後編 第三埠頭の涙

 私たちが夫婦だったころ、私と秋人は内地日本へ行くか行かないかで始終喧嘩をしていた。もちろん旅行ではない。アカメスブルグを捨てて内地日本へ移住するということだ。


「美冬! 日本人なら一度は、日本で暮らしたいと思うだろ、ふつう」

「旅行には行ってみたいと思うけど、暮らしたいとは思わないって何度言ったら分かるのよ!」


 そしてこれは、私たち夫婦が、何年言い合っても埋まらない溝だった。

 当時はまだ若くて貧乏だった私たちにとって、何百万円もする渡航費用はとても手が出る金額ではなかったし、そのうえラズレシェニア入国許可証も今よりもずっと出にくかったのだ。

 しかし、私は秋人が小さいころから内地日本に行きたがっていたのを知っていた。彼の妻となった以上、最終的には彼についていくべきかも、と思ったこともある。それでも私は意地になって行かないと言い続け、秋人は辛抱強く、悪く言えば執拗に「内地日本へ行こう」 と私を誘い続けていた。


 私は昔を思い出しながら、秋人に向かって声を上げた。


「あんた、もしかして、またヤバいことに手を出したんじゃないでしょうね?」

「いや、…… さすがにそういうのはもう足を洗ったよ」


 そうなのだ。当時の秋人は内地日本行きたさのあまり、タイナーヤ秘密警察のスパイのような真似をして、仲間の個人情報を売り飛ばしてお金を稼ぐことを始めたのだった。私は、何度もやめてと言ったが、秋人はやめなかった。あと少し、あと少しで金がたまるから、一緒に内地日本へ行けるから、と言いながら。

 ところが悪事は必ず露呈する。日系人コミュニティの中でどうも秋人が個人情報を漏洩しているらしいといううわさが流れ始めたある日、秋人は書置きと離婚届を残して、私の元から消えるように去っていったのだった。

 内地日本に行きたいのは、まあ分かる。しかし、なぜそんな同胞を裏切ってまで自分だけ行こうという気になれるのか。

 私は当時の秋人の行動に、心の底から、憤って、悲しんで、そして情なく思った。他にもっとやり方があったんじゃないか、と。


「もし、前みたいに人に言えないようなやり方で、お金とラズレシェニア入国許可証を手に入れてきたのなら、私、あんたのこと、今度こそ絶対に許さないから」


 私の声には、ものすごく殺気がこもっていたのだろう。秋人の視線が若干泳ぎ気味になっている。


「いや、今度はまっとうに稼いできたんだよ。いや、ホントに。信じてくれよ、美冬」

「そんなの信じられるかっていうの! あなたアカメスブルグここのやくざもんから賞金首扱いされてるんだからね。分かってるの?」

「じゃあ美冬は ……」

「行かないわよ」


 私はさも当然と言った感じで言い放った。


「お金と正規のラズレシェニア入国許可証があるなら、一人で勝手に内地日本でもどこでも行ってきなさいよ。私は行かない、絶対に!」


 秋人の肩が見て分かるほどがくりと落ちた。その様子を見ていると少し心が痛むが、やっぱりこの地を捨ててまでして、内地日本に行く気にはならない。


「そうか。分かったよ ……」

「分かったら、帰りなさい。あ、コーヒー代置いて行ってね。慰謝料は今度にしといてあげる。でも、それも忘れちゃだめだからね」


 秋人はうなだれたまま財布から千ルーブル紙幣を出してカウンターに置くと、立ち上がって掛けてあったコートを手にした。


「次の連絡船に乗ろうと思ってるんだ」


 出口の木の扉のところで秋人は振り返って言った。


「次の連絡船って、あさってじゃない! なんでそんな急なのよ! 他人の都合をまったく考えないで行動するところ、昔のままじゃない。もし、万が一私が行くって言ったら、どうするつもりだったのよ。この店とかアカメスブルグの家とか」


 私は思い切り呆れたような声で言ってやった。いや、ホントに呆れた。


「ふん、見送りになんか行ってやんないからね。あんたなんか一人でどこでも行けばいいのよ!」


 ◇


 極限までつっけんどんな態度は取ったものの、火曜日の午後、私は外出支度をして連絡船が出航する第三埠頭に向かっていた。今日は雪曇りで気温も幾分高い。先日降った粉雪は、氷となって歩道の石畳にへばりついていた。


 日曜日の夜、秋人が来る前に飲んでいたひげ面の常連客が、賞金首で一攫千金と言っていたのが、私にはどうしても気になっていた。


 酔っぱらいのざれ言だとは思うけどね、でも、万が一ホントに不逞の輩に付け狙われたら……。

 べ、別に秋人の心配なんかしてるわけじゃないんだからね。

 あんなやつ、一人で船に乗る前に襲われちゃえばいいのよ。

 で、でも、ほら。それじゃ、また慰謝料踏み倒されちゃうじゃない?

