11

あの日を境に、私は部屋から出ずに過ごした。あれから彼からの連絡は途絶えたまま、音沙汰無しだ。

カーテンを開けると、朝日を浴びた街が広がっている。世間は私に目もくれず忙しそうにせかせかと進んでいく。対してこの部屋はあの日で時間が止まったままだ。

私は溜息をついた。ひとりになると考えてしまう。彼は大丈夫かと。何かに巻き込まれてはしないかと。そして、もしやあいつに殺されてはいないかと。

どぼん、ベッドに倒れこむ。心配で食事ものどを通らない。携帯を何度開いてみても一向に連絡はない。あまりにも心配でメールを送ろうかと本文を打って消してを何度か繰り返し、最後は溜息と共に放り投げた。

私は虚空に手を伸ばす。明後日が近いようで遠い。目の前にあるのに、すんでのところでつかめない。まるでいつかの時みたいだ。

「はぁ......」

その腕を力なく下ろす。今ばかりは一分一秒すらも永遠に感じられる。だが、時の流ればかりはどうしたって思うようにならない。それはわかっているのだが、今の私にはひどく憎たらしい存在だった。

外に出たくても出られない、部屋に閉じこもっているだけの生活があと二日。それさえ過ぎれば私は自由の身。彼と一緒に本当の愛を求められる。だが、その頼みの綱である彼からの連絡は途絶えたまま。

私はまた、一人だった。しかし、今回は何かがおかしかった。私の両の目から涙が溢れてきたのだ。止めようと躍起になる私に涙は更にこぼれてくる。こんなこと、慣れている筈なのに。

私は布団を顔まで引き上げて、大声で泣いた。寂しい、怖い、不安、護ってほしい、様々な想いが交錯した。


どれくらい時間が経っただろうか。顔にひんやりとしたものが触って飛び起きた。正体はなんでもない、自分自身の涙だったのだが。

外はすっかり陽が傾いていた。あぁ、今日も無意味な一日が終わってしまった。私は呆然と座り込む。どうせ入っていないだろうと携帯を開くと、彼からの着信が入っていた。私は急いでかけ直す。

「もしもし、哲也さん」

「愛実、ごめんな。連絡できなくて」

「いえいえ。いいの。ごめんなさい、忙しかった?」

「いや、今日は休みだ」

彼の声をきいてまた泣きそうになる私。彼に出会ってからというもの、涙脆くなってしまった。そんな私を、彼は優しく慰める。

「あと二日の辛抱だ。明後日になれば僕らは幸せになれる」

「えぇ」

あぁ、その言葉だけで救われる。我慢したことは無駄ではなかった。私は彼に悟られないように涙を流す。

「僕は愛実の傍にいるから。絶対に離れない。例え二人の間にどんなに高い壁があったとしても」

彼の真摯な言葉に、私はただ頷くことしかできなかった。でもそれでよかった。言葉ではない、心の底でつながっていることがわかっているからだ。

「愛実、愛している」

「哲也さん、私も」

私たちはこれだけをいうと、しばらく互いの余韻に酔った。そして、どちらともなく満足し、電話を切った。



出立前夜、私はどうしても寝付けなかった。ふたりで幸せになろう、そう誓った筈なのに。互いに本当の幸せを掴む為に一緒になろうと決めたのに。一方では本当にこんなことをしてよかったのだろうかと不安になっている。この先本当に二人だけで生きていけるのだろうか。考えれば考えるほど目が冴えて眠れなくなってしまう。右を向いても左を向いても、想像することは不安ばかりだった。寝ようと目を瞑るが、心配事が瞼の裏に映る。その度に目を覚ましてはごろごろと布団の上を転げまわった。

そうこうしているうちに、空は闇から東雲に段々と変わっていく。結局一睡もできずにスマートフォンが時間を告げた。私は重たい身体をゆっくりと起こし、眠気覚ましにシャワーを浴びた。時間は6時15分前。見上げると雲ひとつない青空が広がっていた。

