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夫が私のメール通りに帰ってきたのは初めてだった。加えて、お互いの顔を見るのも久しぶりだった。
「......なんだよ、俺は就職先探しで忙しいのに」
「突然だけどあなた。私たち結婚して何年目だったかしら」
「なんだよ突然」
夫はなにをバカな事をと私をあしらい、ビールを流し込む。それでも私は淡々と続けた。
「十年よ、私たち。十年も一緒にいるの」
「あぁ、なんだよ。それがどうした」
「十年も一緒にいるのに、あなた私を愛したことあったかしら」
空気が変わった。少なくとも夫はそう感じたらしく、新聞から目を上げた。
「......何が言いたい」
私は茶封筒を夫に差し出し、はっきりと相手の目を見て言った。
「あなた、離婚しましょ」
夫もそれなりの覚悟があったと見えて目に見えて驚く様子はなかったが、ただ瞳だけはすぅと引いた。
「......これはなんの冗談だ」
「冗談なんかじゃないわ。私は至って本気」
私は落ち着きはらって言う。
「離婚、だと?」
「えぇ、そう。離婚したいの」
「はっ、質の悪い冗談だな」
言葉こそ虚勢を張っているが、明らかに動揺していた。声が震え、缶を持つ手に力が入る。
「そもそも、お前は俺無しじゃ生きていけないだろう」
「いえ、そんなことないわ。あなた無しでも十二分に生きていけるわ」
「この家を建ててやったのは誰だ。俺だぞ」
「ええそうね。だけど私だって好んで建ててくれとお願いしたことなんてないわ」
夫の顔が赤くなる。酒だけじゃない、怒りで上気しているのだ。缶を握る手がわなわなと震えている。
「あら、怒ってるの。いいわよ。思うだけ殴ればいいじゃない。それでも気持ちは揺るがないわ」
対して私は今にも噛みつかんとする番犬を前に、不思議なほど自若としていた。ぎりぎりと歯を見せる夫を私は上から悠々と見下ろしていたのだ。
夫は私に向かって缶を投げつけると、ドスドスと部屋に戻っていった。
残された私と、静かなリビング。転がった缶が全てを表していた。
翌日、清々しい朝だった。これから新しい人生が始まるのだと思うととても晴れ晴れとした心持である。
私は改めて、この想いを一行にしたためた。
「さようなら。今までありがとうございました」
自宅の合鍵と手紙をテーブルに置き、私はこの家を去った。最後にちらりと見ると、誰もいない長い廊下が暗く沈んで見えた。
その日から私はビジネスホテルに寝泊まりすることにした。落ち着いてから事の顛末を伝えると、彼はすぐに私の部屋に飛んできた。
「愛実......」
「哲也さん......」
私たちは抱き合った。二人とも自然に涙がこぼれる。
「良かった....本当に良かった......。」
彼は自分のことのように喜んでくれた。
「ああ、そうだ。僕も踏ん切りがつきましたよ」
「え?」
「ここに来る時、離婚届を嫁に郵送したんです」
そう伝える彼は、どこか照れていた。
「自分で言って気が付いたんです。僕も幸せにならなきゃ、なる権利があるって」
ふふん、と嬉しそうな彼の顔。私まで嬉しくなってしまうのだった。
「これで、やっとひとつになれるんですね」
心の底から嬉しさがにじみ出る。私たちは大きく頷いた。ああ、なんて幸せなんだろう。
それからはとんとん拍子で事が進んだ。彼は身辺を整理してあの家を売り払い、私と一緒に遠くへ逃げる事を決めた。その日取りは一週間後、朝7時ちょうどのあずさ1号のチケットを予約した。
逃避行まであと3日と迫ったある雨の日、彼が差し入れてくれた食料が底をついた私は近所のスーパーへ買い物に出た。ビジネスホテルだから当然キッチンはないが、部屋に湯沸かし器と共用スペースに電子レンジはある。身体には悪いがお弁当と数日分のパンや即席めんを購入した。
「参ったなぁ」
買い物をしていた数十分の間に、雨が降り出した。それは短時間であっという間に強くなり、おまけにごおごおと風が吹く。しかしいつまでもここにいたって仕方がない。私は意を決してこの雨の中を歩きだした。
風に煽られながらそれでも何とかホテルの近くまでやってきた私は、エントランスで見覚えのある背格好をした男を見つけてしまった。男は傘も差さずに建物の前で往来に目を光らせている。思い違いであってほしい、私はそう願った。願わくばあの男じゃないことを......。しかし現実、そうではなかった。
男は私と目が合うと、一目散に向かってきた。私は買い物袋そっちのけで逃げ出す。なんでここがわかったの。とにかく逃げなきゃ。ここで捕まればこの先の幸せな未来はない。真っ白になりつつある頭で、それだけを考えて走っていた。あいつはどこまでも、どこまでも付いてくる。雨を蹴散らし、人を蹴散らし、罵声を上げながら。
気が付くと私は例の公園にいた。灰色の空の下、雨に沈んだ遊具さえも私を憐れんでいるような気さえする。私は改めて自分の姿を見た。全身雨と泥まみれ、靴は両方ともどこかに脱げてしまい、足の裏は傷だらけである。
よろよろとベンチに倒れこんだ。指一本すら力が入らない。私は項垂れたまま、ただ強くなる雨に打たれる。このままじゃまずい。このままではいつあいつに見つからないとも限らない。しかし動こうとすればするほど全身に力が入らないのだ。ああ、私はこのまま逃げ出せないで終わるのか。幸せを目の前にして私は死んでしまうのか。そう思うと涙があふれてきた。初めて悔しいと思った。真の幸せを掴みたいと思った。悔しい、悔しい、悔しい。
気持ちとは裏腹に、雨が残酷に残り少ない体力を奪っていく。着ている服が雨を含んで石のように重くのしかかる。死期を悟っているのか、心の鼓動がゆっくりと打つ。重い瞼がゆっくりと下がって、私の視界を完全に覆った。
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