惜別
見えてきた路地に入ると、遊具もほとんどなく寂れた小さな公園が見える。横には古びた空き家があり、それもあってか公園の利用者はほとんどいない。
けれどその公園は、ちょうど彼女と俺の家の中間地点だったから、そこで別れるのが習慣だった。あの日もそうで、そこを鬼に襲われたわけだ。
彼女の家に向かうには、この公園の前を通らないといけない。嫌だが仕方ない。通り過ぎようとして俺は足を止めた。
誰か、いる。
桃色のコートが真白な雪によく映えている。後ろ姿だが間違いない、美冬だ。
彼女はこちらに背を向けて、公園の奥にある木をじっと見つめている。何故ここにいるのか。
俺は息を吸うと公園に足を踏み入れた。彼女がつけた足跡を避けるように、一歩一歩を踏みしめる。
グギュッと雪を踏む音に、彼女は振り返った。
美冬の両目が俺を捉えて見開かれた。彼女の柔らかい唇が震え、白い息が漏れる。暗闇の中でも、俺にはその動きがはっきりと見えた。
「秋人……?」
嬉しそうな悲しそうな、複雑な顔をしながら絞り出すように美冬は言った。
「ああ。久しぶり美冬」
感情を込めないように答えると、美冬は視線を落とした。胸元で手を握りしめる。
「……馬鹿馬鹿しいけどね、会える気がしたの。今日ここに来たら。そしたら本当に会えた」
彼女の目から涙が一つ、こぼれ落ちる。駆けよりたい衝動を抑えながら彼女に一歩近づく。
美冬は手を握りしめたまま、大きく息を吸うと、
「ずっと、ずっと聞きたかった。どうして一年前の今日から、私を避けるようになったのか、私を無視するようになったのか。メッセージを送っても反応してくれなくて、大学も違うところに行っちゃって……ねぇどうしてかな?」
思いをぶつけるように、一気に言葉を並べた。
「私、やっぱり何かしたのかな? 一年前のこと、どれだけ考えても思い出せなくて。私は秋人に何をしたの、お願い教えて。でないと、謝ることもできないからっ」
「謝らなくていい」
俺が告げると美冬は動きを止めた。
「美冬は何も悪くない。悪いのは、俺だ」
「嘘だ。だってそうなら! 何も言わないで、違う大学に行ったりしないよ……」
はらりと、美冬の目から涙がまた落ちる。ああ、俺は最低だ。こんなに彼女を泣かせてしまうなんて。
「いや、悪いのは俺なんだ。俺が悪いからこそ、美冬とは一緒にいられないんだ」
「どういうこと? わけわかんないよ」
俺はまた一歩、美冬に近づいた。
「ごめん美冬。辛かったよな、ずっと泣いてたんだよな。街で偶然会った、お前の友達に言われたよ。『美冬をあんなに泣かせて、人でなし』って。な、やっぱり俺が悪いんだよ」
でも、そのおかげで俺は気づけた。美冬にどれだけ酷いことをしたのか、自分がどれだけ甘かったのか。
「ううん、違う。秋人は酷い人じゃない、こんなことをした理由がちゃんとあるんでしょ?」
美冬は手袋をはめた指で涙をぬぐった。
「私ね、大学生になってから一度だけ秋人の家に行ったの」
「えっ」
「休みの日だったけど、秋人はいなくて、代わりに秋人のお父さんが出てきた」
俺は一つもそんな話を聞いていない。思わず軽く舌打ちをする。
「『秋人くんいますか』って聞いたら、『秋人には二度と会いに来るな、あいつがそれを願ってる』って言われたから……嘘なんでしょ? 本当は私が悪いんだよね?」
「いや、それは違う。親父の言ったことは忘れてくれ。本当にお前は悪くないんだ」
「でもっ」
限界だ、これ以上泣いてる美冬を見てられない。
俺は美冬に向かって大きく二歩を踏み出すと、彼女を抱きしめた。腕の中で、彼女が身を固くするのがわかる。それからゆっくりと、緊張がほぐれていくのも。
「悪くない、美冬は何も悪くない。信じてくれ」
声がかすれそうになりながら、言葉を続ける。
「今だってお前のことは好きだよ。好きだからこそ、お前から離れたんだ。そうしないといけないんだ」
「だからぁ、意味わかんないよ」
泣きながら、美冬は俺の肩に頭を押しつけてくる。その頭をそっと撫でる。
「わかんなくていい、それでいいから。ありがとう。俺のためにそんなに泣いてくれて。俺幸せだ」
彼女を抱きしめる感覚を忘れないように、しっかりと体に刻み込む。
「本当にありがとう。そして本当にごめん。会うのはこれで最後だ」
「何で?」
「ここから引っ越す。ここにはもう戻ってこない」
「そんなっ」
美冬は勢いよく体を起こそうとしたが、強く抱きしめてそれを止める。
「いつ行くの? せめて見送るくらいは」
俺は思わず笑ってしまった。この期に及んでそんなことを言うなんて、本当に優しいやつだ。俺にはもったいない。
「明日の十四時十一分、駅から新幹線」
「絶対に行く、約束する」
「そっか、ありがとう。でもな美冬」
その約束は果たされない。
「これでお別れだ」
覚悟を決めて彼女の顔を起こすと、優しく彼女にキスをした。そのまま彼女の生気を吸い取る。
相当な量の生気を取られた美冬は、揺らめいたかと思うと崩れ落ちた。それをどうにか受け止める。
生気を吸うのは触れるだけでもできるが、意識を薄れさせるほどの量を一気に取るには、この方法が一番早い。やってることが本当に最低だ。
沈んでいる気持ちとは逆に、体には活力が満ちてきているのを感じる。
こういう時、やっぱり俺は人の生気を糧にして生きてるんだと感じる。人の血を糧にして生きる吸血鬼と同じように、俺は人の生気がないと生きられない
「うー……ん」
意識が混濁している美冬に触れたまま、彼女の耳に口を近づける。鬼の力は記憶を操作することだけじゃない。こんなことだってできる。
「美冬。お前は俺が嫌いだ」
「きら、い……?」
「田中美冬は、篠川秋人が大嫌いだ。二度と会いたくないほどに」
嫌われるのが怖くて前はできなかったけれど、これが一番いい。彼女はこれでもう泣かなくてすむ。
焦点が定まらない美冬の目を、じっと見つめる。彼女の思考を操っていく。
「きらい……あなたが嫌い」
「そうだ、お前は俺が大嫌いなんだ。二度と会いたくないほどに」
「大、嫌い、会いたく、ない」
雪がゆっくりと降りかかる中で、最後に美冬はそうつぶやくと意識を失った。
俺のことが好きな彼女とは、これで本当にお別れだ。
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