事前にまとめて支払いを済ませていた私は他のお客さんを起こさないよう、静かに荷物をまとめてホテルを出た。往来はまだ疎らで、朝まで飲み歩いたであろう学生の一団、早朝出勤のサラリーマンとすれ違うだけだった。

最寄りの駅に着くと、携帯がメールを知らせた。彼も最寄りの駅についたらしい。これから新宿駅に向かうとのことだった。私も東京駅に向かっていると返信すると、ちょうど来た電車に乗り込んだ。

電車はゆっくりとホームを離れる。人もまばらの車内は朝の清々しい空気を都会へと運んでいく。窓の外を流れる家々は、まだ夜の中に沈んでいた。空を見上げると、澄んだ瑠璃色の空に明けの明星が輝いていた。

新宿駅に着く頃には、陽もすっかりのぼって普段通りの賑わいを見せていた。人々は我関せずとばかりに各々散っていく。女性の社会進出も当たり前になった昨今、女がひとり、こんなところで立っていても不審な目を向けられることもなくなった。

「お待たせ」

私にさほど遅れることなく、彼がやってきた。そして彼は私のボストンバッグを持つと、颯爽と特急ホームに上がる。

列車は丁度入線してくるところだった。始発の特急だからか、利用客も多い。サラリーマンが大半だったがちらほらと旅行客も見受けられた。

「ねぇ、哲也さん。あの時聞きそびれたのだけれど、あれからどうなったの」

私はずっと気がかりだったことを尋ねた。

「あぁ、問題なく終わったよ」

彼は一笑する。だが、本当にそうだろうか。あの男が易々と諦めるとは考えられない。だが、彼が言うのだから間違いはないのだろう。私の考えすぎだと思うことにした。

「ねぇ、哲也さん。朝ごはん食べた?」

私は努めて笑顔でそう問いかける。

「もし食べていないのなら、そこの駅弁屋さんで買ってくるけれど」

「あぁ、頼むよ」

彼のどこか上の空の返事に不審感を抱きつつ、彼に荷物を預けた。

駅弁屋はホームの中ほどにぽつんとあり、既に特急の乗客がずらりとホームに列を作っていた。これでは到底発車時刻には間に合わない。私は仕方なく階下のキオスクに変更した。キヨスクはさほど混雑しているわけではなく、すんなりと駅弁を購入することができた。彼が幕の内、私が山菜弁当である。

特急発車まで10分、用を足すくらいの余裕はあるか。



僕はさっきから妙な胸騒ぎを覚えていた。あの男が簡単に手を引くわけがないからだ。きっと今も何かしらの手を使って見張っているはずだ。

そういえば駅弁を買いに行くといって出たきりまだ帰ってきていない。列車は整備が終わったらしく、切符を持った乗客が乗り込んでいく。時計を見上げると、発車8分前。大方トイレにでも入っているのだろう。僕も彼らと一緒に乗り込み席に着いたが、妙な胸騒ぎは次第にさざめきとなり、居ても立っても居られない。いよいよ我慢ならなくなった僕は、列車を飛び出して愛実を探すことにした。まずは件の駅弁屋の店員に訊ねるが、弁当を買っていないという。だが、彼女らしい服装をした女性が階下に降りていったと教えてくれた。

階下はさっきよりもさらにごった返していた。通勤客をはじめ、人の波をかきわけながら、愛実を探す。恐らく今までにないくらい必死だったことに、この時初めて気が付いた。

僕は腹の底から彼女の名を呼んだ。ぎょっと彼らが驚いて振り返る。だが、不思議と視線は痛くなかった。ただ一筋に彼女のことが心配だった。

一番奥の番線まで駆けてきたが見つからない。時計を見ると発車まで3分を切っていた。もうだめなのか、僕は折れそうな気持ちをぐっと堪えて、元来た道をまた叫びながら戻っていく。

