雪を溶く熱

ゆうすけ

前編 アカメスブルグの粉雪

「さて、そろそろ店じまいにしようかな」


 私は客のいなくなったカウンターを片付けながら、誰に聞かせることなく一人つぶやいた。店内には琥珀の電球のほんのりしたあかり。さっきまで呑んでいたひげ面のなじみ客は「懸賞首を討ちとれば一攫千金だぜ。へへっ、ツケなんかきれいさっぱり全部払えるぜ」と騒いだ割には、今日の飲み代をまたツケにして帰って行った。

 もうこんな雪の降る日曜日の夜に、路地裏の忘れ去られたようなこの店を訪れる客はいなさそうだ。カウンターの裏の石油ストーブに載せてあるやかんが、しきりに湯気を吹いて自己主張を続けている。外は音もなく粉雪が降り注ぐ静かな夜だった。


 ここ大陸の極東の港町アカメスブルグの冬には、湿り気のない乾いた粉雪が降る。それは降るというよりも、空から地面に向かって真っすぐに落ちてくるという表現の方がしっくりくる。私は雪と言えばアカメスブルグの粉雪しか知らない。しかし、内地日本出身の母は、そんな私に向かって遠くを見るようにしながら、しばしばこんなことを言っていた。


内地日本の雪はね、もっとひらひらと舞い落ちるの。光も音も吸い込んで、空中で漂ってから地面にそっと降り積もるのよ。とっても幻想的なの」


 母には悪いが、大陸で生まれ育った私にとっては、まるで使命感に駆られたようにひたすら地面を目指すアカメスブルグの粉雪こそ幻想的だ。それぐらいのロマンチシズムの感受性は三十路を過ぎた私にもまだ残っている。

 それよりも、むしろ湿った雪、というものがイマイチイメージできない。私は、大陸で生まれ育ったフトロイエ第二世代だ。内地日本から移住してきた両親たちペルヴューイ第一世代ほど内地日本の湿った雪に対して、少なくとも私には、強い思い入れはない。しかし、それでもいつかは自分のルーツを見物がてら、日本に行ってみたいとは思っている。その思いは旅行者気分のそれに近いのだろう。

 どちらかというと私のような考えが、フトロイエ第二世代ではボリシェヴィキ多数派だと思う。母は内地日本への郷愁の念を抱えたまま、何年か前に病気で亡くなっていた。


 私は店先の電灯を消し、少しだけ開けた扉から身を乗り出して、外にかけてある ОТКРЫТО営業中 の木札をЗАКРЫТОCLOSED に裏返した。


「ひゃあ、今日は一段と冷えてるわね」


 刺すような戸外の冷気に、私は首をすくめた。木札が扉に当たってカランと乾いた音を立てる。

 その時、戸外の凍てついた冷気が、男の声を運んできた。


「まだ飲めるかい?」


 振り向くと紺色のトレンチコートにハンチング帽をかぶった男が、流れ星のように降りしきる粉雪の中に身をさらしていた。

 私は、その張りのあるバリトンの声に聞き覚えがあった。


「秋人!? 秋人じゃない!!」

「よお、美冬。久しぶりだな。まだこの店、つぶれてなかったんだな」


 ◇


「つぶれてなかったとか失礼ね。あんたこそ、なにやってたのよ! よくへーきな顔して私の前に出て来られるわね!」


 私は店じまいが終わった店内に秋人を招き入れた。秋人はコートをかけ、マフラーと手袋を取ると、慣れた風でカウンターに座る。私は再びエプロンを付けて、乱暴にインスタントコーヒーのびんを取り出してキャップを開けると、ざらざらと雑にマグカップに流し込む。そして超適当にやかんのお湯を注いだ。勢い余ってお湯が少し跳ねこぼれたが、気にしない風を装う。


「はい!」


 私は仏頂面でマグカップを秋人の目前に据えた。古いアカシヤ材のカウンターがどすんと音を立てる。


「おいおい、せめてホットウィスキーにするかとか、焼酎お湯割りあるわよとか言ってくれねーのかよ」

「ふんだ、あんたなんかこれで十分よ! 飲まないの?」

「飲む飲む。今日は超寒くてさ。まいったぜ。やっぱこういう寒い日は、美冬の淹れてくれるコーヒーが一番だな」


 秋人は文句をいいながらも、脇の下に差し込んで暖めていた両方の掌でマグカップをつかむと、おいしそうにすすり始めた。


――― 超乱暴に、超適当に淹れても、やっぱり秋人の好みの分量は身体が覚えてるもんなのね。


 そんなことをふと考えて頬が緩む。


――― しかし、 ここは門前払いするのが普通だよね。なんで私、当たり前のようにこいつを店に入れちゃってるんだろう …… 。


 私は少し舞い上がっているかもしれない自分を悟られたくなくて、わざと憮然とした態度のまま、つっけんどんに秋人に聞いた。


「今さらそんなお世辞でごまかされないわよ。で、あんた、どこ行ってたのよ。私をほったらかしにして」

「ちょっとヨーロッパにね。俺さ、結構頑張って働いて稼いできたんだぜ」

「へえー。踏み倒した慰謝料、払いにきてくれたってこと? 忘れたとは言わせないわよ?」

「 …… いや、まあ、あれは、そのー、…… 悪かったよ。あの時はどうしても金がなかったんだ。でも、今日はそれで来たわけじゃなくてさ ……」


 秋人は私の幼馴染。同じようにアカメスブルグで生まれ育ったフトロイエ第二世代だ。私たちは幼少のころから、短い夏には大陸の大草原を手を取り合って走り回り、長い冬には部屋で肩を寄せ合って本を読みあい、いつしか恋仲となり、身体を重ね、そして夫婦となって何年かを一緒に暮らした、そういう腐れ縁もいいところの間柄だった。


 そして …… 、そう。秋人は、私のだ。

 

 秋人はコーヒーをずずっとひとすすりすると、おもむろにカウンターにマグカップを戻した。そして、居住まいを正して、私の目をじっと見る。その射るような視線に耐え切れなくなったころ、張りのあるバリトンで私にこう口を開いた。


「美冬、もう一度、俺とやり直さないか?」


 私は、手に持っていたチーズクラッカーを乗せた皿を危うく落としそうになって、すんでのところで持ちこたえる。

 しかし、秋人を店に招き入れた時から、いや、凍てつく冷気の中で張りのあるバリトンの声を聞いた時から、そのセリフを予感していたのかもしれない。もしかしたら、そのセリフを秋人がいなくなってからの数年間、私は心のどこかで待ち望んでいたのかもしれない。


「秋人 …… 」

「金は稼いできたし、ラズレシェニア入国許可証も手配してある。俺と、もう一度やり直して、内地日本に行って一緒に暮らさないか?」


 秋人はしっかりと、そしてはっきりと私を見て語りかけた。私は、そんな秋人を見て声に詰まる。


「秋人、私が …… 、私が …… その言葉で ……」

「美冬 …… 」


 秋人はカウンターの向こうから手を伸ばして、そっと私の手を包むように握ろうとした。


「私がその言葉で喜ぶとでも思ったの! 内地日本に行くのはお断りだって何度も言ってるじゃない! 喧嘩売りに来たの!?」


 私は、秋人の手を振り払って叫ぶ。


「ここアカメスブルグが、私の故郷なの! 私、ここを離れる気はないし!」

「渡航する金なら、稼いできたぜ? もちろん二人分。内地日本での仕事も見つかっているんだ。なあ、美冬。一緒に ……」

「そういう問題じゃない!!」


 それは、そのまま私たちが夫婦だった時の口論と、まったく同じやり取りだった。

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