追想

 踏み出すたびにザクザクと音がする。積もったばかりの雪を歩くのは、気分がいい。

 水分を含んだ重い雪が、自分の体重で沈むのを感じながら歩き続ける。先ほどまで地面に叩きつけるように強く降っていた雪は、疲れてきたのかすっかり弱くなっている。フードをかぶる必要もない。手袋も置いてきた。

 夜の中で、鬱陶うっとうしいくらいにゆっくりと降る雪の一つ一つに、街灯が光を当てている。

 きらりと光る大きめの雪は、何度も落ちてきては積もった雪の一部となる。それを俺が踏んで汚すわけで、真白な雪なんてすぐになくなってしまう。

 人があまり歩かない道から外れた所の雪も、車が飛ばした泥水で汚れている。

 そんな雪を見ると、美冬はよく眉をひそめた。


 彼女の名前は、彼女が生まれた日、病室の窓から大雪で真白になった街が朝日に照らされて、とてもきれいに見えたのが由来らしく、美冬はそのせいか誰よりも真白な雪が好きだった。

 俺が「俺なんて、秋に生まれたからそのまま秋人なんだぞ。美冬はいいな、ちゃんと理由があって」と冗談めかして言うと、「秋人だっていい名前じゃん。私はその名前好きだよ」とよく言ってくれた。


 そんな他愛もない会話を思い出して、思わず歯を噛みしめる。

 一年ほど前から美冬に会っていない。会えるわけがなかった。 悪いのは、俺だ。


 人と親しくなりすぎるな。親父からは、そう強く言い聞かされてきた。だから幼い時の俺は言いつけに従い、周りから距離を置いていた。

 なのに、だ。

 小学校に入って少したっても、友達を作ろうとしない俺に、美冬はある日近づいてくると、


「いっしょに遊ぼうよ」


 そう笑いかけてきた。「一人がいいの」と拒む俺の手を彼女は引いた。そして言った。


「うそだ。だってあきひとくん、いつもかなしそう」


 今思うと、誰とも親しくなりすぎてはいけない。そのことが、幼い俺は寂しくてたまらなくて嫌だったんだ。美冬の言葉は的確だ。

 俺は思った。俺は確かに。傷も大体はすぐに塞がるし、運動も普通の人よりずっと上手くできる。

 でもそれだけじゃないか。見た目は変わらない。友達になっても良いはずだ、と。

 話していくうちに、美冬と俺の家はそんなに離れていないことがわかって、いつからか一緒に帰るようになった。彼女のおかげで友達も増えていった。

 小学校を卒業した後、中学も彼女と一緒で、彼女の家に招かれたこともある。高校も彼女と話し合って同じ学校を受験した。

 冗談を言い合いながら一緒に学校から帰る。それは何歳いくつになっても変わらなかった。

 彼女は俺にとって大切な人だ。優しくて、ちょっと抜けてるところがあって、そんな彼女に俺はいつの間にか恋をした。

 だからこそ目を背けていた。いずれは別れないといけないという現実から。


 一年前、美冬の誕生日。その日の午後だけは大学の受験勉強を休んで、遊びに行こうと約束していた。

 入ったカフェで、美冬は苦手なくせに背伸びをしてコーヒーを頼み、結局、舌を火傷したと言い訳をして俺に押しつけてきた。

 仕方なく、誕生日プレゼントとしてケーキを奢ってやると、嬉しそうに彼女がケーキをほおばっていたのを今でも思い出せる。

 そんな風にカフェで雑談してから家に帰ることにして、その途中で――は起こったんだ。


 上手くやってるつもりだった。異常な運動神経や治癒能力がバレないように、常に気をつけていた。

 親父には、美冬のことがバレないようにごまかしていた。彼女と遊ぶときは、塾で遅くなるとか部活で遅くなるとか、色んな言い訳を使って。

 美冬には、俺の親父は厳しいから会わない方がいい、そう言っていた。

 そうして上手く生きてるつもりだったが、今思えば親父にはバレていたんだろう。

 あの日、親父は一つも怒らなかった。美冬をどうするべきなのか教えた上で、俺が殺してしまった鬼の処理を何も言うことなくやってくれた。





「さて、秋人」


 あの日、親父は作業をしながら低い声音で言った。前を開けたままの、親父の黒いコートの裾が風で揺れている。


「あの鬼ははぐれ鬼だ。血に飢えていたのだろう。たちの世界では、お前のしたことは罪にならない。はぐれ鬼は、俺たちの規範から外れた罪人だからな。人間もはぐれ鬼が死んだことなど気づかないだろう」