人込みのなかでよく見えなかったが、青帯のホームに見覚えのある後ろ姿が吸い込まれていったような気がした。

「ごめんなさい、通してください」

人の隙間を縫うように階段を駆け上がると、一組の男女が揉めていた。

「やめてください!」

愛実の声がはっきりと聴こえた。振り向くと、男が彼女の腕を引っ張り、無理やり車両に引きずり込もうとしている。必死でもがくが男の力には敵わないようで、なかなか離れない。

「愛実!」

僕は二人を引きはがしにかかる。事態に気が付いた駅員が混ざり、三人でようやく引きはがした。

「愛実、頼む戻ってきてくれ。俺が悪かった」

駅員に両脇をがっちりと組まれた男は、いつぞやの旦那だった。その目は憔悴し、必死に懇願している。一方の愛実はそんな彼を冷えた目で蔑んだ。

「俺が全て悪かったんだ。彼に気が付かされた。愛実が求めていたのは俺の愛だったのに、俺は無碍にした」

愛実も僕も、黙って彼の言葉をきいていた。罪人のような恰好になりながらもなお妻への愛を叫ぶ彼を、僕は哀れな人だと思った。妻の為にと仕事一筋で生活してきたことが逆に苦しめてきたと深く後悔したときには、もう既に遅かったのだ。

「駅員さん、何をぼやぼやしているんですか。早くこの男を連れて行ってください」

我々はぎょっと愛実を見る。彼女の目に同情という単語はなかった。あったのは何にも例え難い憎悪と復讐心だったのである。

「愛実......」

「情けをかけることはありません。早く連れて行ってください」

彼女は尚も冷たくあしらう。彼の声は彼女の心に届かず、大人しく連行されていくのだった。



これで全てが終わった。

私はあいつに掴まれていた腕を捲る。鬱血して紫になっていた。

「愛実」

「哲也さん」

彼の胸に収まる。戸惑った表情で私を見る彼は、躊躇いがちに腕を回した。

「......あれでよかったのか」

「えぇ。これしか方法はないから」

下手に優しくすると、この間のようにどこまでも執拗に追ってくることはもう目に見えていた。だからあえてそうしたのだった。

私たちは急いで特急のホームに戻ると、もうとっくに出発していた。私はへなへなとベンチに座り込む。あぁ、最後の最後に計画をぶち壊された。もうだめなのか。

「あの、お客様。少々よろしいでしょうか」

顔を上げると駅員さんだった。その手には二枚の切符が握られている。

「ご乗車になれなかったお客様ですよね。当該列車の車掌から手配があり、こちらで振替の切符をご用意しましたのでどうぞ」

どうやら事情を察した車掌さんが事前に駅員さんに連絡してくれていたらしい。

「有難うございます」

思わず涙が溢れてきた。震える手で受け取ると

「どんな事情がおありなのか我々は存じ上げませんが、どうかこれからの未来が以前よりも明るくなりますように」

その一言で一気に視界が滲んだ。

暫くして、列車がホームに滑り込んできた。白地にブルーの帯が一本引かれた近未来的な車両である。忘れず弁当をきちんと購入して、特急に乗車する。

席は車両の一番後ろだった。誰も気にすることなく背中が倒せる、と彼が笑う。窓の外には都会の摩天楼が映っていた。

私たちが乗り込んで少しして、ホームでは発車のベルが鳴る。片開きのドアがチャイムと共に閉まった。あぁ、いよいよ出発なのだ。

「愛実、どうした?大丈夫か?」

彼が心配そうに問う。気が付くと、窓の外を眺めながら涙していたようだ。

「いいえ、嬉しいの」

寂しくなんてなかった。それどころか、私の心はこれからの夢と希望でいっぱいだった。それはきっと彼も同じだろう。

午前7時30分、二人を載せた特急あずさ3号はゆっくりと新宿駅を離れ、真の幸せに向かって走り出したのだった。


Fin.

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