真夜中は純潔
三村小稲
第1話真夜中は純潔
1.
藤沢トモヤが女と寝るのは人恋しいからではなく、若さにまかせた性欲のせいでもなく、ただ単純に夜が長いからというだけにすぎなかった。そして、彼が夜を過ごす為に毎回女を変えるのは彼のもともとの性分で、言うなれば子供が次から次へと新しい玩具を欲しがるような、またはマスコミが煽るほど加熱する女の購買意欲のようなもので悪意などあろうはずもなかった。
若いということはしばしば愚かであることと同義であるが、藤沢トモヤはその点いくぶん聡明で、自分の若さも馬鹿さも自覚していた。が、彼の言動と風貌からその聡明さを推し量ることは難しく、ようするに周囲の人間にしてみれば藤沢トモヤも単なる街の有象無象の若者に過ぎなかったので、誰も彼の本当の姿を知ることはなかった。特に女たちにとって藤沢トモヤは長身で切れ長の目とすんなりした鼻筋の整った顔の持ち主で、口を開けば冗談ばかり言っているような気楽な存在にすぎなかった。
藤沢トモヤは自分の容姿が女たちに与える印象も、それがおよぼす効果も知っていたのでいつもその力を最大限生かして女を捕獲し、密室に連れ込んでは痴態の限りを尽くしていた。
昼は大学の学食で、夜はバイト先の居酒屋で、週末になれば人いきれのするクラブで煙草とアルコールにまみれて女を捕まえるのは彼にとって三度の食事のようなものだった。だから、そういう自分についてくる女も結局は自分と同類なのだと思っていた。
彼にとって女と寝るというのは「適度な運動による疲労感は、心地よい眠りをもたらす」健康法みたいなものだった。
藤沢トモヤは自分の心も体も捧げるべき特定の相手を持たないことで、のべつまくなし女を食い漁る理由をまるごと若さのせいにすることができたけれど、そんな開き直りが常にまかり通るわけでもないので、時々は世にいう修羅場を演じることがあった。
しかし、彼の軽佻浮薄な徹底した不実さは最初は相手を怒らせるものの、悪意のない、貞操観念の希薄さは次第に相手を呆れさせ、最終的には女達から「放免」された。
まれに想像力豊かな女が藤沢トモヤには過去の恋愛による精神的外傷があるのではないかとか、幼児体験がもとになった女性不審と女性への復讐にも似た屈折した思慕があるのではないかとずいぶん勘ぐっては彼を更正させようとしたけれど、そんなごたいそうな理由は微塵もなく、結局はしょうもない事実を確認するだけだった。
彼も人の子で木の股から生まれたわけではないからそういったやりとりが有難くないこともなかったのだけれど、痛くもない腹を探られるのは困惑するだけで到底ご期待に沿うことはできないと思った。
彼が女の期待に沿えるのは、皮肉なことにベッドの中でだけだった。そういったわけで、藤沢トモヤはどこにでもいる見境のないヤリチンとして元気に暮していた。
ある週末のことだった。藤沢トモヤは大学の連中に借り出されて合コンに参加していた。
仲間達にとって藤沢トモヤは都合のいい広告塔だった。彼の無造作に伸びた髪や武骨な指先、長い脚は外灯に蛾を集めるようなもので女を集めるのに役立った。
藤沢トモヤは基本的に悪い男ではなかった。少なくとも彼は自分が寝る女に対して敬意をはらっていたし、故意に相手を傷つけようとはかけらも思っていなかった。大概の物理的な要望に応え失望させなかったし、射精してしまえば知らぬ顔などという無礼も働かなかった。見送る時まで彼は誠意をこめて見送った。……誠意という言葉と彼の行動そのものの矛盾についてはさておき……彼のそういう性質が女達から愛される理由とも言えた。
彼は呼ばれればどこへでも行った。時間が許す限り、どんな場にも出向いてはしょうもない馬鹿騒ぎに参加した。というのも、彼は長い夜をやり過ごすことができるならば、それがなんであれ、どうでもよかった。
藤沢トモヤは夜が苦手だとか、怖いとか、寂しいなどとは思っていなかった。彼にはそういう高尚なセンチメンタリズムも孤独も在り得ない。彼にとっては昼間だって同じことなのだが、昼間はとりあえず講義だのバイトだの、カラオケだのビリヤードだのとやるべきことがあったから時間は放っておいても流れてくれる。が、夜ともなるとそうはいかない。
夜。ある一定の時刻から明け方空気が青く染まるまで、時間はゴムのようにびろびろと伸びたり縮んだりする。それは掴み所がなく、身の置き所もない。ただ宇宙の只中に放り出されるような気持ちになる。膨張し続ける宇宙に。終わりのない世界へ。
そのことを体で感じた藤沢トモヤは、もうどうやって夜を過ごしたらいいのか分からなくなった。夜は飲んだり食ったり、眠ったりする為だけにあるのではないと「知って」しまったのだ。奇しくもそれは彼が童貞を捨てた頃と一致するのだが本人はそのことを忘れていて、ただひたすら夜と夜を旅していて、一体この旅はどこへ辿り着くのか見当もつかずにいた。
そういったわけで、彼はそろそろ夏休みに入ろうかという蒸し暑い夜に私鉄沿線の女子大の学生数人を集めての合コンでビールを飲んで、どうにか長い夜を過ごそうとしていた。
目の前の女達は垢抜けていて可愛かったが、みんな同じ化粧に同じような喋りで、トランプを切るようにシャッフルしたらもう誰が誰だか分かるまいと思った。
だからこういった場合に藤沢トモヤに選び出す女は、中でも一番「股がゆるい」女か、もしくは中でも最も不細工な女と決めていた。そうすれば仲間の誰にも迷惑をかけないというのが理由だった。
女の容姿は藤沢トモヤにとってさして重要ではなく、彼は本当の美醜というものが上っ面にないのを知っていた。……と言えばまるで彼が人格者のようにも聞こえるが、彼にとっては「電気消せば分からん」だけのことで、「穴はみんな同じ」だけのことだった。
とにもかくにも藤沢トモヤはその夜の合コンで、女達の中から一番化粧の濃い、気合の入った睫毛の女を引き受けた。
巻き髪と短いスカートと、ブランドネームの入ったバッグと、メンソールの煙草と極端にボキャブラリーの貧困な女だった。
藤沢トモヤは女と並んで歩きながら、不思議な気持ちになった。世の中では「個性」が珍重されているのに、どうしてこうも画一的な、簡単に一括りにされてしまうような女がいるんだろうか、と。こういう女に限って自分の個性を声高に叫ぶのに、人と一緒でないと不安になるんだよな。なのに、自分では気付かない。自分の存在がクローンのようにそこかしこに溢れているということに。いや、本人がそれで良ければいいのだけれど。でも、こっちにしてみれば、やりにくいったらありゃしねえ。人ごみに紛れ込んだら二度と探せない。
そう思った藤沢トモヤは半ば無意識に女の手をとった。その動きは女に誤解を生じさせる優しさと強さを兼ね備えていた。それはある種の女には警戒心を抱かせ、ある種の女には暗黙の了解となるもので、この場合は後者だった。
すでに仲間たちと別れ、二人になった藤沢トモヤはなだらかな坂道をのぼってホテルに入った。
慣れた動作でタッチパネルの中から空いている部屋のナンバーを押し、フロントで鍵を貰う。館内にはしらじらしくクラシックが流れていた。
薄暗い廊下を歩き部屋に入る。ラブホテルも様々で、内装の凝ったものからちょっとばかり小奇麗なもの、どうしようもない場末感を漂わせたもの、薄汚いもの色々あるが、すべてにおいて共通しているのは、どんなに様子が違ってもどの部屋にも生き物の気配がないということだった。
一つ一つの部屋は世界から、宇宙から切り離された独立した存在でそこには消費があるのみ。なにも生み出さない。例えそこで行われるセックスが「ナマ」で「中出し」で、強靭な精子が卵子と結びついて新たな命を孕んだとしても。
この場所は有象無象によって輪姦されたようなものだと藤沢トモヤは思った。ただ一瞬の快楽だけを享受する為の部屋。だから、無味乾燥としている。そこを使う自分も、また。
藤沢トモヤは女を引き寄せ、髪に鼻先を埋める。やれやれ、どうにか今夜も夜を過ごすことができる。そんな安堵のため息が漏れた。
「シャワー浴びてもいい?」
「ああ、先にどうぞ」
藤沢トモヤは女の申し出にこたえて、ベッドに腰をおろすと煙草に火をつけた。時刻は深夜0時をまわっていた。
くだくだしく説明するまでもないが、藤沢トモヤはシャワーを浴びて、礼儀正しく女を抱いた。彼はシンプルな男で冷静なセックスをする。キスから始まって淡々と手順をなぞっていく。……セックスってなんだか車検みたいだ……そんな事も考えつつ、女の脚を開いたり、持ち上げたりする。尻を抱え込んではその奥底を丹念に調べ上げもする。そして、頃合を見計らってスローイン・ファーストアウト。薄いゴム製品の先っちょにカルピスの原液みたいな白濁したものが溜まるまでの所用時間はざっと15分。事の始まりから計れば小一時間。藤沢トモヤが軽い疲労を感じるのに充分な時間と集中力だった。
それからしばしの抱擁といくつかの会話の後、女が寝入ってしまうと藤沢トモヤは大きくため息をついた。
