残熱

 翌日の天気は、昨日とは打って変わって晴れた。二月上旬にしては気温も高い。異常気象というやつか。


 昼になって外を歩けば、あちらこちらにある半端に溶けた雪が踏むたびにビシャッと跳ねる。歩きにくい。耳を澄ませば、溶けた雪が流れる音がする。

 横断歩道を渡り終えて、見えてきた駅に目をやる。休日だからか人通りが多い。

 俺は持ってるスーツケースで雪を跳ねながら、前をすたすた歩いている親父をにらんだ。


「言いたいことがあるのなら言え」


 視線を感じたのか、速度を緩めると親父は言った。開いたコートの裾が歩くたびに翻る。


「ここ気に入ってたんだろ? あんたまで、ここを離れなくてもいいんじゃないのか」

「確かに都会は好かないが、ここにはもう居られない。居にくいだろうからな、お前のせいで」

「そりゃ悪かった」


 俺はどうにか言葉を返す。


「彼女が俺のことを急に嫌いになるんだ、周りの人は不思議に思うだろう。あんたの判断は正しいよ」


 視界を通り過ぎていく街も雪も、日に照らされて輝いて見える。

 日本海側には珍しく、湿気もあまり感じないような気持ちのいい晴れ方をしている。俺の気持ちはちっとも晴れやしないが。


「安心しろ。お前の行動に問題がないようなら、俺は俺で住処を見つける。少しの間我慢することだ」

「あんたってさ、本当にムカつく。母さんもよく結婚したもんだ。生きてたら聞いてみてぇよ、あんたのどこが良かったのか」

「ふ、そうか」


 何を言っても、表情が変わることがない親父を眺める。

 見た目は四十代だが、実年齢は九十を超えているはずだ。俺もいずれこんな鬼になるんだろうか。

 話してるうちに駅の前までたどり着いた。

 そのまま駅の中に入ろうとして、親父が足を止めた。親父の足をスーツケースでひきそうになって、思わず止めて、それからひけば良かったと後悔する。

 親父は通行の邪魔にならないように横にずれると、俺の後ろに視線を向けた。


「ふむ……」


 その口から、何かを考え込むような吐息が漏れる。


「どうしたんだよ、ボケたか? ジジイ」

「秋人。お前、本当に思考を操ったのだろうな」

「あ?」


 俺は声を荒げそうになったが、周りの人を思い出して踏みとどまる。親父は俺の様子を眺めてから、再び俺の背後に視線を投げる。

 後ろに何があるのか気になり、振り返ろうとしたが「行くぞ」という親父の声で止められた。気づけば、親父は再び歩き出している。

 俺は短く返事すると、その背を追って駅の中に入った。

 取り出した携帯で時間を確認しながら歩いていると、親父がまた立ち止まり、振り返った。 

 今度は俺も後ろを見てみたが、親父の見ている方向には、入口横で集まっている家族連れしかいない。彼らを見ているのか、それとも親父の位置からは何かが見えるのか。

 俺と親父の間には、人二人分ほどの間隔がある。俺からは家族連れに遮られてよく見えないが、駅の外に何かあるのかもしれない。

 親父が気になるものに興味はない。親父をそのままにして、駅の奥に向かうことにした。

 もしかしたら、この地に留まる気になったのかもしれない。それならそれでいい、じゃあな親父。

 俺が二メートルほど歩いたところで、


「秋人」


 不意に親父が俺を呼んだ。相変わらず無駄に通る声をしている。


「んだよ?」

「見えなくなったら、泣き出した」

「いや、何の話だよ」


 親父は俺の声を無視すると、足速に歩いてきて俺の横で止まった。


「雪は溶けても水が残る。想いというものも何かを残すのかもな」

「はっ?」


 何を言いたいのか全くわからない。


「出発は遅らせない。今この一時ひとときだけ許してやる、これで本当に最後だ」

「いや、だから何の話」

「そこにいろ、直に分かる」


 一方的に言うと、親父は歩き始めた。俺も追いかけるべきだったのだが動けなかった。珍しいことに、親父がほんの少しだけ笑っていたからだ。