 それが嫌なのよ。そうよ。生きて慰謝料払ってもらわないと、私が困るのよ。


 私はぶつぶつと虚空に向かって言い訳を並べながら、雪の残る氷った石畳の歩道を第三埠頭に向かって歩いて行った。

 大通りのポプラ並木はすっかり葉を落として茶色の幹を並べている。私は、このアカメスブルグのモノトーンの冬が嫌いではない。

 そして、アカメスブルグの粉雪を溶かしてしまうほどの内地への熱い思いも、決して、嫌いなわけではなかった。


 第三埠頭の連絡船乗り場ではすでに乗船が始まっていた。白と濃紺の連絡船、富岳丸のタラップに次々と人が乗り込んでいく。


 私はその様子を岸壁の隅っこで遠巻きに見ながら、目を凝らして秋人の姿を探していた。


 いた!


 秋人は日曜日と同じ紺色のトレンチコートにハンチング帽をかぶって、皮のトランク一つ持ち、係員に心なしか誇らしげに連絡船のチケットとラズレシェニア入国許可証を見せると、タラップに向かってゆったり歩みを進めていた。

 その秋人の姿を見た途端、不意に私の中に形容しがたい思いがあふれていった。


 秋人 …… 。念願の内地日本行きが叶って、よかったね。

 よかった …… んだよね。小さいころからの夢だったんだもんね。

 私もいっしょに行くって言った方が …… よかったのかな。

 いっしょに行くって言ってもよかったかも ……、いやいや、そんなことないわよね。

 アカメスブルグここは私のふるさと、だもんね。

 でも私、意地張ってたかも ……、いやいやいや、そんなんじゃないんだけどね。


 また私はぶつぶつと誰にでもないつぶやきを垂れ流す。秋人がタラップをゆっくりと登っていくのが目に入った。


 その時、岸壁の見送り客の列の後ろで、懐に手を入れて何かを構える仕草の男が目に入った。あれは、先日くだを巻いていたなじみ客の友人。何度か店に来たこともある。

 あのなじみ客が言っていた賞金首の話は、ホントに秋人のことだったのか!


「いけない!! 秋人が狙われてる!!」


 私の足は考えるよりも先に動いた。男の背中に向かって肩から思い切り突っ込んでいた。今行かなければ、秋人が内地へ行くチャンスはまた遠のく。

 私は、行かない。

 けど、秋人が行けないのは、イヤだ。彼の二十年来の夢だったんだから!


「邪魔しないで!! 秋人が行くのを邪魔しないで!!」


 私は涙声で叫んでいた。

 頬をつたう涙は、第三ふ頭の岸壁に薄く積もったアカメスブルグの乾いた粉雪を溶かすように、飛び散った。


 ◇


 店内には琥珀の電球のほんのりしたあかり。アカメスブルグの長い冬もやっと終わろうとしていた。私はお店の中でひげ面のなじみ客の相手をしている。自分の勘違いで懐から煙草を出して火を付けようとしていた彼の友人を、思いっきり背後から突き飛ばしてしまって申し訳ないと謝ったが、飲んだくれているなじみ客の耳には既に届いていないようだ。


 なじみ客は「油田を一カ所掘り当てれば一攫千金だぜ。へへっ、ツケなんかきれいさっぱり全部払えるぜ」と陽気にしゃべりながら、今日の飲み代をまたツケにしようとしていた。


 そこへなじみ客の奥さんの巨体が、店の中に飛び込んで来た。


「アンタ、いつまでも飲んだくれてんじゃないわよ! すみませんね、うちのバカ、妄想癖すごいでしょ? こないだも賞金首がどうだとか言って浮かれていたんだから」

「いえいえ、奥さん、男なんてみんなそんなもんだと思いますよ」


 ひげ面のなじみ客は奥さんに引きずられて帰って行った。奥さんはついでにツケを全部払って行ってくれた。やれやれ。


「さて、そろそろ店じまいにしようかな」


 私は客のいなくなったカウンターを片付けながら、誰に聞かせることなく一人つぶやいた。カウンターをふきんで拭きながら、私は一人思う。


 ――― 秋人、内地日本でどうしてるかな。


 ――― 多分、秋人はいずれまたふらっと私のところに戻ってくるんじゃないかという気がする。そして、また私に内地日本へ行こうと誘ってくる気がする。


 ――― そしたら、その時 …… 私はどうしようかな。


 そこまで考えて私はふふっと一人で笑った。


 ――― 答えなんか、決まっているんでしょ?


 私は店先の電灯を消し、少しだけ開けた扉から身を乗り出して、外にかけてある ОТКРЫТО営業中 の木札をЗАКРЫТОCLOSED に裏返した。



 <了>







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪を溶く熱 ゆうすけ @Hasahina214

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説