体を起こすとヘッドボードにもたれ、ぼんやりと部屋の隅を見つめていた。光りを絞ったスタンドライトの明かりが壁際を照らしている。かたわらにいる化粧を落とした女の顔はずいぶんくたびれて見えた。
この女は自分を知らない。藤沢トモヤは思った。洒落てるつもりが自分をどうしようもないビッチに見せていることを知らない。自分の若さを過信していて、そこになにかとてつもない価値を見出している。でも、抱けば分かる。どんなに気取ってもお前のあそこが使い減らされてがばがばで、エロビデオの妙な演出よりも萎えるリアクションしかできないということが。そして、それはそのまま、ベッドを離れても同じことで、くそ面白くもないし、顔だってスタイルだって十人並みかそれ以下だ。そのくせ自分をひどくご大層に思っている。まあ、本人がそれを知らないのはある意味幸福だけどな。藤沢トモヤは煙草を灰皿に置いて、まるで傷ついた少年のように片膝を抱えた。
その時、藤沢トモヤは壁際の白熱灯の色をした黄色い光りの中に人影を見出した。
ぎょっとして、それからまじまじと光りの輪に目を凝らした。見える。冗談じゃない。夢じゃない。冷たい汗が腋の下にじわりと滲むのを感じた。
これが幻覚や夢オチじゃなければ、確かにそこには着物を着た女が立っているのが見えた。
藤沢トモヤは恐ろしさと好奇の只中で揺れ動き、視線を逸らすことができなかった。心臓が爆発寸前の早鐘を打っており、ここで死んだら間抜けだとも思った。よりによってラブホで。
見つめるほどに淡かった女の影は濃くなり、次第にはっきりとその姿を浮かび上がらせた。今や着物の柄まで見て取れる。髪は大正時代あたりの女学生のような肩に垂らすスタイルで、頭のてっぺんにはリボン。着物は赤く、桜吹雪が散ったような柄が艶やかだった。
足は、ある。藤沢トモヤはこの夢とも現ともつかない状況を疑い始めていた。こんなにもくっきり見えるのだ。なにかの手違いじゃあないのか。鍵をかけたつもりがかかっていなかったのか。そうだ、そうに決まっている。まったく馬鹿馬鹿しい、冗談じゃない。そんなことがあってたまるか。幽霊だなんて。ははははは。
「おい」
藤沢トモヤは横で何も気付かず寝ている女を憚って、小声で呼びかけた。
「部屋間違ってるだろ、早く出て行けよ」
犬を追い払うように手を振ると、驚いたように女が顔をあげた。
藤沢トモヤは唇の前に人差し指を立ててみせ、「しーっ……」と女を制した。
「カノジョが起きたらややこしいから、早く」
しかし女は出て行こうとはせず、大きな目を見開いてじっと藤沢トモヤを見つめているだけだった。その顔は薄暗がりの中にあって尚、人形のように整って美しく、瞳の黒々とした澄んだ輝きも長い睫毛も隠すことはできなかった。色が白く、唇は口紅でもつけているのかぽってりと紅い。
一向に動こうとしない女に、藤沢トモヤは怪訝な顔で今一度尋ねた。
「……なんかトラブル?」
すると女はようやく、初めて口を開いた。
「あなた、私が見えるの?」
「……え?」
心臓が凍りつくとはこのことだろうか。藤沢トモヤは自分の体が反射的に固く強張るのを感じた。と、同時に隣りで寝ていた女が寝返りをうったのでますます額に汗が滲み、早口で、なおかつ小声で女をまくしたてた。
「いいから、早く出て行けってば」
「……大丈夫よ。その人には見えないから」
「……なんの冗談?」
「あなたが冗談だと思いたい気持ちはよく分かるわ。でも冗談でも夢でもないの。ごめんなさい」
やばい。藤沢トモヤは思った。色んな意味でやばい、と。隣りの女が目を覚ましてもやばいし、このコスプレ女そのものがやばい。頭がおかしいんだろうか、それとも何かの芝居なんだろうか。とりあえずここは黙っておいた方が無難かもしれない。藤沢トモヤは灰皿に乗せていた煙草を取り上げると、押しつぶすように火を消した。
「……どうしたの」
傍らで不意に寝ぼけた女の声があがった。
「なんでもない」
藤沢トモヤはいくぶん乱暴に女を引き寄せた。女は低く笑った。が、するりと藤沢トモヤの手をすり抜けると、突然むくりと起き上がった。藤沢トモヤは慌てて女を押し倒そうとした。
絶対絶命だ。そんな気持ちで呼吸が苦しくなるほどだった。
女はそんな藤沢トモヤの気持ちなど知る由もなく、くすくすと楽しげな笑いを漏らし藤沢トモヤの手をはずした。そしてベッドから下りると「トイレ」と一言言って、素っ裸のままぺたぺたと部屋を横切った。
「ね、言ったでしょう?」
着物の女が部屋の隅で言うのが聞こえた。藤沢トモヤは再び体を起こすと、小声で尋ねた。
「お前、いったい……」
女は微かに、本当にあるかなきかの微笑を唇に漂わせると、答えて言った。
「私、死んでるの」
裸の女がトイレから出てきてまたベッドへ潜り込んだ時にはもう藤沢トモヤはその女を必要とはしておらず、引き寄せることもなければ口をきくこともなく、きつく目を閉じて体を丸めていた。そうでもしなければ、とても夜を過ごすことはできないと思った。
藤沢トモヤは即物的な人間なので、これまで幽霊だとか超常現象だとかの類いは信じていなかった。彼にとって見えざるものは存在しないということなのだ。かといって彼が頑なな男かというとそんなことはなく、藤沢トモヤは自分の目がラブホで見たものをあっさりと容認するに至っていた。
だって、見えるんだから。見えるってことは、そこにいるってことだろう。見えないものは信じられないけど、見えたんだからしょうがない。藤沢トモヤは心の中でそう呟いていた。
2.
藤沢トモヤはラブホで見た女の幽霊について仲間たちに話してきかせた。至極、真面目に。ありのままを。が、彼を知る仲間たちはいともあっさりと、
「幽霊って!」
「コスプレ女が部屋間違ったんだろ?」
「つーか、トモヤ、3Pしてたんじゃねえの」
と、笑われるだけでお話にもならなかった。
「3Pした相手を忘れたりしねえよ」
藤沢トモヤは憮然として反論した。
「じゃあ、寝ぼけてたんだろ」
寝ぼけていた? そんなはずはない。意識ははっきりしていたし、むしろ、朝まで眠れなかったぐらいだ。藤沢トモヤは彼らに理解を求めるのを諦め、次のコンパの予定や、週末のイベント情報に話題をうつした。
夢じゃない。だいたい、幽霊自身がそう言ったじゃないか。ご丁寧に「ごめんなさい」などと言いながら。それより不可思議なのは幽霊が見えるのが「自分だけ」だということだ。これまで幽霊など見たこともないし、金縛りにだってあったことはない。なのに、なぜ突然自分に見えたのだろう。それにはなにか特別な条件があるんだろうか。
藤沢トモヤは週末の予定を決めながら、またあのラブホへ行けば幽霊が見えるのだろうかと素朴な疑問を感じていた。
その日、藤沢トモヤはバイトが終わってから、坂の途中にある小さなクラブへ出かけた。
階段をぐねぐねと地下へ下りて行くと、扉を開ける前から重低音の効いた音楽が漏れ聞こえていた。
内臓に響く音の洪水。薄暗さと人いきれと。藤沢トモヤは自分はいつでも正しい夜の過ごし方を実践していると思った。
アルコール、音楽、他愛もない会話。媚。踊ること、歌うこと、両手を広げること。着飾った女。甘い口付け。能動的なセックス。健全な肉体と健全な精神。
藤沢トモヤは機嫌よく酒を飲み、調子よくリズムに体をのせた。
「トモヤ、来てたのか」
「おー、ユキオ」
藤沢トモヤは自分にとって最も親しい友人である立花ユキオに片手をあげて応えた。
「聞いたぜー。お前、幽霊見たんだってな」
「そうそう、その話。誰も信じてくれねんだよ。でも、マジで。マジで見たから」
「どんな幽霊?」
「髪長くてー、着物でー」
「なあ」
「うん?」
藤沢トモヤは俄かに真面目な顔で友人を見返した。煙草の煙が視界を曇らせていた。
「怖くなかったの?」
「えっ」
至極当然な質問に藤沢トモヤは思わず言葉を詰まらせた。
「俺はそういうオカルト系だめだわ。しかも着物って。いかにもホラー映画っぽいじゃん。呪われそうだし」
「……呪い」
「なに? 身に覚えあり?」
人を呪うようなそんなおどろおどろしいものには見えなかった。ただぼんやりと佇んでいただけで、恐いというより驚きが勝っていたように思う。そもそも呪いというものがどういうものなのか分からない。とりあえず、まだ生きている。しかも健康。
「別に変わったことは何もないけど」
「そっか。なら、いいんだけどさ。もし、体の調子悪くなったりしたら医者よりお祓いとか行ったほうがいいぜ」
「お前、そういうの信じてんの?」
「信じるっつーかさ、世の中まだまだ科学の力で解明されない謎とかいっぱいあんじゃん」
藤沢トモヤは黙って腕を組み、壁に背中を預けた。これ以上幽霊のことを考えるのはよそうと思った。考えたところで相手は死んでいるのだし。そう思った途端、ふっと肩の力が抜けたような気がした。
所詮、彼にとって幽霊は見えはしたものの、目の前にいないから重大問題ではないということだ。とりあえず目の前にある音楽と酒と友達と、女。それだけが生きている「生身」の彼の重大事だった。
3.
