6

「気を付けてください、新川さん」

吐いたことで肩の荷が降りた。最初はぐすぐすと鼻を鳴らしていた私だったが、落ち着いてくると酒も助けてか自然と足取りも軽くなっていった。

繋ぐ勇気もない二人の手の甲が触れる。最初は自然を装って、しかし段々と意図的に、小指が軽く絡んでは解け、また絡み合う。そして、どちらかともなくその手をとった。

その後、私たちは夜の街を冒険した。今だけは互いの憂い事を忘れて、今頃になってやってきた青い春を心の底から楽しむ様に。ああ、この時間が長く続けばいいのに。

私たちはひとしきり散策した後、公園のベンチに腰かけた。

「飲み物買ってきましょうか」

「いいえ、今はそれよりも」

ばねみたいに立ち上がる彼を引き留めた時、私たちは初めて互いの顔を見合わせた。

彼は今にも照れくさそうに笑うのを堪えていた。口角がひくひくと痙攣し、目がすっと細くなる。そして、顔が次第に赤くなっていくのがわかった。恐らく私も同じだろう、頬がぽっぽと赤くなるのがわかる。

彼は私に引き留められ、隣に腰かけた。堪えきれなくなったのか、顔を背ける。

「新川さん」

ぽつりと名を呼ぶ声にまで恥ずかしさが感じられた。

「その想いはとても嬉しいのですが、如何せんお互い......」

彼の声が次第に消えていく。それは痛いほど理解している。それを承知で告げたのだ。

しかし、と彼は続ける。

「しかし事実、私も自分の気持ちに嘘をつく事ができません。ですが、一方で別居しているとはいえ私にも妻が、子がいます。彼らを裏切るわけにもいかない」

彼は現実と理想の間で大いに揺れていた。

「生半可にあなたと関係を築きたくない。だから、時間をください。考えさせてください」

彼はまっすぐに私を見ていった。その瞳の奥には固まりきらない何かが感じられた。



それから、私は彼の答えを一日千秋の思いで待っていた。夫は相変わらず家庭を省ることなく女と遊び、時に帰ってこないこともあった。そんな日は必ず少しいいスーツを着て出ていくからすぐにわかる。

しかし辛くはなかった。前々からわかっていた事だったし、なにより今は彼の存在が一番大きかった。最近は勤務時間も時間内ギリギリまで増やした。一秒でも長く彼の傍にいたかったからだ。

だが、あれから数日、数週間が経っても彼が答えをくれることはなかった。それどころか避けているような気さえする。すっかり冷めてしまったのか。次第に不安になってきた。だが、行動を起こせずにいるのも事実である。尋ねたいが必ずしもよい答えであるとは限らない、しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。私は悶々としたままただ黙って待っていることしかできないでいた。

「はあ」

今日も答えを得られずに退店した。彼はいつになったら答えをくれるのだろう。私はいつでも受け入れる用意ができているというのに。気が重くなるに従って自然と歩みが遅くなる。

とぼとぼと自宅に帰り着いた私は鍵を取り出した。異変に気がついたのはその時だった。鍵が開いているのだ。夫は今晩もまたあの女のところのはず。

恐る恐る開けると、真っ暗な廊下が部屋の奥に向かって続いている。その廊下に点々と何かが滴っていた。一瞬にして背筋が凍り、全身が強張る。一歩が踏み出せない。だがこのままでいたら尚更まずいことになる。私は生唾を呑み込み、意を決して足を踏み出した。ぎいぎいと床の軋む音がいつも以上に耳に障る。何でもない廊下がとてつもなく長く感じられた。ぽたり、ぽたり、フローリングに滴る滲みは扉の奥まで続いている。さらに震える手を抑えながら開けると、リビングもまた闇に沈んでいた。

「きゃっ」

思い切り床に顔をぶつけた。口の中に血の味が広がる。見れば捨ててある缶に乗ったようだ、ぺしゃんこにひしゃげている。だが、電気をつけた私はもっと恐ろしい光景を目にすることになった。

そこかしこに空き缶や空き瓶が転がっているのである。おかげで部屋中はアルコール臭が充満し、私は思わず顔を背けた。

その中心で、男が大の字で横になっていた。スーツもパンツもソファに投げ出され、鞄はひっくり返って書類が床に散乱している。

「ちょっと」

夫を揺らして起こす。だが一向に目覚めない。ふと傍のテーブルを見ると、そこだけ荒らされず、一通の封筒が丁寧に置かれていた。それを見た私は今度こそ全身が凍りついた。

表に書かれていたのは「辞令」の二文字、いわゆるリストラである。

「そうだよ、俺はリストラされたんだ」

いつのまに起きたのか、夫はそう告げた。

「そう、なのね」

全身を殴られたような衝撃が走る。だが、頭のどこかでは覚悟ができていた。

「そう、だと?この家を誰が建てたと思っているんだ」

「わかってるわよ、でもなってしまったものは仕方ないじゃない」

思わずかっとなって言う。普段のストレスも溜まっていたのだろう。

「仕方ないだと?」

夫は更に激高し、私の頬を張った。鈍い音と箇所がジンジンする。

「俺は明日からどう生きればいいんだ。この歳でリストラなんて、情けなくて表を満足に歩けねえよ」

夫はどたどたとふらついた足取りで自室に戻っていった。対して残された私は、叩かれた頬を氷で冷やしながら真っ暗な部屋でひとり茫然としていた。

涙すら出てこなかった。ただ思うのは、これから数時間後にはやってくる先の見えない恐怖の生活と、いかにあいつの機嫌を取るか、だ。いや、それらすら心の隅であった。

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