 親父はザシュッザシュという音をたてながら、血で汚れた雪を、持ってきた容器にスコップで入れていく。


「だから、そこは何ら問題ない。あるとすれば」


 親父は何も言わずに、美冬に顔を向けた。眼前にたれてきた黒髪を静かにかきあげる。その顔からは、何の感情も読み取れない。


「……俺たちは、現代いまでは人に溶け込み人とともに暮らしているが、人と鬼では決定的に違うことがある」


 わかってる、わかってるから言うな。


「俺たちと人は流れる時間が違う。お前とそのの時は、お前が成人してから先、二度と重なることがない。いずれはこうなるはずだった、分かっていたはずだ」


 いつもは乾いて見える、赤みを帯びた親父の目がその時だけは鋭く光って見えた。その目から思わず視線をそらす。


「お前が招いたことだ、後は自分でしろ」


 容器に蓋をしてスコップを担ぐと、親父は去っていった。

 あの人の言ったことは、一つも間違っていない。

 鬼は二十歳を超えてからは二年に一度、年をとるようになり、見た目の老化さえも人でいうところの四十歳で止まる。

 美冬の二年は俺の一年、彼女の十年は俺の五年、彼女の二十年は俺の十年。差は開いていくばかりで二度と重ならない。そして俺の見た目は、いずれ年さえもとらなくなる。

 あの鬼が俺たちを襲ってきたのも偶然じゃない。血に飢えた吸血鬼は、血に飢えているが故に、力の弱い若鬼を狙うことがある。

 鬼の血の方が、人の血よりもずっと強い糧になるからだ。その場合、吸血鬼は狙った鬼を殺す。なぜなら、治癒できない死ぬほどの傷を鬼に与える必要があるからだ。

 あの鬼を殺さなければ、きっと俺が死んでいた。それでも、俺が人の形をした者を殺したことには変わりがないわけで。

 どっちにしろ、そんな俺はもう美冬のそばにはいられない。俺は汚れてしまった。俺と一緒にいたせいで、美冬に怖い思いもさせてしまった。

 いつかは別れなければいけない。それから逃げ続けたツケが回ってきたらしい。


 俺は手袋を外すと、美冬の額に手を置いた。意識を集中させて鬼の力を使う。美冬から、その日見た記憶を消すために。

 はぐれ鬼に襲われ、俺が咄嗟とっさに落ちていた木の枝を投げつけたこと。

 はぐれ鬼のナイフで俺が怪我をした一方で、はぐれ鬼の顔も投げた木の枝で傷ついたこと。

 そして、俺とはぐれ鬼の傷が同じように一瞬で治ったこと。

 そんな嫌な記憶を、美冬はこれで忘れた。


「さようなら美冬」


 そうやって鬼の力を使うことを繰り返せば、もう少し美冬と一緒にいることもできるかもしれない。でも、そんなのは俺のわがままだ。俺の自己満足でしかない、彼女を縛るわけにはいかない。

 彼女にとって、俺は化け物でしかないんだ。俺の傷が治るのを見て、恐怖に歪んだ彼女の目を思い出す。うん、彼女と一緒にはもういられない。

 俺はためらいつつも、彼女が目覚める前にそこから去った。それが彼女の顔をしっかりと見た最後。



 次の日から、俺は美冬を無視した。何を言われても答えなかった。


「私、秋人を怒らせるようなことしたかな? よく覚えてなくて、昨日の夜のこと」


 美冬は泣きながら俺の手を握り、俺は黙ってそれを振り払った。


「何かしたのなら謝るから。だから話そうよ。秋人……!」


 心が、ひたすらに痛かったことだけを覚えてる。

 大学も、二人で同じ所に行くと話し合っていて受かっていたのに、俺は違う大学に進学した。

 全く会わなくなる方が彼女のためだ。もう巻き込みたくない、だからもう会わない。

 そう、誓ったんだけどな。

 今、もう一度だけ、俺はお前に会いに行く。今度こそ本当の別れを告げるために。これ以上、お前を悲しませないために。

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