その後、藤沢トモヤは本当に幽霊のことを忘れて暮していた。十日ばかりの間のことではあるが、彼の頭にはやはり目の前のことしかなかった。
蒸し暑い、風のない夜だった。空は厚い雲に覆われ、街灯りを映して赤く不穏な色に染まっていた。藤沢トモヤは女友達からの電話を受けて、食事に出かけた。
藤沢トモヤは幽霊の話を男友達にはしたけれど、女には決して漏らさなかった。それは女の恐怖心や警戒心を刺激しないためでもあったが、それよりはむしろ「女の前で他の女の話はしない方がいい」からだった。
女は密やかに嫉妬する生き物だ。表向きに露にするならまだ御しやすい。が、見えざるところで嫌悪感を持たれるとやっかいなことになる。ましてや相手が自分を憎からず思っていたらば他の女の話などもってのほか。褒めてもけなしてもいい結果を生み出さない。
つーか、ラブホで女の幽霊だなんて言えるわけないっつーの。ラブホじゃなければ、まだしも。だいたい、なんでラブホなんだよ。藤沢トモヤは焼鳥屋で旺盛な食欲を見せて、串から肉を引き抜きながら、心の中でそっと笑った。そういう時の彼は女の目からひどく性的に見える。唇の端に漂うような、微笑。その奥底に毒を、または薬を隠し持っているような妖しさ。本人はそんなことは無論知らない。
焼鳥屋は混んでいて、熾した炭の上で炙られる肉の煙がもうもうと立ち上り、脂の爆ぜる音が賑やかだった。沢山の話し声と笑いの中にいて、焼鳥は美味く、ビールは気持ちよく体に染み渡っていく。
それなのにどうしたことだろう。腹も満ち足りて、適度に酔ってきて、この女もまあ可愛いし、頭もいいから話しも面白い。なのにどうして夜をこんなに長く感じているんだろう。楽しくないわけじゃないのに、なぜ、今この瞬間も時計を盗み見ては残り時間を数えてしまうのか。藤沢トモヤは試みに腕時計を外すとジーンズのポケットにしまった。
そうして焼鳥屋を出て、馴染みの店で軽く飲んで、ごく自然に女を伴って例の場所へ向かった。
この時、藤沢トモヤにはいくらも選択肢はあった。わざわざこの前と同じ場所を選ぶ必要はなかった。なのに藤沢トモヤはあえてそこを選んだ。幽霊のいるラブホを。
この前使った部屋は塞がっていたので、別な部屋を選択した。違う部屋では見ることもないかもしれない。そう思うとなんだか残念な気がした。
藤沢トモヤは部屋を隅々まで見回した。スタンドの灯りが作る壁の影に目をこらし、天井のシミを睨んだ。が、幽霊は見当たらなかった。
藤沢トモヤは自分の行動がおかしくて、乱暴にシャツを脱いで部屋の隅の椅子へと投げた。
彼の体は滑らかな筋肉としっかりした骨で形成されていた。単純な欲望にのみ従って生きる男には余計なものはなにもない。藤沢トモヤの体は鍛え、使い込まれた職人の道具のようなものだった。
藤沢トモヤは自分の胸に押し当てられる女の乳房の丸みや柔らかさを感じながら、幽霊にも重みはあるんだろうかとふと考え、考えてしまった自分にまたしても笑った。
エアコンのリモコンを操作して室内の温度を下げる。藤沢トモヤは激しい運動により汗をかいていた。
その夜は事あるごとに幽霊のことを考えてしまったので、それがおかしくて、おかしい分だけ妙にテンションがあがり三回もセックスをした。
女は疲れたのかすぐに寝入ってしまったけれど、藤沢トモヤはシャワーを浴びて汗を流した。
セックスの前にシャワーを浴びるのはお互いへの配慮かもしれないが、本当に洗い流すべきはセックスの後だ。藤沢トモヤは激しく滴り落ちる湯を見つめながら、そういう意味ではまだ誰も自分を汚しもしなければ清めもしないと思った。ただ、女のすべてが排水溝に流れていくだけだった。時々それが虚しいような気がしたが、流れてしまえばその焦燥も綺麗に消え去ってしまった。
時刻は丑三つ時だった。藤沢トモヤはバスタオルを腰に巻きつけ、冷蔵庫からビールを取り出してぐいぐいと喉に流し込んだ。そして一息ついた途端はっとしてその場に立ち尽くした。
幽霊だ。藤沢トモヤは椅子に腰掛けている幽霊の姿をじっと見つめた。すると幽霊は、
「またお会いしましたね」
と、微かに微笑んで会釈をした。
「……本物……だよな?」
藤沢トモヤは眉間に皺を寄せながら尋ねた。我ながら妙な質問だと思った。幽霊もそう思ったのだろう、くすりと笑うと、
「ええ、本物。本物の幽霊です」
「……幽霊ってことは、成仏できてないってことか?」
「そうなりますね」
「この世に未練があるから?」
「ええ、まあ……」
藤沢トモヤはベッドの端に腰を下ろすと、そのままの動作で缶ビールを一息に飲み干した。
「で?」
藤沢トモヤは話しの続きを促した。幽霊は素直にそれに応じてすらすらと喋りだした。連れの女は熟睡していて起きる気配は微塵もなかった。
幽霊は今日も紅い着物を着ており、長い髪は艶やかに黒く光り、たっぷりした滑らかさで肩へ背中へと流れ落ちていた。
「いつ、なんで死んだの」
「女学生の時に。恥ずかしながら、心中で」
「へえ……」
「生きていれば、もう百は超えてるわ」
「……」
「申し遅れました。私、九条園子と申します」
馬鹿に丁寧に自己紹介され、バスタオルを巻いただけの格好だったが藤沢トモヤも一礼を返した。
「藤沢トモヤです」
「学生さんですか?」
「うん」
「お連れの方、この前と違いますね」
「……うん」
「あら、余計なことでしたね。ごめんなさい」
九条園子と名乗る幽霊はまたしても丁寧に詫びた。幽霊のくせに顔立ちは美しく、表情は健やかに澄んでいた。生きていれば百を超えているとは、どうりで古風なはずである。
藤沢トモヤは飲み干してしまったビールの缶を傍らの屑入れに放り込むと、二本目のビールを取りに立った。
「飲む?」
「いいえ、結構です」
これも幽霊は丁寧に断った。飲むかと尋ねたものの、幽霊が現物を飲めるのかどうか藤沢トモヤは首を傾げた。幽霊はきちんと椅子に腰掛けたままで、言った。
「私の姿が見えて、しかもお話しの出来る人に会うのは死んでから初めてです」
「へえ、そうなの」
「時々、気配に気付く方もいらっしゃいますけど……。トモヤさんには、今、はっきり私が見えてるんでしょうか」
「うん、見えてるよ」
「そうですか。これも何かのご縁かもしれませんね」
「……あのさ、聞いてもいいかな」
「なんでしょう」
「心中って、どうしてまたそんなことに」
「……」
幽霊は一瞬困ったような、傷ついたような顔で押し黙った。まずいことを聞いただろうか。藤沢トモヤは内心焦った。こんな場合でも、相手が幽霊だろうと女である以上傷つけることは本意ではなかった。
「言いたくなかったらいいよ」
「今の時代では考えにくいかもしれませんが、私が生きていた頃は恋愛は決して自由なものではなかったんです」
「……うん」
「相手の方、私より三つ年上で当時学生でした」
「学生同士の恋愛なら爽やかでいいんじゃないの」
「いえ、それが、身分が違ってましたのもので」
「へえ。ということは、あんたの身分が高かったの? 低かったの?」
「……」
幽霊はまたも押し黙った。藤沢トモヤは心の中で「やりにくいなあ」と呟いた。
「相手の方は普通の、ごく当たり前なお宅の方でした」
「で、あんたは?」
「父がお祖父さまから爵位を継いだばかりでした」
爵位! 藤沢トモヤは思わず叫んでしまいそうなところを危うく飲み込んだ。爵位とはますます時代がかった話しになってきた。
「察するに、あんたは華族のお嬢様で相手は一般人だったってことだな。なるほどね。……で、お宅はなに爵様だったわけ?」
「……父は伯爵でした」
「ははあ……」
藤沢トモヤは感嘆したような、呆れたようなため息を漏らした。すると、幽霊は俯きがちに膝の上に置いた手でもじもじと袂をひねくっており、その物言いたげな、不満げな様子に藤沢トモヤはおや? と思った。
「なに? どうかした?」
「……あのう」
幽霊は顔をあげなかった。ただ手の中で揉まれている着物の地質が風呂桶の中で水をかき回すようにゆらゆらと他愛もないものに見えた。
「私、あんたじゃなくて園子という名前があります」
「あ、ごめん」
「それに私の方がトモヤさんより年上だわ」
「ええ?」
藤沢トモヤは驚きのあまり頓狂な声を出した。
「そんなことないだろう。だって、あんた……じゃない、えーと、女学生ってことは17ぐらいなもんでしょ」
「でも、あなたが生まれるよりもっと前から私はいるんですもの」
「……いるけど、死んでるじゃん」
「それは、まあ、そうですけど」
言ってから、幽霊はしょんぼりと肩を落とし、それなり黙り込んでしまった。
「ごめん」
藤沢トモヤはすんなりと謝った。どちらも屁理屈だと思ったが、押し通すほどのこともない。死んでるとはいえ相手は女なのだ。女との議論ほど無駄なものはない。
「あんたの時代じゃあ、そうだよな。……っと、あんたって言ったら駄目なんだっけ。園子さん、か。無闇と呼び捨てにするもんじゃあないって言いたいんだろ。ましてや、伯爵令嬢だもんな。気が付きませんで、失礼いたしました」
「それ、嫌味なの?」
「そこまで根性悪くねえよ」
探るような上目遣いが藤沢トモヤの顔の上を彷徨った。かと思うと、あっと言う間もなく幽霊は椅子の上からすうっと音もなく消えてしまった。
藤沢トモヤは咄嗟に立ち上がり、部屋中を見回した。が、幽霊の姿はどこにもなかった。たった今の今まで目の前にいたというのにその痕跡は一切なく、夢でも見ていたかのような見事な消えっぷりだった。なんと幽霊らしい早業。
藤沢トモヤは「さすが幽霊」と素直に感心した。しかし、それからすぐに「なにも怒らなくてもいいんじゃねえの? 別に嫌味なんて言ってないのに。これも所謂ジェネレーションギャップ?」と一人ごちた。
それまで知らぬ顔で眠っていた女が薄ぼんやりと覚醒し「どうしたの?」と問うたけれど、藤沢トモヤは黙って女の横に潜り込み、生きていても死んでいてもなんと女は不可思議な、ややこしい生き物なんだろうと思った。
4.
後日、藤沢トモヤは図書館にいた。大学の試験は終わり図書館を利用する者もほとんど絶えて、図書館は本来の静けさに満たされていた。
藤沢トモヤが図書館に入り浸っているのは、奇異よりも天変地異の前触れを思わせ仲間たちを怯えさせた。
が、親友の立花ユキオだけは彼に理解を示していた。
「トモヤ、レポートでもやってんの?」
立花ユキオは藤沢トモヤが集めて机に積み上げた資料を手にとって、ためつすがめつした。藤沢トモヤは照れくさく、何か言われる前に先に口を開いた。
「この前、幽霊の話ししただろ」
「ああ、それで」
藤沢トモヤは笑いながら頷いた。心霊や死後の世界、精神医学。そういった書物を藤沢トモヤは読んでいた。正確には「読んで」いたというよりも「捲って」みただけにすぎず、飛ばし読み、斜め読み、なにか関連のありそうな事柄を拾い集めようとしていた。
けれど、それらすべては彼の望むものを何一つ書き表してはいなかった。なぜなら、どの書物もどの作者も実際に幽霊と会話して論じているのではないからだった。藤沢トモヤは生意気にも「説得力」という点において、今の自分の方がよほど一家言あるだろうと思った。それにいくら文献を漁ったところで、ラブホで自分にだけ見える女の幽霊と出会うなどという話しはどちらかといえばファンタジーの領分だった。
立花ユキオは「そんなに幽霊が気になるのか」と言って笑った。
「なるよ。つーか、見えなきゃ気にならないけど、見えたら無視できねえよ」
「ふうん、ゴキブリみたいだな」
「は?」
「いや、ほら、ゴキブリってさ、部屋ん中で一回見ちゃうと気になってしょうがないだろ。逃げて見えなくなっても、絶対退治しないと安心できないっていうか」
「……まあ、そうだけど」
「だろ? いくら見えなくてもどこかに潜んでると思ったら耐えらんねえよ」
藤沢トモヤは机に肘を突き、下を向いて笑いを噛み殺していた。ゴキブリと一緒にされたとあっては、伯爵令嬢はさぞお怒りになるだろう。
「トモヤ、土曜ヒマ?」
「ああ、別になんもないけど」
「じゃあ、海。海、行かねえ?」
「ああ、いいよ」
「また連絡すっから」
藤沢トモヤは図書館から出て行く立花ユキオを見送りながら、積み上げた本の中に大正・昭和初期あたりの歴史について扱ったものがあったことに気付かなかったのをひっそりと安堵した。
彼は親友だけれど幽霊について何もかもを話す気にはなれなかった。自分だけの秘密にしておきたいような子供じみた独占欲と、言葉にする端からすべて消え去ってしまような恐れが彼にそうさせた。
なんにしても藤沢トモヤが女のことでこんなに熱心になるのは初めてだったと言えるだろう。これで相手が生きていれば調べがいもあるのだけれど。藤沢トモヤはそう思い、なんとはなしに物悲しく窓の外に視線を移した。
空が青く澄み渡り、眩しい陽射しを煌かせている。ちょうど図書館の脇にあるノウゼンカズラが空から恩寵のように甘い色彩の花を降り注いでいる。
幽霊ってやっぱり夜しか出ないのだろうか。だとしたら夜になったら萎んでしまう花は見れないということか。それも惜しいだろうな。藤沢トモヤは幽霊に同情的になる自分を、やはりどうかしていると滑稽に思った。
5.
