体操教室のむつ子

はおらーん

体操教室のむつ子

放課後の体育館からは、子供たちの元気な掛け声が聞こえる。この小学校では地域の大学生や社会人が、ボランティアで小学生向けの体操教室を開いている。月謝は実費とトレーニングウェアしかかからないということもあり、たくさんの小学生が在籍していた。体育館の中では、低学年たちがマット運動、高学年の子たちは鉄棒や跳び箱などの練習をしていた。小学生向けの体操教室の中、低学年の中に一人だけ高身長の女の子がいた。一人だけ近隣の中学校の体操服を着ていた。


「次、むつ子ちゃんの番だよー」


むつ子と呼ばれた中学生は、ゆっくりとマットに向かい、懸命に前回りをした。お世辞にも上手とは言えず、フラフラとしながらもなんとかマットの端までたどり着いた。ショートカットの整った顔をしているが、周りの小学生と見比べてもあまり大人びて見える気はしない。どちらかというと幼いイメージの少女だった。


「またむつ子ちゃんの番だよー!はやくー!」


動きの遅い少女に小学生の言葉が刺さる。


「ちゃんとシャツ入れなよ~」


うしろからニヤニヤしながら男の子が声をかけた。何かを期待するかのような目でむつ子の前転を眺めた。むつ子の本当の名前は、陽菜と言った。なぜ一回りも二回りも下の子たちにむつ子ちゃんと呼ばれているのだろう。陽菜はコーチの教え通り、精いっぱいお腹に力を入れて首をすぼめた。勢いが足りなかったのか、最後まで回りきることなくころんと尻もちをついた。


(クスクス…)

(また見えてる…)


列の後ろから蔑むような笑い声が聞こえた。陽菜のジャージがお腹までめくれ、ウエスト部分からは下着がのぞいていた。ただのパンツであれば大した笑いにはならない。よく見てみると、下着は小さい子が履くパンツのゴムみたいにひだが付いている。さらには小さなビニールの欠片のようなものもついていた。陽菜が履いていたのは紙おむつだった。むつ子の「むつ」は紙おむつの「むつ」だったのだ。陽菜は特別恥ずかしがることもなく、淡々と服の乱れをなおして列に戻った。


10人ほどの低学年グループがざわついたので、コーチの先生が静かにするように促し、また練習が始まった。


列の後ろでは、3年生のいたずら小僧がそっと陽菜のお尻にタッチした。「むつ子はいつおむつとれるの~?」茶化したような言い方に、一瞬ビクッとした陽菜は、手で男の子の手を払いのけてそのまま無視した。





陽菜は、とても重い心臓病を抱えて生まれてきた。両親にとっては待望の女の子だったが、生まれてからほぼ病院で過ごすこととなった。2歳と7歳で大きな手術をし、なんとか命はつなぎとめることができた。調子がいい日は何度か学校に通ったこともあったが、保健室か支援学級がほとんどで、一緒に遊ぶような友達ができたことはない。病院内併設の教室で授業を受けていたので、勉強や知恵の遅れはないものの、集団生活をほぼせずにきたので、情緒面は年齢相当ではないらしい。


8歳ころまではほぼ寝たきりだったため、排泄はすべて紙おむつにまかせてきた。10歳になるころにはリハビリを行い、歩いたり走ったりできるようになったため、まずは大の方のトレーニングを行って1年ほどで自立することができた。しかし、13歳になった今も尿意の方は我慢ができず、昼夜問わず紙おむつのお世話になっている。


一度は中学に上がるときにおむつを外そうとした時期もあったのだが、病院で何度かトイレに間に合わずにおもらししてしまったことがあり、本人も強くおむつを履きたがった。それ以来、お母さんもおむつを外す方向ではなく、自分でおむつの世話をできるように教えてきたのだった。今ではきちんと自分でトイレに行っておむつを交換できるようになった。今の体操教室も、コーチに事前に話をして、鍵つきの控室でおむつ交換させてもらっている。