 何だ、ここにいたら何が起こるんだ。

 遠ざかっていく親父の背を眺めてから、先ほどまであの人が見ていた方向に目をやる。そして、に気づいて、


「何で……?」


 そんな言葉がひとりでについて出た。

 いつの間にか親子連れがいなくなっていて、それまで見えなかった駅の外の一部分が、ガラス越しに見えるようになっている。

 夢かと思った。気づけば、ふらりと駅の外に向かっていた。


 日光が差し込む駅の前に立ちながら、はハンカチで目元を抑えていた。

 近づいてきた俺を見て、彼女は「あっ」と小さく声を上げた。その手からハンカチが、ほろりと落ちる。

 俺がハンカチを拾おうとすると、


「汚い手で触らないで、秋人」


 心底嫌そうな顔で、は言った。

 そんな言い方を、美冬は今まで俺にしたことがない。ということは、この美冬は俺のことが大嫌いになっている、それは間違いない。

 それなら何故ここにいるんだ? 二度と俺に会いたくないほど、俺のことが嫌いなのに。

 首を傾げる俺の前で、美冬はハンカチを素早く拾うとカバンにしまった。俺をにらんでくる。


「秋人のせいかな。変なの、今日の私」

「変って……?」

「ここに今日、来なきゃいけない気がして。変だなと思いながら、駅まで来たら秋人を見た。大っ嫌いなあなたの顔なんて見たくもないから、あなたが見えなくなるまでここで待ってたの。そしたら、なぜか涙が出てきて」


 美冬は不快そうに顔をしかめる。


「何で泣いたのか意味わかんない。私、昨日あなたに会ったよね? 気づいたらあなたはいなくなってたけど私に何かした? 前にもあなたに会った時の記憶が曖昧なことがあったし、正直に言って気持ち悪い」

「……」

「だって、ここで泣いた時、って思ったんだよ。本当に気持ち悪い」


 俺は何も言えなかった。

 どうやら『絶対に、行く』という約束を、美冬は確かに守ったらしい。

 想いも何かを残すのかもしれない、親父がさっき言った言葉の意味がようやくわかる。彼女の想いが残したもの。それがきっと、彼女をここに連れてきて、涙を流させたんだろう。

 ありがとう美冬。俺よかったよ、お前のことを好きになれて。本当にありがとう。

 俺は泣きそうになるのをこらえると、何か言わなければと考えた。結局また、彼女を泣かせてしまったのだから。


「悪い、俺もよく覚えてない」

「ふざけないで――」

「でも安心してくれ。俺はもう二度と、お前の前に姿を現さないから」


 俺の言葉に彼女は目を瞬いて、それから嬉しそうに目を細めて笑みを浮かべた。

 俺がこうなるように彼女の思考を操ったとはいえ、俺がいなくなることを喜ばれると心が痛い。

 ただ一方で、彼女の笑顔が見れたことを嬉しく思う。何せ美冬の笑顔なんて、久しぶりに見たから。

 やっと気づいた。本当は、こんな風に笑いながらちゃんと別れを告げたかったんだと。その機会をくれた彼女の残した想いに、心から感謝する。これで悔いなく行ける。


「じゃあ、さようなら秋人。さっさと行って」


 雪を溶かす太陽の光が照らす中で、花開いた彼女の笑顔。それは、最後に見る彼女の顔にふさわしいと思う。

 俺も笑うと、彼女の言葉にしっかりとうなずいた。別れの言葉をしっかりと伝える。


「ああ、さようなら。元気でな」


 そのまま美冬に背を向けて、ゆっくりと歩き出す。もう後は振り返らない。

 この先どれだけ長い時を生きたとしても、絶対に俺は忘れない。彼女が見せたあの笑顔を。それが、彼女の残した想いへのお礼として、できることだろうから。


 それが本当に、彼女と会った最後の記憶だ。







―終―



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雪を溶く熱―鬼は泣き、笑う― 泡沫 希生 @uta-hope

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