ラブホの幽霊とまた会う機会はすぐに訪れた。夏休みなのだ。藤沢トモヤは忙しかった。ひっきりなしに仲間に呼ばれ、女に呼ばれ、呼ばれた先にはひょいひょい出向き、出向けば地球温暖化に影響しそうなほどの馬鹿げたエネルギーを燃焼させた。
その放埓というか、奔放で無秩序な暮らしは夜を徹していて、おかげで藤沢トモヤは慢性的に寝不足になった。夜と朝の境目を見るたびに今日も一日やりとげたという的外れで妙ちきりんな満足感があった。
遊びまわっているおかげで日焼けし、肩の盛り上がった肉はつやつやと光り、黒砂糖のように香ばしかった。
とにかく藤沢トモヤは女を連れて、ラブホへ通った。時々、ホテルになど行かずとも藤沢トモヤの一人暮らしのゴミ箱みたいな部屋に来たがる女もいたけれど、彼は頑なにそれを拒否した。
藤沢トモヤは女好きだが、女を信用していない。彼にとって女とはあくまでも「敵」であり、心を委ねる類いのものではなかった。
その感覚は半ば本能で、女というものが母性を持った神秘的な、または神聖なものだと分かっていても、どうしても自分を委ねることはできないような気がしていた。
ともかく、彼が自分の部屋に女を入れない以上、ホテルを利用し幽霊と邂逅する機会は夏の間にいくらでもあったわけである。
藤沢トモヤはその日食べたモツ鍋のおかげで大蒜の匂いがしていたけれど、女も同じものを食べていたので気にすることはなくホテルへ出向き、無神経に唇を重ね、貪り、例によって出したり入れたりの摩擦運動に没頭していた。
が、丑三つ時。その匂いを嫌がったのは、幽霊だった。
幽霊は扉をするりと突き抜けてスクリーンに影を投影するかの如く現れ出でたが、藤沢トモヤを見るなり右手でさっと鼻を覆い、眉間に軽く皺を寄せた。
「そんな顔するなよ」
藤沢トモヤは笑いながら言った。
「ごめんなさい。でも、すごい匂い……」
幽霊も笑い返しながら、椅子に腰掛けた。
「まあ、ちょっと待って。歯磨いてくるから」
「おかまいなく」
そうか、幽霊でも匂いって分かるのか。藤沢トモヤはまたしても書物にない発見をした。
洗面所に行きビニール袋に収められた歯ブラシを取り出すと、練り歯磨きをチューブから絞り、がしがしと歯を磨いた。
「先日はごめんなさい」
「へ?」
藤沢トモヤは歯ブラシを咥えたまま振り向いた。幽霊は藤沢トモヤの背後に立って、しおらしく、俯き加減に続けた。鏡の中に幽霊は映っていなかった。
「私とあなたでは生きている時代が違うんだから、つまらないことで腹を立てたりしちゃいけないわね。失礼なことを言ってしまって、私、後悔していたの。ずっと謝ろうと思っていたんだけれど、言いそびれてしまって。ごめんなさい、許して下さいね」
藤沢トモヤは黙って洗面台に向き直ると、口をすすいだ。
「怒ってないよ。つーか、忘れてたわ」
「ああ、よかった……」
幽霊は心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。細い首と白い指だった。着物は袂の長い優美なものだったが、それにも耐えそうにないほど幽霊は華奢だった。
藤沢トモヤは微笑んでいる幽霊を見つめながら、自分よりも年上だと主張する彼女を「若いなあ……」と思った。
しかし、その若さは溌剌としたものではなく、未熟さゆえの「若さ」だった。言うなれば何か「足りない」という不完全な、欠落した要素を露にしていて、それが彼女の若さの象徴であり魅力でもあった。
藤沢トモヤはトランクス一枚の姿で偽物の大理石の洗面台に軽く腰掛け、乱れた髪をもさもさとかき回した。
「いつもなにしてんの? 幽霊友達とかいないの?」
「幽霊友達って変な言葉ね。そんなのいないわ」
「じゃあずっと一人なのか」
「ええ。だって、考えても御覧なさい。幽霊ってことは、例えば恨みを持って幽霊になった人や、自分が死んだことを知らない人や、うんと後悔があって成仏できない人たちでしょう? そういう人たちと楽しくお話ししたりできるかしら」
「……確かに、楽しくはないだろうな」
「でしょう?」
幽霊はそこまで話すと立っているのが面倒になったのか、蓋をした洋式便座にちょこんと腰掛けた。
「一人で普段はなにしてるの? どっか出かけたりとかすんの?」
「それが、自由にどこへでも行ける人もいるみたいですけど、私は気がついたらここにいて、ここから出ることはできないんです」
「へえ……。それはまた、なんで……」
幽霊は藤沢トモヤを見上げながら次のように説明した。
幽霊は死んでからずっとここに括られているわけではないらしく、勿論、彼女が死んだ当時にここにホテルがあったわけもなく、一体ホテルとの因果関係は本人にもさっぱり分からないのだが、気が付くとここにラブホが……幽霊の言葉で言うと「待合」……建ち、さらに気付くと幽霊としてここにいたのだということだった。
「私、自分が幽霊だってことは死んでからずっと知っていたんですけど、でもこんなにはっきり意思を持ってはいなかったし、考えたり話したりなんて絶対になくて……なんていうのかしら、単なる意識体とでも言うのかしら、ふわふわした頼りない霞みたいなものだったの。それが、ここが建って、色んな人達が出入りしているのを感じているうちに、気付いたらこんなになっていたの」
「でも、幽霊だって自覚はあったんだな」
「ええ、だって、死んでも死にきれないって感じだったんですもの」
幽霊は一瞬悲しそうに、せつなそうに微笑んだ。洗面所の明るい照明の下にいても幽霊は光りを恐れる様子はなく、避ける風でもなかった。
「心中でも死にきれないなんて思うもんなの?」
「その時は死ぬつもりだったからそんな事考えもしなかったんですけどね」
「……」
「相手の方が生き残っちゃって」
「あちゃー……」
思わず、言ってしまってから藤沢トモヤはぱっと口を押えた。
「ごめん」
幽霊はふふと小さく笑った。
「いえ、でも、本当にそうよね。一緒に死んで、あの世で結ばれましょうって言って、したのに、ねえ」
「……生き残った人は、その後は……?」
「さあ? どうしたんでしょうね。でも、きっとすごく責められただろうし、社会に顔を出せなくなったんじゃないかしら。新聞なんかにも出たと思うし」
「ふうん」
「気の毒なことをしました」
いや、あんたの方が気の毒だろう。藤沢トモヤはそう思ったが、言うのはよした。下手な同情は彼女を一層みじめに、孤独にするだけだと思ったのだ。
「でも、今はどの道もう死んでると思うわ」
「そうだな。……会いたい?」
「……どうかしら……」
幽霊はまた、ふふと小さく微笑んだ。その時、不意に洗面所の扉を叩く音がした。
「トモヤ? どうしたの?」
今夜の相手が起き出してきたらしかった。
「なんでもない。汗かいたから、もっかいシャワー浴びるわ」
藤沢トモヤは扉越しに大きな声で返した。そして、なんとなくバツが悪くて幽霊に向かって肩をすくめてみせ、わざとらしく洗面所から一続きになっている風呂場の扉を開けてシャワーのコックを捻った。
「また違う方なんですね」
「……不潔だとか思ってんの」
「いえ。そういう世の中になったんでしょう」
藤沢トモヤは次第に湯気をもうもうとあげるシャワーヘッドから、幽霊に視線をうつした。
意外な反応だと思った。呼び捨てにされることに気を悪くしたぐらいだから、自分のしていることなど言語道断と思っているものと思ったのに。まさか時代の移り変わりにそこまで理解を示そうとは考えもしなかった。
しかし、彼女が言うところの「そういう世の中」というのが、どんな世の中なのか、藤沢トモヤにはしかと把握できないような気がした。
「お湯、お使いにならないの?」
「……」
「ああ、私がいては脱げませんわね。失礼しますね」
幽霊はそう言い残すと、扉を再びするりと通り抜けて消えた。藤沢トモヤは呆気にとられたが、仕方ないので、方便のつもりが本当に裸になりシャワーを浴びた。
礼儀正しいけど、でも、絶対、俺がヤってるとこ見てるんだろうなあ。そう考えると藤沢トモヤはじっと手を見るかわりに、自分の股間をじっと見つめた。
6.