歩いたり走ったりの日常の動きに問題はないが、幼い時の運動経験がない陽菜は極端に体育が苦手だった。泳いだりボールを投げたりするのも苦手だ。そこで、なにかスポーツをさせようと思ったお母さんは、近所の習い事にいろいろ連れて行ったのだった。その中で陽菜が気に入ったのが体操だった。当初は小学生向けということで諦めようとおもっていたのだが、熱心にへばりついて見学している陽菜を見て、コーチが特別に許可してくれたのだった。その時におむつのことも伝え、できるだけ秘密を守れるようお願いもしていたのだった。



体操教室の前半が終わり、入り口で見守っていたお母さんのところに汗だくの陽菜がやってきた。


「お母さん、お茶ちょうだい」

「はいはい、ちょっと待ってね」


陽菜は喉を鳴らしながら麦茶を一気に飲み干した。低学年の子たちでも余裕でこなせるような運動も、陽菜にとっては大変な運動だ。よっぽど暑かったのか、体操服の上着も脱いでパタパタとあおぎ始めた。


「お母さん、気持ち悪いから替えてきてもいい?」


陽菜にとっての「かえる」とは、おむつを替えることだ。お母さんは黙って小さなポーチを差し出すと、陽菜に渡した。


「きちんとコーチに言ってから部屋使うのよ。カギも確認してね」

「はーい」


中学生の割に情緒が幼いため、素直なところはいいのだが、細かいことを気にしないのは心配だった。むつ子と呼ばれるのもそんなことが原因だった。




ある日の練習中、陽菜はわずかに尿意を感じたがコーチに言いだすことができずにおむつを汚してしまった。少量だとジャージの上からわからないため、こっそり列を離れた陽菜は、コーチに耳打ちをして控室へ向かった。同じように列を抜けてこっそり後をつけている男の子がいることに陽菜は気づかなかった。子供は隠そうとするほど見たがる生き物だ。


陽菜はカギをかけるのを忘れ、そのまま着替えを始めた。ハーフパンツのジャージを脱ぐと、サクランボとハートがちりばめられた紙おむつが露わになった。本当に少量だったのでおもらししたかどうかは傍目にはわからないが、陽菜は確実に濡れたおむつの気持ち悪さを感じていた。綺麗に丸めてナイロン袋に入れると、ポーチから新しい紙おむつを取り出した。陽菜にとっては毎日履いているパンツなので、特に恥ずかしいとかの気持ちはない。両足におむつを通して引き上げようとしたその時、ガチャっとドアが開く音がして男の子が叫んだ。


「あーー!!ヒナちゃんなにしてるの?おむつー?」


陽菜はびっくりしておむつを履きかけているポーズのまま固まってしまった。男の子が叫ぶのを聞いてコーチたちが何人か駆けつけてきた。コーチたちはみんな陽菜のおむつのことは承知しているので焦って飛んできた。しかし、そんな騒ぎを傍観できるほど小学生というのは賢くはない。数分もしないうちに陽菜の紙おむつはみんなの知るところとなってしまった。


その日の帰り、コーチはお母さんに頭を下げていた。


「大変申し訳ございません。私がついていながら、陽菜さんには恥ずかしい思いをさせていまって…」

「いえいえ、先生方の責任ではないですよ。あの子がカギを忘れたことが原因ですし」


これを機に体操教室をやめることも考えたが、とりあえず本人の希望を聞こうと思った。お母さん自身は続けてほしいのが本心だった。これから先おむつのことも、他の体のこともすべて隠して生きてはいけない。どうやって人間関係を作るかも勉強の一つだと思っていた。だから、お母さんは、自分の娘が「むつ子」と呼ばれてお尻をタッチしても、その子に直接注意することはなかった。


「辞めたいときは自分で言いなさい。おむつのことも、バカにされたくないなら自分の言葉であの子たちに説明しなさい」


とだけ伝えてあった。無言で手を払いのけたのも「むつ子」なりの精いっぱいの抵抗だったのかもしれない。

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