8

彼はポケットから何かを取り出した。

「......俺と、人生を共にしてくれませんか」

手のひらにのった小さな箱を開くと、白金の指輪が姿を現した。闇の中で、落ち着いた光を放っている。

私は彼の顔と指輪を交互に見つめる。どぎまぎしているのが彼にもわかるのだろう。じっと見つめる彼の目にも焦りの色が見え始める。

「......私でいいのですか」

やっとのことで喉から絞り出した声で彼に尋ねる。ぼやけた視線の奥で彼が大きく頷くのがわかる。

「あなたでなければだめなんです」

彼は私を抱きしめる。普段よりもはるかに強く、慈愛に溢れた抱擁だった。

「......新川さん...」

「店長....」

私たちは人目につかないのをいいことに、初めてキスをした。唇を器用に押し広げられてゆっくりと挿入される舌に、私もまた唾液を纏わせた舌で応える。二人の舌が互いに絡み合う様は淫靡で、うっかりすると溶けてしまいそうなくらい熱い。

一通り満足すると名残惜しそうに離す。唾液の橋が架かった。

「......キス、しちゃいましたね」

「......久しぶりだわ。こんなに熱いキス」

私たちはうっとりと互いを見つめあう。頬がほんのりと熱を帯ぶ。

「店長......」

「哲也と呼んでください。お店じゃないので」

「なら私も。愛実って、そう呼んでください」

彼がゆっくりと頷く。

「愛実......」

彼が耳元で名前を呼ぶ。その一言でまるで天にも昇る心地がした。

「哲也....さん....」

うっとりとしながら相手の名を呼ぶ。本当は彼のように呼び捨てをしたかったが、恥ずかしさが勝って、ついさん付けをしてしまうのだった。

「...帰らなくていいのですか。もういい時間でしょう」

「帰りたくない、今晩だけでも店長....哲也さんと一緒に.....」

自分でも意図せずでた本音の言葉に、彼はごくりと生唾を飲み込む。

「....僕のところに来ませんか」

「....はい、是非」

その後、私たちはさも当然のように、互いの褥を濡らすのであった。彼はその若さ故の力強さで私を抱き潰す。私はずっと彼の思うがままにされ、ただひいひいと声を上げるだけだった。



目が覚めると、見たことのない部屋だった。脇には数本のビールとチューハイの空き缶、それに仕様済のゴムと空き箱が転がっていた。ああ、そうか。私はあの後彼の家に上がって......。次第に記憶がよみがえってきた。

傍には幸せそうに眠る彼。私も彼も生まれたままの姿で寝ていたらしい。私は立ち上がると服を身に着け、散乱している缶をまとめる。

彼の部屋はまさに男の部屋そのものだった。1Kの小さな部屋にはおよそ収まりきらないほどの物が辺り一面に投げ出され、半開きのクローゼットからは流行遅れのダウンがはみ出している。清潔感とはほど遠い部屋だった。だが、不思議とこの部屋にいると落ち着く。まるで、本来いるべき場所のような、そんな気持ちがした。

私は彼を起こさないようにしながら、家を後にした。その道中、頭にあるのはこれからの事だった。これからなにをどうすればいいのか。私は明確にわかっていた。

私は帰りがけに役場に寄り、書類を受け取ってきた。家は相変わらずがらんどうだったが、アルコール臭が漂っていた。どうやら夫が帰ってきていたらしい。

一寸ばかり開いていた彼の寝室を覗くと、シーツの乱れと甘い香りがした。ああ、昨晩はお愉しみだったのか。私にはもうどうでもいいことだが。

彼の匂いを落としてしまうのは耐え難いことだったが、シャワーを浴び身体の汚れを落とした。曇った鏡に映る私は、どこか笑顔に見えるのだった。

髪を乾かしながら、食卓に向かう。冷蔵庫から豚と菜っ葉を取り出して適当な炒め物にし、冷凍のご飯をチンして簡単な朝ごはんにした。

お腹も心も満たされたところで、さっそく私はもらってきた書類に必要事項を書き込んでいく。名前、本籍、生年月日、年齢、その他必要な要件を一筆一筆書いていく。そういえば、結婚した時もこうして丁寧に書き込んでいったっけ。あの時は幸せになれると本気で思い込んでいた時だった。だがこうして蓋を開けてみると幸せとは縁遠い生活だった。年を経るごとにお互いへの刺激はなくなり、思いやりはなくなり、そして愛情がなくなっていった。

「よし」

私はすっかり書くと、丁寧に茶封筒にしまい込んだ。次に取り掛かることは、持ち出し品の整理である。

アクセサリーや指輪など、夫から貰ったものは捨てるか売却することにして、気に入っているものは別にえり分けた。元々ものの多い方ではなかったから、夫から貰ったものを除いてしまえば段ボール数箱分だった。夫のものに私の要らないものも含めて、質屋やフリマアプリでお金に換え、もしもの為の資金にした。ざっと50万はあろうか。残りのものは倉庫業者に預かってもらうことにした。

「ふぅ......」

夕方にはさっぱりした。手元には大きめのボストンバッグと小さめのキャリーケースひとつあるばかりである。これでいつでも家を出られる。私は幸せだった。その気持ちのまま、私は夫にメールを送った。

「話したいことがあります。早く帰ってきてください」

私と夫との、最後の夜が始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る