藤沢トモヤについて奇妙な噂が立ち始めたのはそれからすぐのことだった。夏はまだ盛りで陽射しは焼け付くように熱く、眩しかった。すでに海にも何度も出かけ、水着も見飽きていたし、具の入っていない焼きソバも缶ビールも、かき氷も充分だった。
元来、藤沢トモヤは夏が好きだった。いつだって夏は開放感と郷愁をつれてくる。毛穴から汗が噴出すたびに自由を感じる。
が、それが突如風向きを変え始めていた。そのことを知らせたのは、立花ユキオだった。
立花ユキオは汗をかきかき藤沢トモヤの部屋を訪れると、勝手知ったる様子で冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、喉を潤し「今、買ってきた」という持参のCDをかけた。
藤沢トモヤはぼんやりとそれを眺め、スピーカーから溢れ出す軽快なボサノヴァに耳を傾けた。寝起きの体が猛烈にだるかった。煙草に火をつけると深々と吸いつけ、長々と吐き出す。
藤沢トモヤは書物から得た知識を引き出す自分を滑稽に思った。幽霊との接触、例えば霊媒などはひどく生身の体を消耗させるというが、一体自分が感じている疲労はそのせいなのか、生身の女のせいなのか、単なる夏バテなのか一向に計りかねる。頭の片隅では呑気に「肉でも食わなきゃやってらんねえよ」と処方しているのだけれど。
「なあ、今日焼肉食いに行かねえ? なんか、俺、体力ないわ。肉、食わなくちゃさあ」
「食ってもすぐに消費してりゃ世話ねえよ」
「なんだ、それ。どういう意味だ?」
「お前、最近毎晩違う女ひっかけてんだって?」
立花ユキオはいとも容易く核心をざくりと突いた。親しさや気安さを別としても、若者はためらいも遠慮も知らない。それは彼らが言葉を多く持たないせいもあるけれど、それよりもっと以前にためらいのなんたるかを知らないが故だった。思ったことが端から口をついて出ることの、短絡的な幸福。立花ユキオはにやりと笑った。
「毎晩じゃねえよ。一日おきぐらい?」
藤沢トモヤはそれに対して馬鹿げた回答をして、同じように笑ってみせた。
「それはいいんだけどさあ」
「なに? ちゃんとゴム使ってるよ」
「そんな心配してねえよ」
「じゃあ、なんだよ」
「お前、もしかして心の病気?」
「はあ?」
不協和音を叩き出したような、頓狂な声で藤沢トモヤは叫んだ。
しかし、立花ユキオは真面目な表情を作り、藤沢トモヤを見つめていた。その視線はまるで瞳の中に正気を、または狂気を探り出すような眼差しで藤沢トモヤは内心むっとした。俺が心の病気なら、世界はみんな病んでるぜ。なに言ってやがるんだか。まったく。
「誰が病気だよ、誰が。俺はいつでも健全そのものだろ。そんなこと、お前が一番知ってるんじゃねえの?」
「そうだよ、俺が一番知ってるんだよ。でも、いくら俺でもお前が女とヤってるとこまでは知らねえよ。見たことねえもん」
「なに言ってんの? 気持ち悪いな。はっきり言えよ」
藤沢トモヤは焦れて、二本目の煙草に火をつけた。
「女の間で噂になってる。トモヤ、女と寝た後、ずっと独り言言ってるって。一人で喋ってて気持ち悪いって」
「ははははははははは」
「なに笑ってんだよ」
「いや、ごめんごめん。ははは。そうか、独り言か。ははは。なるほどなあ……」
思わず笑い出してしまった藤沢トモヤに立花ユキオは怪訝な顔をし、眉間に皺をよせて藤沢トモヤの手から吸いかけの煙草をとりあげた。
「なんだよ、なんか意味でもあんの?」
ユキオはフィルターを噛み締めるように煙草を咥え、すぱすぱと吸った。灰がかすかにこぼれて床の上で見えなくなった。
「いや、そういうんじゃないんだけど」
「お前が女食いまくってんのはみんな承知だし、女の方でも分かっててヤってんだろうからいいんだけど、心の病気とか頭おかしいなんて思われんのはムカつかねえ?」
「そうだな。ありがとう。気をつけるわ。や、実際、意味ないんだよ。別に。テレビ見て一人でツッコミいれるようなもんでさ。まさか聞かれてるとは思わなかったけど」
「なあ、トモヤ」
「ん?」
「それって、寂しいからじゃねえの?」
藤沢トモヤは意外な言葉を聞いてはっと目を見開いた。視線の先には麻のハンチングをかぶった立花ユキオ。寂しい? 俺が? まさか、そんな。
藤沢トモヤはわざと真面目な顔を作り、
「お前がいるから寂しくねえよ」
「気色悪いこと言うなよ」
二人はひとしきり笑った。笑った後に訪れた沈黙は、実は互いが自分の内部に空虚さを持っていることを暗示していたのだけれど、やはりここでも若さがそれを否定し、今一度二人で顔を見合わせて笑うよりほかなかった。
誰しも心に孤独を、または暗闇を持ち合わせている。が、若さはそれを認めない。自分達には輝かしい未来が、ほとばしる可能性だけがあるのだと信じたいから。彼らはいつだってマイナスを否定する。
彼らは自身の空虚を、虚無を恐れていた。自分達が「本当に」無価値であることを知るのを恐れていた。もし仮に藤沢トモヤが孤独を自覚していたなら、もう少しマシな女を抱いただろうし、せめて相手を特定し、永続的な、いや、少なくともそうだと信じられる愛を求めただろう。しかし現実は彼を本能のみによって動かす。
二人は交わした視線をゆっくりはずし、
「二人で焼肉食ってもしょうがねえよ。誰か呼べよ。ハットリとか」
「おぅ」
立花ユキオはさっそく携帯電話を取り出して、仲間に電話をかけた。
太陽に焼かれて蝉が狂ったように鳴き叫んでいる。風がそよとも吹かない窓の外を藤沢トモヤは地獄のようだと思った。懐かしくもあり、恐ろしくもある風景だった。
7.
藤沢トモヤは連日に渡って仲間と焼肉を食べ、部屋で麻雀をした。おかげで夜は女なしに過ぎていき、気がつけば夏は郷愁を伴って盛りを過ぎようとしていた。
その日は雨が降った。藤沢トモヤは初めてラブホに一人で入ることを思いついた。夏の雨は温く、心地よく降り注ぐ。しかし、蒸れた空気が重く体を取り囲み足を鈍らせる。それでも藤沢トモヤは迷わず、だらだらとゆるい坂を目的地へ向かって登った。
まさか止められはしないだろうと思ったし、万一止められたなら誰か呼べばいいのだと思った。
而して、藤沢トモヤはラブホに一人で入ることに成功した。止める者など誰もおらず、誰の目にも触れることなく部屋に入ることができた。
藤沢トモヤはベッドに腰を下ろすとしばし持参してきた本をめくった。それは図書館で借りた日本の華族について記述された本で、今の彼にとってはとても興味深い本だった。
本を読みふけってどのぐらいたっただろうか。突如ドアをノックする音が聞こえた。来た。迷わず藤沢トモヤは、思った。時計を見ると時刻は丑三つ時だった。
扉を叩く音はしたものの、実際に扉が開くことはなく、彼が「どうぞ」と言うとするりと扉の前に幽霊が現れた。そしてにっこり笑って「こんばんは」と挨拶をした。
「今日はお一人なんですね」
幽霊は実に自然な調子でそう言って室内を進んで来ると、小さな椅子に腰掛けた。
「ああ、まあね」
「日焼けしましたね」
「うん、今年はもう何回も海行ったからな」
「海水浴ですか、いいですね。私も夏はよく海へ行きましたのよ。うちの別荘が海の側で、それはもう居心地がよくって、夏は決まってそこで過ごしたものです」
「いや、俺はそんな優雅なもんじゃないんだけどな」
藤沢トモヤは読んでいた本をベッドのヘッドボードに投げ出し、煙草に火をつけた。
こうしてまるで生きている人間に会いに来るように幽霊に会いに来ているということが我ながら不思議だった。幽霊だから会いに来ているのか、女だから会いに来ているのか。どちらとも言いかねる。どちらでもあり、どちらでもない。
目の前で背筋を伸ばし座っている幽霊が、その微笑や透明感のある気配が、可憐な動きが現代を生きる彼の目に新鮮に映っているのも事実で、他のどんな女とも比べられないと思った。
「コーヒーいれようか」
藤沢トモヤは立ち上がり、備え付けの電気ポットのスイッチを入れた。
「インスタントだけど、いいよな」
「なんですか、インスタントって」
「えーと……即席ってこと」
カップは二客あり、藤沢トモヤはお湯が沸くとそこにインスタントコーヒーを作ってテーブルに置いてやった。幽霊は不思議そうな顔でカップを見つめていた。
……飲めるのか? 藤沢トモヤは緊張にも似た好奇心で幽霊の手をじっと見詰めていた。すると幽霊はためらうこともなく手を伸ばし、カップを持ち上げた。
瞬間、藤沢トモヤは「あっ」と小声で叫びそうになるのをかろうじてこらえ、無言で幽霊を見守った。幽霊はコーヒーカップを持ち上げて、少し睫毛を伏せて香りを嗅ぎ、静かに口をつけた。
「美味しいわ」
幽霊が一言、言った。
「よかった」
……飲めるんだ。世紀の発見だった。誰にも知られることのない、自分だけの。
藤沢トモヤは再びベッドに腰をおろし、自分もコーヒーを啜った。それは慣れ親しんだ薄っぺらな味で、闇雲に熱く、一口飲む度に胸の奥に染みていくようだった。
「その本、なんですか?」
幽霊はヘッドボードの本を指差した。
「……華族のこと調べようと思って図書館で借りたんだよ」
「華族のことを? どうして?」
「……どうしてって……。別に意味はない」
藤沢トモヤは黒光りするカップの中身に視線を落としたまま、片頬で笑った。
図書館の書物には明治維新後に爵位を賜った者などがつらつらと複雑な家系図となって記されていたが、九条伯爵を探すことは実に容易だった。あんまり簡単に見つかったのでそのあっけなさに笑ってしまうほどだった。
「そうそう、私、あなたに聞いてみたいことがあったんです」
「なに?」
幽霊はコーヒーカップを置くと、その大きな瞳をこちらにひたと向けた。
「こんなことを聞くのははしたないことなんですけど、私はもう死んでるわけですし、いいですよね」
「なにが聞きたいんだよ?」
幽霊はちょっと体を前に傾け、何かに憚るかの如く声を潜めた。
「先日のことなんですけども、この待合を利用した方がお金を払っていたんです」
「お金」
幽霊はこくりと頷き、さらに続けた。
「男性が、女性にお金を」
「ふん」
「いえ、私だってそこまで世間知らずじゃありませんから、そういう職業があるのは知ってます」
「ふんふん」
「でも、私が見たのはそういうのではなくて、女性の方、うんと若かったんですのよ」
「というと?」
「女学生でした」
「ははあ」
「お相手は年配の方」
「ほうほう」
藤沢トモヤはそこまで聞いて、笑い出したいのをこらえるのに必死だった。なるほど、どうやら幽霊が言っているのは援助交際のことらしかった。女学生というのは、女子高生。男はおおかたサラリーマンかなにかだろう。
……よくあることと言ってしまうには、なにかためらいがあった。そういう世の中になったのだとは、いくら相手が死んでいるとはいえ今を生きる者の恥をさらすようで、なんと説明すればいいのかも分からなかった。
売春は世界最古の職業だという話を聞いたことがある。遊郭だって歴史上において様々な分野の文化の発展、向上に貢献した。彼女が生きた時代なら尚のこと、貧しい農村から金で売られた娘もごまんといたはずだ。ならば中年男が女学生を買うことを説明するのは容易いはずだった。
