、久しぶりだなぁ。昔みたい」
そう言ってから、ちょっと待ってと布団からタオルに包んだ電気あんかを引っ張ってきて、窓においた。少しでも暖かくしたほうが話しやすい。秋人は擦り合わせていた両手の手袋を外して、タオルに手を突っ込んだ。自分もこれで暖をとった。
「んだ。ばあちゃん倒れでからずっと忙しがったはんで」
「うん」
「夏からはもう学校さいげねがった」
「うん」
秋人とはずっと同じ学校で同じクラスのはずだった。実際、春まではそうだった。高校に上がって秋人が学校に来られなくなってからは、ほとんど顔も見ていない。一度両親と秋人のばあちゃんのお見舞いに行ったが、その時も秋人はいなかった。
「
「うん」
ばあちゃんは助からなかった。師走に入ってすぐのことだった。ばあちゃんのお葬式で久しぶりに見た秋人は少し痩せたような気がした。
「お葬式の時に来てた遠い親戚の人が今日来てな」
「うん」
「その人について、わぁも京都さ行ぐ」
「え!? 京都?」
ばっ、と顔を上げる。
「ん」
今度は秋人が俯く。
「おじさんがな、なんだがって言う職人でな。京都市内に工房があるって言ってたっけ。そごさ若いのがいねぇんだと。それで行ぐって決めだ」
「でも、まだ
「明日の朝にはこごを出るんだ。学校も辞める」
「そんな」
「もうここに居られねんだ。わは行ぐしかねぇ。職人目指すなら半端にやっても上手ぐいがねべし」
言葉を続けられなかった。秋人が顔を上げる。その目には迷いがなかった。
「それに、やってみたいって思った。せっかくやるなら早く一人前になって、誰よりもいい仕事する職人になりたいって思った」
胸がざわついた。この村から秋人が居なくなってしまう。秋人が誰にも、幼馴染の自分にも相談せずに一人で決めて、一人静かにこの村を去ろうとしている。
「だがら、ここに来るの、これが最後だ」
美冬には言っておきたくて。と言って秋人は黙った。秋人は別れの挨拶にきたのだ。
秋人の手をぎゅっと握った。目に溜まっていた涙は頬をつたってぽたぽたと落ちていく。
秋人はじっとこちらを見つめている。腹が立つ。ふつふつと湧き上がってくる感情を抑えることができない。
「そんな大事な話、
秋人の手を、いっそう強く握った。私はどんな表情をしているのだろう。秋人の眉が下がる。
「……ごめん」
「秋人はなんでも言うのが遅いんだ。急に学校さ来ねぐなった時だって、ばあちゃんの事だって、今の事だって––––––」
涙が止まらない。たまらず顔を伏せた。わかっている。こんなのただの八つ当たりだ。でも、ここから離れていって欲しくない。引き止めたい。
『秋人が学校に来られない間の授業をまとめたノートを作ったし、多分テストも受けていないだろうから追試対策のための要点だけ押さえた問題集も作ったから、だから今まで通り学校に行こう』とか、『高校の修学旅行は海外らしいよ』とか、『これからは家で一緒にご飯食べればいいし、お風呂だって入ればいいし、なんなら住んでもいいし、だから京都には行かなくていいじゃん』とか。
そんな事ばかりが浮かんでは言葉にできず消えていく。
秋人は彼にとって最善の道を選んだのだ。自身がこれから一人でも生きていける術を身につけるために。
浮かぶ言葉はどれも陳腐で現実味がない。引き止めたいのに自分にはその術がない。何もできずに子供のように駄々をこねる事しか言えない今の自分に腹が立った。
秋人は一度手を離して、私の手を包み込むように握ってくれた。
なぁ。
秋人がかける声音は優しい。
「昔、お前ん家の田んぼの手伝いしに来た時、美冬んちのハウスさ転がってたコンテナ勝手に持ってきでここさ置いてさ、よく遊んだっけな」
「かくれんぼしたり、ここから美冬んちさ入っでお菓子食って田んぼの仕事が休憩になったら顔出してまたお菓子食ったり。森の中探検して顔中蚊に刺されたり。あぁ今の時期はそりに乗って美冬に突っ込んだな。毎年何かしらやって、いつだかついに拳骨くらったっけな。
「この辺に美冬以外に年の近い子は居なくて、いっつも二人で遊んだっけなぁ。いっつも……」
秋人の言葉が、思い出の一つ一つが、ぽとりぽとりと心に落ちては染みてくる。
そう。ずっと一緒だった。何をするにもどこにいくにも二人だった。下手したら家族よりも濃い時間を秋人と過ごした。もうあの頃のような子供同士では無くなったが、お互いかけがえのない存在だったことには変わりない。離れることになっても。だからこうして秋人は別れの挨拶をしにきてくれているのだ。
