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あの事件から二週間、私のフラストレーションはもう限界だった。

言いたいのに、言えない。問い詰めようと思うと、彼とのことが私の頭をよぎる。自分も同じことをしているという負い目を感じているが故に、一方的には責められないのだ。

夫婦仲も普段以上にぎくしゃくしている。夫に悟られまいと普段通り接しているつもりではあるが、やはりあの時のことが鮮明に脳裏に浮かぶと腹の奥から何物にも例え難い何かが逆流してくる。そんな中でも私はパートをやめようとは思わなかった。それが私にとっての唯一の安らぎであり、心の支えだからである。

「新川さん、新川さん」

彼が私を呼ぶ声てはっと我に返った。目の前には険悪な表情をされたお客さん。鋭い目つきで私を睨んでいる。

「あとは私が引き継ぎます。休んでいてください」

異変を感じた彼が咄嗟にフォローに入ってくれたことにより、私は事務所で休むことになった。

誰もいない殺風景な部屋でひとり、壊れかけのパイプ椅子に腰かけて防犯カメラに映る彼をぼんやりと眺めていた。画面に映る彼は頼りになる大きな背中だった。しかしそれと同時に、どこか哀しさや後ろめたさも感じる。それはきっと、既成事実はないもののお互いにその気があるからであろうか。

「新川さん、どうしたのです。あなたらしくない」

事務所に戻ってきて早々、心配そうに訊ねる彼。しかし、一向に答えずただ俯き首を振る私がよほど堪えているとみえたのだろう、今日はもう切り上げていいと言ってくれた。

「しかし」

「いや、いいんですよ。僕も丁度退勤の時間ですから」

彼は早々に鞄を持つと、私の背中を押して急かす。

外はすっかり陽が沈んでいた。通りは普段とは違い帰宅のサラリーマンやOL で賑わいを見せている。

「あの」

彼が遠慮気味に口を開く。

「これから、空いてます?」

「えぇ、空いていますけど......」

「どうです、一杯行きません?」


こうして彼と差し向うのは、あの喫茶店の一件以来久しぶりだった。

「新川さん、何飲みます?」

個室に通された私たちは、メニューを広げた。結婚してからというもの、こういう店に訪れたことがない。見れば随分とカラフルなものである。若者向けだろうか、虹色のサワーや小さいジョッキのビールまである。

「そうですね、生ビールにします。店長はどうされますか」

「僕もまずは生中かな」

すみません、と店員を呼び止め生ビールと適当なつまみを何品か注文した。

さて、と向き直った彼。その目はさっきのことを責めるような気はなく、むしろ穏やかな笑みを湛えていた。

「それで、どうしたんです。あんなにぼうっとしているなんて」

「いえ、何もないですよ」

「そんなはずはない。あんなに落ち込んだあなたを見たことないです」

彼の真剣な言葉に思わず屈しそうになる私。咄嗟に目をそらす。しかしそれが更に彼の関心を惹いたのか、彼の両目が私を捉えて離さない。

そんなこんなしているうちに、お通しの枝豆とビールが運ばれてきた。彼はジョッキを手に取ると、中の液体をごくりごくりと喉を鳴らして飲む。喉仏が出たり引っ込んだりしてその様子がよくわかった。

彼は一気に飲み干すと、どんとテーブルに叩きつけた。そして幸せいっぱいの表情をするのだ。

この表情を傍でずっと見ていたい。それだけでいいのだ。誰が何と言おうと彼の隣で、彼だけをずっと想っていたい。あわよくばこれから先ずっと私のものに。

私はそんな邪な考えをビールと一緒に流し込む。そんな考えはあまりに馬鹿げていると、もうずいぶんと前からわかっているではないか。再三言っているが、彼は別居中の身ではあるものの、妻子持ちだ。それに私だってそうだ。それなのに一緒になりたいなんてあまりに邪な考えが過ぎる。

「新川さん。何を悲しそうな顔をしているのです」

「い、いえ。何でもありません」

「そうですか。さっきといい今といい、今日はどうされたのです」

彼が本気で心配してくれている。それは痛いほどよくわかっている。だからこそ迷惑をかけられないのだ。

「話せない何か事情がおありなのでしょう。それはわかっています。しかし、話してくれないと私も対処のしようがないですよ」

それでも牡蠣の様に口を閉ざす私に、彼は優しく諭す。だが、言葉とは裏腹に彼の視線が鋭く突き刺さる。私だって話してしまいたいが、できないのだ。あなたに迷惑をかけるわけにはいかないから。私は喉元まで出かかっている言葉を抑えつつ、なおも固く口を閉ざす。

しかし、そう長くは持たなかった。彼のそれでもめげずに、ただ一心に私を案じてかけてくるその言葉のひとつひとつが私の頑固な心を少しずつ、的確に溶かしていった。

気が付くと私は号泣しながら心のうちを吐露していた。夫との事、治療のこと、そして、彼への想い。

「いけないとわかっています。でも、もう止められないのです。一度燃えた恋の炎は、誰にも消せないのです」

彼は恐らく言葉になっていないひとつひとつを全て受け止めてくれていたようで、私の目をじっと見つめて、黙って聞いていた。

「そうでしたか。辛い思いをされたんですね。もう大丈夫ですよ」

私に水を差し出しながら、背中をさする彼。こんなに優しくされたら尚更涙が止まらない。

「大分飲みましたから、そろそろ酔いを覚ましましょうか」

落ち着いた頃を見計らって、彼がそう提案した。食事代は迷惑料も兼ねて、私が支払った。

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