しかし、藤沢トモヤは言いたくはなかった。少なくとも本当のことは言いたくなかった。生活に不自由しているわけでなし、普通に、いや、普通以上の水準で暮していけるだけの家庭にありながら体を売って金を得る年端もいかない少女。そのような行為に及ぶ理由を説明することができなかった。
それに、果たして幽霊に理解できるとも思えなかった。あいつら、ブランド物のバッグとか遊ぶ金が欲しくて体売ってんだなんて、いくら死んでるとはいえ、日本はもうおしまいなんだと宣言するみたいじゃねえか。五十年先、六十年先の世界がどうしようもないものになるのだと、それこそ教えることなどできるだろうか。否。
幽霊は真面目くさった顔で藤沢トモヤの回答を待っていた。
「あのさあ」
「はい」
「あんたの時代にもあったと思うんだけどさ……、その、なんていうか、政略結婚みたいな……。うんと年の離れた相手と、顔も知らない相手と見合い結婚っつーか……」
「ええ、私の両親もそうでした」
「それで、えーと……。だから、そういうことだよ。あんたが見たのは」
「でもお金は……」
「小遣いぐらい渡してもおかしくないだろ」
「……そうだったんですか……。今でもそんなことがあるんですね。でも、どうしてそれで待合を利用したりするんでしょう」
「忙しいんじゃないの?」
「世の中、ずいぶん変わったんですねえ」
幽霊はしみじみと深く感じ入ったように、ため息を漏らした。納得といった様子で頷きながら。彼女が動くたびにその周囲の空気が歪むような気がしたが、藤沢トモヤは「そうそう」と口先で言いながらすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
「俺も聞いていいかな」
「なんですか」
「死んだのは、どこで死んだの?」
「……別荘です」
「別荘?」
「さっきも言いましたでしょ? 海辺にあった別荘です。でも、真冬のことでしたけど」
「やっぱり薬かなんかで?」
「ええ、睡眠薬」
「……」
そこまで言って、不意に幽霊はすっと立ち上がった。着物の裾が微かに絹ずれの音を立てた。幽霊はゆっくりと部屋を歩き回りながら、歌うような調子で、
「それはもう大変だったんですのよ。まず、誰にも見つからないように別荘で落ち合うこと。それから、すぐに見つけ出されて連れ戻されないようにすること。それはもう念入りに準備したんですから」
「ふん」
「別荘で落ち合ってから一緒に薬を飲むわけなんですけど、死のうと思ったらそれはもうたくさん飲まなくてはいけないでしょう? それが大変で、大変で。お水もたくさん飲むもんだから、お腹はがぶがぶ」
「そりゃあ、そうだろうな」
「遺書も用意して、じゃあこれでって横になったんですけど、薬が効いて眠ってしまうまでが、これが案外時間がかかるんです」
「そうなの?」
「ええ。……といっても、どのぐらいの時間かははっきりわからないんですけど……。ただ、ひどく長く感じられたことは確かです」
「ふうん」
「覚えているのは、最後に、ああ、もう本当に眠くて駄目だって思った時に隣りの彼をちらっと見たんです。最後の力を振り絞って布団から手を出して、彼の手を握ろうとしたんですけど、できませんでした。もう薬が効いていたんでしょうね」
「布団は別だったわけか」
「ええ」
幽霊はぴたりと立ち止まった。藤沢トモヤはその姿から目をそらすことができなかった。彼女は憤慨しているような、泣き出しそうな複雑な表情をしており、いつになく藤沢トモヤを怖気づかせた。
彼はどんなに女が目の前で感情的になろうとも、泣こうが喚こうが、恐れることは一度もなかった。
うるさいと思ったり、うざいと思ったりするだけで誰の言葉も自分を突き動かしたりはしない。そのことを冷たいだとか無神経だとかなじられても気にもならなかった。だって、なんとも思わないのだから仕方ない。それよりもどうして女達が自分に対してそうも泣いたり怒鳴ったりするのか、その方が不思議だった。
電話してだの、優しくしろだの、自分だけを見てくれだの、他の女に会うなだの、愛してくれだのととにかく気持ちをぶつけてくる。私はあなたの一体なんなのかとか、あなたは私をどう思っているのかとか、どういうつもりなのかとか。言っていることは理解できたが、そんなにも感情を爆発させなければならない理由は分からなかった。
が、幽霊は違っていた。なにを考えているのかがさっぱり分からない。寂しいのか、つらいのか、恨んでいるのかも分からない。一聴すれば明朗で歌うような調子の言葉も、実は悲しみを内包していて理解者を求めているのかもしれなかった。そう深読みしはじめると、藤沢トモヤは怖気づいた。なにかとんでもない失敗を犯しそうで、気軽に言葉を発することはできなかった。
幽霊は黙って藤沢トモヤの前に立っていた。藤沢トモヤも黙って幽霊を見つめていた。静かな夜だった。例えようもなく静かで、染み入るような時間の流れ方をしていて、藤沢トモヤはこのまま永遠に続けばいいと初めて思った。
夜はいつでも恐ろしく長く、しかし、明けない夜はないと知っていたはいたけれど、どこか居心地が悪くて苦痛ばかりをもたらした。が、幽霊と向き合っていると時間は時間としてただ流れていく。なんの意味もないものとして。そのことが、藤沢トモヤに安堵感を与えていた。
「相手の人はどんな人だった?」
「……優しい人でした。頭がよくて、背が高くて。彼に憧れていた女の子もたくさんいました」
「ふうん」
「……」
「気になる?」
「えっ?」
藤沢トモヤは尋ねた。
「その人が、生き残ってからどうなったか」
「……気にならないと言えば嘘になるでしょう」
「だよな」
「だって、初めて愛した人なんですもの」
幽霊ははにかんだように微笑んだ。
愛した人。自分にはそう呼べる人がこれまでいただろうか。藤沢トモヤは我と我が身を振り返った。ゆっくりとベッドに体を倒し、天井を見つめた。換気扇の音が羽音のように低く唸っている。誰のことも嫌いじゃないけれど、それは好きだということとは違う。例えば挿入の瞬間だとか、射精の瞬間だとかに愛しさを感じることはあっても、そこで愛していると言えば全部が嘘になる。遠い言葉だ。とても手が届かないような言葉。目を閉じて深く息を吸い込んでみる。体と心がまるで一致していないのを今さらのように感じる。
「お疲れなんですか」
「いや、そうじゃないけど」
「もう、お休みになった方がいいわ」
右腕のあたりに人の気配を感じた。目を閉じているので分からなかったけれど、恐らく、そこに幽霊がいたのだろう。
「おやすみなさい」
かき消すように気配が消えた。藤沢トモヤはもう夜を長いとは思っていなかった。
8.
藤沢トモヤは小学生の頃、夏休みの宿題を一度たりとも完璧にやったことがなかった。夏の終わりになって友達のを写したり、朝顔の観察を捏造したり、工作もそこらへんにあるもので意味不明なハリボテのロボットを作ってみたり、日記はほぼ架空の、ともすればファンタジー小説みたいな仕上がりだった。それでもどうにか体裁を整えることだけはしていたのだから、その努力は今になって考えると涙ぐましいと思う。
大学生になった藤沢トモヤは九条園子の心中事件について調べていた。図書館に行き、ネットを駆使し徹底的に情報を洗い出した。そうしているとまるで自分が小学生に逆戻りして夏休みの宿題をやっているような気がした。
こんなに熱心に、真剣になったのはどのぐらいぶりだろう。受験の時だってここまでやりはしなかった。無論、初めて女の子とデートする時でも、だ。
それはまさに何かに「とりつかれた」ような状態だった。それは実際にそうだと言えたかもしれないのだが、藤沢トモヤ自身はそれを否定していた。
自分の意思だ。操られているわけじゃない。自分で考えて、自分でやってる。なんの為にかは分からないけれど。
そしてとうとう藤沢トモヤは九条園子の心中事件のほぼ全貌を知るに至った。そういう事件を研究する酔狂な学者もいるもので、著名人の心中だの恋愛沙汰だのを丹念に調べ、事件後の動向まで追いかけて本を書いている者も少なくなかった。その執念にも似た探究心は、彼らの職業がパパラッチじゃないのが惜しいほどだった。
九条園子の心中事件は当時世間を賑わせた相当なスキャンダルで、専門の研究家の著述を読むと詳しく書かれており、九条伯爵の愛娘園子嬢は明朗で容姿端麗で、社交界の華と言われるほどの美少女で将来彼女との結婚を望む者も多かったということを知ることができた。
ロマンチストな年頃の娘は親の持ってくる縁談を端から疑ってかかった。誰も自分のことを本当に知りはしないのに、なぜ自分を愛するなどと言えるのか、と。それは当時にしてはかなり革命的な、進歩的な発想だった。誰もが親の言いなりになって嫁いでいくし、自由恋愛の発想自体が大胆不敵でさえあったのにその中で九条園子の恋愛観は異色であり、異端だった。
そんな彼女が出会ったのが当時帝国大学の学生だった下村順三、その人だった。二人の出会いは伯爵家主宰の慈善音楽会。下村順三は伯爵家と懇意にしていた華族のうちの書生で、将来有望としてずいぶん目をかけられていた。そして、なによりも彼が注目されたのはその容姿。これは幽霊であるところの九条園子本人も言っていたが、人々の噂になるほど端正な顔立ちをしていたらしく、彼に焦がれる令嬢も多かったという。
二人は出会い、親しくなるにつれ、互いをよく知るようになる。九条園子は相手を知ってから自分の心に従って恋をするという、現代では至極当然の、しかし当時にしては衝撃的なまでの経験に自分の人生を賭けるに至った。二人はどんなに愛し合っても結ばれることはない間柄だったのだ。それを承知の上での恋愛だった。
心中に至る場面については本人談の通りで、海辺の別荘で決行され、二人の綿密な工作により発見が遅れ手当てするも虚しく九条園子は死亡。下村順三は奇跡的に生き残った。
伯爵令嬢の心中事件は世間を騒がせ、美貌の帝大生下村順三は退学。後に郷里へ帰った。罪の意識に苛まれながら。
それにしても。藤沢トモヤは本を伏せながら思った。どうして幽霊同士で再会できないのだろうか、と。そんな都合よくはいかないんだろうか。それとも成仏しているのか。だったら幽霊は気の毒だ。自分だけが死んで、死んで尚も自分一人が彷徨っているのだとしたら。つーか、あいつ、なんで成仏してないんだろう。藤沢トモヤは今さらのように不思議に思った。なにが未練なんだろうか、と。
下村順三は心中で生き残ってから郷里に戻ったというが、一体どんな気持ちだっただろうか。なぜ再び女の後を追わなかったのだろうか。胸の中にもやもやと疑問が渦を巻き始める。彼女が成仏できていないのは結局そこじゃないのだろうか。
藤沢トモヤは胸を押えた。これまで感じたことのない痛みのようなものがちりちりと熱を持って疼いていた。
本を読み終えた藤沢トモヤは、いてもたってもいられずラブホへ向かった。
まだ昼の月が空に白く浮かび、暑苦しい太陽がじりじりと焼けていたけれど、藤沢トモヤは一人でラブホへ入るとすぐにベッドに大の字になって、そのまま夜まで眠った。とにかく眠ることにした。真夜中、それも丑三つ時までは。
9.
