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仕事しか生きがいのなかった夫の心はすっかり腑抜けて、抜け殻になってしまった。家で日がな一日ぼんやりしているかと思えば、私が寝ている時に突然殴りかかってくる。ふらりと出かけたら数日は平気で帰ってこない。機嫌が悪いと容赦なく拳を振るわれる、罵声を浴びせられる。

そんな生活をはじめて二週間が経つ頃にはすっかり滅入ってしまった。日を追うごとに全身に痣や打撲傷が増え、動くのもやっとの状態。精神的にもいつ襲われるかと無意識のうちに追い詰められ、何をする気にもなれないでいた。挙句私はパートを休職し、自宅に引き籠るようになってしまったのだった。

なにもやる気がしない。ただぼんやりとして窓の外を眺めているだけの一日。欲はなく、かといって死ぬ勇気もない。ただ無駄に時が過ぎるのを待つだけ。死ぬことも生きる事もできない私はどうしたらいいのだろうか。

携帯が着信を伝える。みると、彼からのメッセージだった。休むことは数日前に連絡しているはずだが。どうやら心配らしい。

「何か僕にできることがあるならば言ってください」

その一文だけだったが、自然と涙が出てきた。私を心の底から心配してくれている人がいる。それだけでも十分私にとっては心の支えになっていたことに、改めて気が付いた。

「助けてください」

素直に打って気が付いた。そうか、これが私の本心だったのだと。しかし、すぐに消した。送ってはいけない。今だって寄りかかっているのだ、これ以上頼ってはいけない。しかしその思いとは裏腹に、心の奥底ではSOSを発出している。

私は四肢をベッドに投げうち、虚ろな目で天井を見上げた。どうしたらいいのだろう、私は。


気が付くと窓の外は真っ暗だった。いけない、うっかり寝てしまったようだ。慌てて起き上がってばたばたと夕飯の支度をするが、考えてみるとそうする必要はなかった。気まぐれに帰ってくるあいつに夕飯を用意するだけ食材の無駄というものである。

夕食を手早く済ませて自室に戻ると携帯に着信が入った。

「もしもし」

「ああ、新川さん。よかった。返事がなかったから心配になってかけてしまいました。今時間大丈夫ですか」

「ええ、大丈夫です。ご心配をおかけしてごめんなさい」

「いえいえ、無事だっただけで安心しましたよ」

機械越しだが、彼の柔らかい笑みが浮かんでくる。いけない、涙があふれてきてしまった。

「大丈夫ですか、新川さん」

止まらなかった。今まで我慢してきたものがここにきて堰を切る。

「助けてください......」

もう限界だった。これ以上、ここにいたらどうなるかわからない。

「.......30分後、この間の公園で」

それだけを告げると、電話が切れた。



公園に駆け付けると、先に彼がベンチで待っていた。

「ごめんなさい、お待たせして」

「いえいえ、僕こそ急に呼び出してごめんなさい」

彼はいつもの様に優しい笑顔を浮かべている。その顔を見るや、私はまた泣き出してしまいそうになるのをぐっとこらえなければならなかった。

「どうしたんです」

缶コーヒーを差し出しながら彼は優しく問いかける。当の私は缶を両手で転がしながら俯くばかりだった。

「......余程疲れていたのですね」

ぷしゅっ、珈琲の香りが漂う。彼はごくりと一口飲んでから、こういった。

「僕、こないだも言った通り、嫁に逃げられましてね」

彼は自嘲しながら語る。

「きっかけはほんの些細な事でした。家事や娘の育児に対する僕の協力的でない態度、金銭感覚の違い、そして、価値観の違い。そんな些細な傷や痛みやすれ違いが積もり積もって、ある晩に大喧嘩をしました。互いに対する不満がここぞとばかりに大噴出したのです。

翌朝、テーブルの上に手紙が置いてありました。"もうあなたとは暮らせません"って。僕は荒れました。なぜ僕を見捨てるのだと。僕は僕なりに頑張っていたというのに。だけど考えてみるとそうじゃなかった。僕は僕なりに頑張っていたつもりでも、妻にとっては何も変わってなかった。互いが互いに我慢を強いていただけだった。ただそれだけだったんです。

それから僕は自分を追い詰めることをやめ、よりを戻すことも諦めました。あいつはあいつで、僕のいないところできっと幸せにしている。なら僕も幸せにならなきゃ。過去のことをいつまでも後悔したってなにも変わらないんです」

ぐいとコーヒーを煽ると、仰々しく立ち上がった。その目はさっきまでの自嘲的なものではなく、前を向いて歩いていこうとする未来を見据えた目だった。

今まで感じていた憂鬱な気持ちは、すっかりどこかへ吹き飛んでしまった。いや、この空気を変えてくれたのは誰でもない、彼自身だったのだ。

「あぁ、すみません。僕ばかり話してしまって」

「いいえ、いいんです。それより、少し歩きませんか」

彼の空いている手を優しく取る。大きくて肉厚な手だ。

「もういいのですか」

「えぇ、あなたに会ってすっきりしちゃいました」

私はにっこりと微笑む。

「それなら......いいのですが.....」

目をそらしながら頬を赤らめる彼だったが、その手はしっかりと私の細い手を握っていた。

私たちは夜の街をしっとりと歩いた。この間とは違って、雲一つない夜だった。普段なら不安と恐怖でいっぱいのこの道も、今宵ばかりは幸せと安心が勝っていた。

私たちはまるで若い時に戻った様にふるまった。しっかりと互いの腕を絡め、眠らない街をあてもなくふらふらと歩いた。年甲斐もなく腕を絡めて手をつなぐ私たちは、道行く人から仲のいい夫婦に見えるのかもしれない。だが真相は考えているよりも複雑で込み入っているのだ。それぞれに悩みを抱えた者同士、惹かれあい、くっつき、そして新しい活路を見出そうとしている。それを邪魔する者は、誰一人としていない。

私たちは元の公園に戻ってきた。闇に沈んだ公園は相変わらず誰もいない。ただ、じじじと光る街灯が、下にある古い木製ベンチを照らしている。

「はあ、沢山歩きましたね」

ベンチに腰掛けると、彼はいい汗をかいたと額を拭う。その表情は爽やかな笑みを湛えていた。

「えぇ、ここまで楽しい散歩は初めてです」

昼間の辛い感情はどこへやら。私もつられてふわり、笑みを浮かべる。

「......新川さん」

彼は何か大きなことを決めたような神妙な面持ちで言葉を絞り出す。

「今日、こうしてあなたを呼び出したのは大切な話があるからなんです」

彼の優しい目がきゅっときつくなって、私を捉え離さない。私はさながら蜘蛛の巣に捕まった蝶のように、小さく首を振った。

「実は......」

肝心なところはもごもごと口の中でごまかす。当然私には彼が何を言っているのかさっぱりわからない。だが、何を言わんとしているのか、この次にどんな言葉が来るのか、なんとなく察していた。

暫くもごもごとしていた彼だったが、いよいよ決めたようで、またまっすぐに私を見つめて言った。

「新川さん、俺と」

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