「ほんずねぇのは秋人だ」
そう言うと、秋人はぷっと吹き出した。私も笑った。
「よかった。笑った」
秋人は心底ほっとした顔をした。
「うわ〜顔ぐちゃぐちゃ。凍るぞ」
秋人はそう言って上着の下からスウェットの袖を引っ張り出して、私の顔を拭き始めた。
少々手荒な扱いに目を瞑るしかない。顔中をごしごしとやられてじっとしていると、両頬がじんわり温かくなった。目を開けると、両手で頬を包まれていた。
秋人の顔からは笑みが消えていて、その決意のこもった眼差しにどきりとした。
「絶対に一人前の職人になるから」
体冷えさして悪かった。と、秋人は窓から離れて背を向けて去っていく。私は、ひょこひょこと左右に揺れて小さくなる彼の背中を、ただ見つめた。
窓を閉めて、床に転がった電気あんかを拾って布団に潜り込む。
布団の中で、ある自覚と決意を持った。
私にとって秋人は幼馴染以上の存在になっていた。あんな風に泣けるのも、文句を言えるのも。気を抜いてへらりと笑い合えるのも。それだけ心を許していたのは、思い返せば秋人だけだ。
今の自分には何もできない。家族を亡くした秋人をここに留めおく力なんてないし、養っていくこともできない。
だけど。
無いのならこれから持てばいい。自分に力をつければいい。秋人が職人の道を目指すように。
そして自分も一人前になったら、秋人に想いを伝えたい。
あなたは一人じゃない。私もいるよ。一人きりで頑張らなくてもいいんだよ。
私はあなたと一緒に居たいんだよ。
いつも。いつでも。
今まで見たことのないくらいの秋人の真剣な顔を思い出して胸が熱くなる。ぎゅっと自分を抱きしめるように丸くなっで考えた。今の私にできることはなんだろう。
そのまま、私はいつのまにか眠りに落ちていた。
じゃりじゃりと高い金属音を引き連れて、除雪車が家の前を通る。太陽は未だ雲に隠れているものの、薄ら明るくなった周囲は一面ふかふかの白色で、今の除雪車のおかげで門の前に白壁ができた。太もも辺りのの高さまで積もった雪が、今はただただ恨めしい。
「くそっ」
間に合え間に合え間に合え。
すくう雪の重みで腕はさっきから怠い。額には汗がにじみ、吐き出す息は真っ白だ。その割に門まではまだ遠く、焦りを覚える。スノーダンプを使えば、とも考えたけれど、自分には重すぎて動かせないだろう。ふうと息を吐いて、手にしたスコップでまた雪に立ち向かう。
体の中心はほかほかと熱いけれど、今日の朝の冷気はここぞとばかりに顔、手袋、長靴の先から確実に染み込んでくる。少し動きを止めただけなのに。あぁ本当に厄介だ。
ざくざくと雪をかいて放り投げていると、どこかで車のエンジンのかかる音がした。普段こんな早い時間に車の音はしない。秋人を青森駅まで乗せる車だろう。ちんたらしてたら間に合わない。こうなったら。
スコップを放り投げ、手足の冷たさも忘れて体全部で雪に飛び込んだ。
転がるようにして道路に出た。ちょうど、車が門の前を通り過ぎていく。その後部座席に一瞬、秋人の驚いた顔が見えた。急いで立ち上がろうとして、滑って転んだ。押し固められた道路の雪はつるつるだ。顔を上げると、見慣れないシルバーの乗用車が止まることなく真っ白な道の先にいた。
手をついて、膝にぐっと力を入れて立ち上がり、叫ぶ。
「あきひとーーーーーー!!」
「へばなーーーーーーー!!!!」
そして大きく手を振った。
雲が流れて太陽が顔を出し、一面の雪が光に変わる。連なる山の木の一本一本、枝の先の先までが、それ自体の光を放つようにキラキラと輝いている。小さくなった車は滲んでぼやけ、それでも、少しだけ止まってまた動き出したのが見えた。
またね、とか、じゃあね、とか。
最後に秋人にかけた言葉はそういう意味のごくごく軽い別れの挨拶だ。
これが最後だなんて私はさらさら思ってない。今の自分に何もできなくても、それだけでも秋人に伝えたかった。
今は、今の自分にできることを、精一杯やる。
風に乗って舞い上がる、煌めく雪の結晶のように。これからの彼の行先が光溢れるものになれ。強く拳を握りしめる。
幻想的な朝の光景の中立ち尽くして、私の足はしばらくの間そこを動かなかった。
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