10

次に意識を取り戻した時には、見覚えのある格子柄の天井が見えた。がばりと上半身を起こして周りを確認する。室内は出掛けて行ったときのまま、何も動かされていなかった。

どうやって戻ってきたのだろう。皆目見当もつかない。窓の向こうはただ、雨が広がるばかりである。と、携帯が鳴った。

「あぁ、愛実。大丈夫?」

「哲也さん......」

「心配したよ。どうしてあんなところで寝ていたんだ。僕がそこを通らなければ君は死ぬところだったんだぞ」

「あぁ、それが......」

私はこれまでのことを彼に打ち明けた。すると彼は

「一度、愛実の旦那と話し合う必要がある」

と、心底憤りを滲ませた声で言った。私は猛反対した。あなたをこんな危険な目に遭わせたくないと。だが、それでも彼は頑として主張する。

「これ以上愛実に辛い思いをさせたくない。君には僕のもとで幸せになる権利がある」

暫く言い合いを続けていた私たちだったが、終いには彼の根気強い説得に私が折れてしまった。しかし、どうしようというのだろう。

「大丈夫、僕に任せて」

必ず解決するから、と笑う彼に一抹の不安を拭えない私なのだった。



僕は愛実との電話を切ると、すぐさま彼女の家に向かった。場所は以前、彼女からきいたことがあったから知っていた。

改めて行ってみると大きな一軒家だった。僕のなけなしの年収を投げうっても到底住めないような豪邸だ。これを見ただけで怖気つきそうになったが、勇気を出して家のインターホンを押す。

「はい」

けだるげな男の声が返ってきた。恐らく旦那だろう。僕は奥さんのパートのことで話があると適当な嘘を言った。はじめは妻は出掛けていると答えた彼だったが、引き下がることなく問い続けると堪忍したのか、玄関が開いた。

「何です。妻はいないって言ってるでしょ」

明らかに酔っていた。目を爛々と輝かせ黄色い歯をした獰猛な獣のような目をした男だった。

「奥さんのことで話があります。ご近所に漏れるのはお互いに困るでしょう。中に入れてください」

「だから、妻の行方なんて知りませんよ。出ていったきりなんだから」

「知らない筈ないでしょ。現にさっきまであなた、彼女に付きまとっていたんですから」

途端に動きが止まった。瞳に冷静さを欠いているのがわかる。

「貴様、どうしてそれを」

「お互い、穏便に済ませたいでしょ。だから話し合いに来たんです。入れてください」

強い口調で迫る。彼はしばらく番犬のようにぐるぐると唸っていたが、僕を中に招いた。

「そうか、お前が妻の不倫相手だったのか」

開口一番、彼は自分を納得させるように言った。

「それで、俺にどうしろというんだ。離婚届に判を押せってか。それともお前と妻の不倫を認めろってか」

どぼんとソファに沈んだ彼は捨て鉢にそう言い放ち、ウィスキーを煽った。

「いいえ、そうは言いません。許可が降りなくても僕たちは添い遂げるつもりですから」

「じゃあなんだ」

僕は直立のまま、彼の後ろ姿に問う。

「愛実さんと結婚した理由を教えてください」

「お前に話して何になるというんだ」

「愛実さんはあなたを愛していたはずだ。しかし、あなたはその愛をいとも容易く踏みにじった。仕事という絶対的なものを笠に着て。あなたとの子供ができなくて傷ついている愛実さんに、あなたはさらに追い打ちをかけた。そしてあなたは彼女の心を、あなたへの愛を完膚なきまでに悉く破壊した。僕が出会ったときの彼女はとてもやつれていました。身体こそ普通でしたが、心は既に悲鳴をあげていました。それでもなお家計の、ひいてはあなたの助けになろうと頑張った。そんな愛実さんにあなたは何かしてあげましたか。彼女に少しでも寄り添おう、歩み寄ろうとしましたか。あなたは......」

「うるさい!!!!!」

ガシャン、グラスが僕の顔をかすめて壁で砕ける。彼は全身から上気を滲ませてぎろりと僕を見る。

「若造のお前に何がわかる!たかだか数か月一緒にいただけのただの不倫相手に、あいつの何がわかるんだ!」

彼は全身で怒気を発する。あまりの迫力に気圧されそうになった。だが自然と怖くはなかった。

「わかりますよ。あなたがいかに家庭生活より仕事を優先させてきたか。愛実さんは愛に飢えていたんですよ。誰でもない、あなたの愛に」

「だからなんだというんだ。俺にもう一度やりなおせというのか。不倫相手に諭されるなんてお笑いだな」

そういう彼の目だけは、本当の想いを透かしていた。本当はとても後悔しているに違いないのだ。しかし、どんなに悔やんだところで彼女はもう戻ってこないこともわかっている。

「......もういい、出ていってくれ。出ていけ、早く出ていけ!!!」

彼は現実から目を背けるように、僕を家から無理やり追い出した。

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