肩を揺すられて目が覚めた藤沢トモヤは、その事実にはっとした。自分の肩を控えめに揺さぶったのは、幽霊その人だったからだった。幽霊はなぜか心配そうな顔で藤沢トモヤを見つめ下ろしていた。
「ああ、ごめん。熟睡だったわ」
「起こしてごめんなさい。でも、ちょっと寝苦しそうだったから」
「いや、そんなことはないけど……」
「うなされてました」
そうは言われても別段夢を見ていた覚えはない。覚えていないだけなのか、それとも潜在意識の中で悪夢が広がっているのだろうか。藤沢トモヤは体を起こすと、寝乱れた髪を乱暴にかきまわした。
幽霊はベッドの端に腰を下ろし、
「今日もお一人なんですね」
「ああ」
「また日焼けしましたね」
「まあね」
この女は何も知らない。藤沢トモヤはそう思うと、哀れに思う反面、女をずたずたに引き裂きたいような、ひどくサディスティックな衝動を覚えた。知らないということの純粋さをこの手で汚してしまいたいような、そんな欲望のかけらが胸に湧く。
「俺さ、旅行に行こうと思ってんだ」
「旅行? どちらへ?」
「……青森」
「えっ」
幽霊は声を詰まらせた。そして大きな瞳を見開いてまじまじと藤沢トモヤの顔へ視線を注いだ。藤沢トモヤはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「青森に行こうと思ってる」
「……そうですか、青森へ……」
「行ったことある?」
「いいえ」
生きていれば思い出を書き換えるチャンスがある。心中事件以降下村順三が辿った人生は、過去を描き損じたキャンバスに絵の具を重ねてしまうようにして作ったものなのだ。そう考えると幽霊にはもうそのチャンスはない。が、もしもこの瞬間さえも彼女にとっては同じ「時間」であるならば。チャンス。それこそ、チャンスではないだろうか。
藤沢トモヤはためらい、幽霊を見つめた。すると幽霊は、
「そうそう、また一つ聞きたいことがあるんですけどいいかしら」
と口を開いた。
「なに?」
「またこんな話しで恐縮なんですけど……」
「今度は女が男に金払ってたとか?」
「ここがどういう場所なのかは私も分かってます。その……目的というか」
「ふん」
「でも、最近よく見かけるんですけど、妙な服に着替えたりするんですのね」
「はあ」
藤沢トモヤはなんのことだか分からず、先を続けるように幽霊を目で促した。
「入ってくる時は普通の格好なんですけど、お部屋に入ると着替えるんです」
「……」
「それが白衣だったり、制服だったり、なにかよく分からないけど西洋風の衣装だったり……」
「ふんふん」
「それで、お芝居みたいなことを始めるの」
「ふんふん」
「でももっと変わったことがあるんです」
「というと?」
「色んな服を着る人がいるわけなんですけど、でも中に、時々、真っ黒な革の体にぴったりした衣装をつけて、仮面までつけて、相手に目隠しをしたりするんです」
「……それで?」
「そこからが凄いんです。女性が乗馬用の鞭を使って男の方を打ったりするんです。あれは一体どういうことなんでしょう」
「……あんたはどう思う?」
藤沢トモヤは笑いをかみ殺しながら、額に手を当てて俯き、自分の表情が幽霊に気取られないように顔をそむけた。
幽霊はしばし考えこみ、ふむと息をついた。
「素人芝居の稽古かなにか?」
藤沢トモヤは煙草を取り出した。
「難しく考えることはないさ。仮面舞踏会みたいなもんだ」
「今の社交界ではああいう衣装が流行ってるんですか?」
「う、まあ、一部の社交界では」
「時代って変わるものなんですねえ……」
コスプレも一つのコミュニティであり、集まる場もあるんだから社交界と言えなくはないだろう。藤沢トモヤは馬鹿馬鹿しいと思いつつ、真面目な顔で頷いた。
「では、黒い衣装は? 女王様とか、陛下って呼んだりしてましたけど。言葉使いも、なんだかとても奇妙で……。丁寧なんですけど、どこかおかしかったわ」
「女王様って言ってたんなら、そうなんだろ?」
「まさか」
「高貴な身分の人なんだよ。まあ、女王様は言いすぎだけど」
「でもお仕置きっていうのは?」
「だから、高貴な身分だって言っただろ。使用人に罰を与えることもあるだろ」
「それで打ったり、ひどい言葉を浴びせたりするんですね」
「そうそう」
「でも、どうしてここで?」
「自宅でやってて周囲に漏れたら困るから。体裁悪いだろ」
藤沢トモヤは説明をしながら、自分が一体このラブホで何度セックスしただろうかと考えていた。自分がやっている隣りで、階下で階上で、コスプレやらSMが展開しているとは。どうして今まで気付かなかったんだろう。考えもしなかった。世の中みんなノーマルそうな顔してるけど、当然のような顔でラブホにだって出入りしているけれど、本当は誰にも言えないことがあるのだ。
勘違いしていた。藤沢トモヤはふと思った。目に見えるものがすべてで、それだけで世界が成り立っているならば自分が生きている世界に自分以外の人間はいないことになる。なんて傲慢だったんだろう。見えるものがすべてで、それでオッケーだなんて。そんなはずない。世界は99%見えないもので出来ている。現に幽霊が見える以前と今とでは世界は大きく変わっている。見えるものと見えないものの狭間で。
それにしてもこの幽霊は人のセックスを、あられもない姿を、痴態の限りをよく見ている。やはり見るべきものがないから見るんだろうか。藤沢トモヤはふと思いついて、
「あのさあ、もし、いつも退屈なら本かなんか貸そうか?」
と申し出た。すると、幽霊は、
「退屈だなんて」
「だって、別にすることもないだろう」
「退屈っていうのは時間の観念があってこそ感じるものだと思うわ。もしあなたが退屈を感じたら、それはあくまでもあなたが時制の中に生きているからよ。私にはもう朝も昼も、夜もない。退屈なんて考えたこともなかったわ」
「そういうもんかな」
「死ぬってことはそこで時間が止まってしまうってことですもの。今、この瞬間は悠久の時を刻むだけの虚しいものよ」
幽霊はそれから少し黙りこんだ。彼女がなにを思っているのかは想像もつかなかった。
「俺、風呂入ってくるわ」
「ごゆっくり」
藤沢トモヤは沈黙から脱出するべく、バスルームへ行き、バスタブに勢いよく湯を貯め始めた。気まずかったわけではなかった。ただ、なんと言葉をかけていいのか分からなかった。なにか言えばそれだけでさらさらと崩れて灰になってしまいそうで怖かった。
藤沢トモヤはシャツを脱ぐと、湯がたまるまでの間、洗面台に手をついてぼんやりと歯を磨いた。こんな風に女に気を使うのは初めてだと思った。一瞬はめちゃくちゃにしてやりたくなったものの、あの横顔を見ていると逆に傷つけたくなくて、自分の一挙手一投足までが気になって仕方なかった。
口をすすぎ、バスタブにほとばしっていた湯を止め、藤沢トモヤはジーンズのジッパーに手をかけた。かけて、はっと閃き、部屋へ飛び出した。
もしやと思いベッドに腰掛けている幽霊を見ると、彼女ははらはらと涙をこぼしているところだった。
藤沢トモヤはその場に立ち尽くして、静かに一人で泣いている幽霊を見つめた。
「大丈夫か?」
幽霊は答えなかった。その涙はまるで睫毛の上に雨が降りかかっているかのように静かで、嗚咽を漏らすこともなく頬をつたって落ちていた。
「泣くなよ」
よく怪談なんかで女の幽霊がしくしく泣く場面があるけれど、そんな悲壮さはなかった。彼女はやはり、およそ幽霊らしからぬ幽霊だった。
藤沢トモヤは半裸のまま幽霊の泣いているベッドに歩み寄ると隣りに腰を下ろした。こんな時、男がすることと言えば一つしかない。藤沢トモヤはその当たり前すぎる方法を素直に実行することにした。
「泣くなってば」
ためらいがなかったというと嘘になる。しかしそれは幽霊が怖かったからではない。単純に幽霊の肩が抱けるかどうか分からなかったから、藤沢トモヤは迷ったのにすぎなかった。
結論からいうと、抱くことはできた。藤沢トモヤの腕は幽霊の肩を抱き寄せた。胸の辺りにその艶やかな黒髪が触れていた。これまでにない距離感だった。が、触れたものの、生身の女に触れるほどの手ごたえはなかった。それは不思議な感触だった。確かに触れているのだけれど心もとなく、雲をつかむような、霞に触れるような、ふわふわと柔らかく、存在そのものが軽くするりとすり抜けて行ってしまいそうで、そのくせ鈍い重みがじわじわと伝わってくる。ほんの少し力を強めてみたけれど、感触はわずかに重くなるだけでやはり夢のようであることに変わりはなかった。
腕の中で幽霊は声も立てずに泣いていたが、しばらくするとそっと指先で涙の玉をはらい顔を上げた。
「八甲田山に雪がかかる様子をご存知?」
「えっ?」
「それは壮大で、厳かで、美しいんですって」
「……」
「青森の冬は本当に厳しいけれど、何もかもが白く染まるのは天国のように綺麗だって。そして冬が厳しい分だけ夏は涼しくて空が美しくて、素晴らしいんだって」
「彼氏がそう言った?」
「……どうして知っているの」
言われた瞬間、自分の腕がぎくりと反応した。幽霊は泣き濡れた目で藤沢トモヤをしっかりと見つめていた。
「なぜあの人が青森出身だと知っているの?」
長い睫毛に縁取られた瞳は黒く澄んでいて、涙に洗われた分だけ純度の高い光りを放っているようだった。藤沢トモヤはそれに見惚れ、が、すぐに何か言おうとした。
夏休みだから旅行に行こうと思っただけなのだ、と。涼しいところがいいと思ったから、だから青森を選んだのだ、と。自分は何も知らない、と。
けれど、言葉は何一つ出てこなかった。それどころか幽霊の肩にかけた腕はおろか、指先ひとつ、爪先ひとつ、金属のようにがっちり固まってぴくりとも動かなくなっていた。
金縛りだ。そう思った途端、喉の奥が塞がれた様になり、言葉もさることながら呼吸までが苦しくなりはじめた。
「あの人に会うんですか
「……」
「生きているんですか」
幽霊は完璧に硬直した藤沢トモヤをよそに、ベッドからすっくと立ち上がった。そして彫像のように左腕を上げたままの形で固まっている藤沢トモヤを見下ろしながら、荒い息を吐いた。
一向に動けない藤沢トモヤの前で幽霊はみるみる青い炎のようなものを全身から立ちのぼらせ、長い髪があたかも意志を持っているかのようにわらわらと天井にそそり立ち始めた。
死ぬかもしれない。いや、正確には殺されるかも。もしも殺意を催すほどの怒りというものがあるならこれがそうであり、また、明確な殺意というものがあるならば今がそうだった。そのぐらい幽霊は怒りの気を放出していた。幽霊の、最も幽霊らしい形相だった。
ああ、俺は朝になったらこの部屋で変死体として発見されるんだ。そして警察がきて殺人事件の線で捜査するんだ。俺の体は解剖される。が、原因不明のまま終わるだろう。それもそのはずで、犯人は幽霊なのだから。
藤沢トモヤも人間だから死を恐れる気持ちはある。無論この若さで死ぬなんてごめんだ。しかし、目の前で化け物のように豹変した姿を見せる幽霊に金縛りにされながら、頭の隅で彼女に対する哀れみが浮かんでは消えていった。
仕方ない。ここで死んでもそれが寿命だったんだろう。ああ、でも最後にもう一回ぐらい女と寝ておけばよかった。
完璧な金縛りはどのぐらい続いていたのだろうか。決して長くはなかったはずだが、永遠のように感じられた。それでも藤沢トモヤはどうにか体を動かそうと皮膚の下でもがいていた。
腕が次第に重い水を掻くようにじわりじわりと動くようになった時、喘ぐように微かにではあるが声が出ることも分かった。藤沢トモヤはかすれた声で、言った。
「……下村順三は青森に帰って結婚したけど、でも、もう十年前に死んでる……」
言いたくなかった。そう、言いたくはなかったのだ。が、口をすべらせてしまった以上、もう嘘をつくことはできなかった。
幽霊は大きな目をさらに大きく見開き、ぶるぶると震えていた。ああ、なにか恐ろしい怪奇現象が起こるんだろうか。藤沢トモヤはいよいよ観念してもがくことをやめ、体の力を抜いた。
すると底なし沼に引きずり込まれるようだった体が、その抵抗感がもろとも消え去り、ぷかりと水に浮かぶような浮遊感を感じた。脱力感と言ってもよかったかもしれない。固まっていた腕がぱさりと体の脇へ落ちた。見ると、メデューサのようだった幽霊の髪が一束ずつ肩へと力なく落ちていくところだった。
かと思うと幽霊は握り締めていた拳を開いて、顔を覆って今度は声をあげて泣き始めた。
それは派手な泣き方だった。鼻水をすすり、嗚咽をもらし、しゃくりあげ、一心不乱な涙だった。
「泣くなよ」
藤沢トモヤはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「……しょうがないだろ? だって、お前は死んでるんだから」
「一緒に死ぬはずだったのよ!」
幽霊はヒステリックに叫んだ。藤沢トモヤはその剣幕におののいた。死んでいるのに、生身の女と変わらない生々しい叫びだった。
「それなのにっ……」
「じゃあ、後を追って自殺して欲しかったのか?」
「……」
「そんなこと考えるなよ」
「……」
「一人で死んだのは気の毒だけどさ……。生き残った方も辛かったんじゃねえの?」
「でも結婚なんて……」
そう言って幽霊はまたぼろぼろと涙をこぼした。それを見た藤沢トモヤは「ああ、そうか」とすんなりとすべてが理解できた。
彼女は下村順三が生き残った事よりも、生き残って他の誰かを愛したことが許せないのだ。呪いじみた恨みではなく、単純に女が男にする嫉妬なのだ。例え別れた相手でも、新しい人と一緒にいるところを見れば面白くはないのと同じで、死に別れたとはいえそれだって「別れ」であることには変わりはなく、幽霊にしてみればその別れた相手が結婚して子供まで作っていることに腹が立つのだろう。
「過程はどうあれ、結果的にあんたらの恋愛は終わったんだよ」
「……そうかしら……」
「え?」
「そもそも始まっていたのかどうかも分からないわ……」
「でも愛してたんだろ? そう言ったじゃん」
「心はね」
「どういう意味」
「私達は結ばれなかった」
幽霊は涙を拭うと、どうにか冷静さを取り戻すように深呼吸した。
「私、死んでみて分かったの。いえ、もしかしたら生きている時から知っていたかもしれないわ。精神的な恋愛は確かに清らかで純粋で、崇高かもしれない。でも、精神だけの恋は絵に描いた餅みたいなものだわ。触れることもできやしない。確かなものなんて何もない。だから何も生み出さず、何も残さない」
「でも、あんたの時代の価値観じゃあ……」
「ええ、あの頃はそんな事誰も考えなかったし、許されなかったけれど」
「……」
「この待合」
幽霊はぐるりと部屋を見回す仕草をしてみせた。つられて藤沢トモヤも部屋を見渡した。間接照明の殺風景な部屋。磨かれた床と大きなベッド。糊が利きすぎてばりばりするリネン。何百人もの人間が起こすピストン運動に耐えうる強靭なベッドのスプリング。テレビのアダルトチャンネル。馬鹿馬鹿しいほど広い浴室。見慣れたものばかりで、もう見ることもなかったような道具立ての一つ一つ。
「奇妙なこともあるけれど、大抵の人たちは愛し合っているわ。それは見れば分かることだわ。今の時代の恋愛も道徳も知らないけれど……私は彼らが羨ましい……」
「なんで最後の夜にやらなかったんだよ」
「身分が違うということに、あの人はずいぶん縛られていたと思うわ。思い切ることができなかったのね、きっと」
「言えばよかったのに」
「私の口から? それこそ、そんな事が言える時代じゃなかったのよ。私は純潔のまま死んでしまった。それは、結局私が本当に人を愛することを知らずに死んだのと同じことなんだわ。精神の恋愛なんて、茶番よ。本質的な愛は絶対に肉体を求めるもの」
藤沢トモヤはようやく自由になった体で立ち上がり、幽霊の前に立った。幽霊は俯き加減に小さく呟いた。
「私は死んでしまったから退屈は感じない。でも……寂しさは感じてる……ずっと感じてる。私の肉体はもう存在しない。もう誰を愛することもできないし、愛されることもない」
この瞬間、藤沢トモヤにとって目の前の女はただの女だった。幽霊だということは関係なかった。手を伸ばすと、軽いんだか重いんだかはっきりしない体をすいと抱きしめた。長い髪に指をからませると、まるで蜘蛛の糸に触れているような感触だった。確かに触れているのに目には見えないような、天空からもたらされる細い糸。
幽霊の頬は温かくもなければ冷たくもなかった。陶器のような滑らかさだけが掌に感じられ、両手で包み込むようにするとますますしっとりと馴染んでくるようだった。藤沢トモヤは再び思った。もしこれで死んだとしても、まあ、ほんと、仕方ないよな、と。
ためらいはなかった。恐怖もなかった。純粋に、心の奥底から沸いてくる衝動だった。でも性欲と呼ぶにはやけに柔らかく、せつなさを呼び起こすものがあった。これまでのどんな時とも違う波が身内から溢れてくるようだった。
藤沢トモヤはその波が心地よくてうねりに身を任せるようにして幽霊に口づけをした。幽霊も自然な動きで藤沢トモヤの唇に、舌に応えた。
長い口づけの後、藤沢トモヤは黙って幽霊の瞳を見つめた。幽霊もそれを見つめ返し、言葉を交わすよりも雄弁に自分の意志を伝え、細い手でしゅるしゅると自ら帯を解いた。帯の次に着物も脱いで床に落とすと緋色の襦袢があらわれた。
藤沢トモヤが腰紐に手をかけると、不意に幽霊の手がそれを軽く制するように触れた。幽霊は緊張のせいか固く体を強張らせ、なおかつ震えているようだった。
「怖い?」
「……あなたは怖くないの?」
童貞でもあるまいし怖いわけなど……。藤沢トモヤは苦笑いしながら、答えた。
「怖くないよ」
「幽霊なのに?」
「ああ、そういう意味か」
藤沢トモヤは幽霊を体の下に組み敷きながら、言った。
「生きてるか死んでるかの違いだけで、幽霊だって人間であることに変わりはないだろ」
心の恋愛と体の恋愛のどちらが高尚だとも、本物だとも思わない。どちらも恋であることに変わりはないだろうから。少なくとも当事者同士が恋だと思えるならそれでいいじゃないか。体を使えるのは確かに便利だし、より多くを感じることができるかもしれない。が、本当は体だって、幽霊が思うほど重要ではないのだ。所詮は処女の幻想なのだ。とはいえ、まあ、それを満たすのが男の役割なのかもしれない。
処女とのセックスは初めてだったが、幽霊とのセックスも当然初めてだった。だからといってひるむことはなかった。いつも通りのセックスだった。ただ一点だけいつもと大きく違っていたのは、藤沢トモヤが避妊しなかったことだった。
幽霊の時代ならコンドームなんて使わずセックスしただろうし、というより、あるわけもないだろうし、たぶん、膣内に射精しただろうと思った。もしも当時の下村順三ならそうしたのではないかと思った。だから藤沢トモヤはそうした。コンドームを使わずに幽霊の中で果てた。もしかしたら明日の朝になったら自分は冷たくなっているかもしれないなと思いながら。もし、そうなったら自分もラブホの自縛霊になるんだろうか、とも。
事を成し終えると、幽霊は言った。
「……死んでてよかった」
「え?」
「死んでなかったら、あなたには会えなかったでしょう?」
「普通は生きててよかったって言うだろう」
「生きてたらあなたには会ってないわ」
「そうだな……」
「……あの人は……」
「うん?」
「生きててよかったと思ったかしら」
「……さあな。幽霊同士、また会って話せないのか?」
「どうでしょうね。でも、終わったんでしょう。私達の恋は」
幽霊は、九条園子は、痛みのせいかそれとも感情が昂ぶるあまりか涙目になっており、藤沢トモヤはその瞼に口づけ、自分の人生に思いを馳せながら次第に訪れるゆるやかな睡魔に意識を奪われていった。
眠りに落ちる瞬間、最後に幽霊は「ありがとう」と囁いた。藤沢トモヤは眠気のあまりふんと鼻先で返事をした。幽霊は笑っているようだった。
処女だからってそんなに出血するわけでもないのだなあなどと呑気な感想がぼやけていく脳裏に浮かんで、消えた。どんなすごいセックスの後よりも満たされた気持ちだった。こんな気持ちは初めてだった。
10.
幽霊とセックスした翌朝、藤沢トモヤは一人で目が覚めた。死んでいなかった。ほっとしたような、がっかりしたような、なんともいえない気持ちになった。
藤沢トモヤは残り少ない夏を、再び本来あるべき姿に戻って過ごした。酒を飲み、麻雀をし、クラブへ行き、女を喰らう生活。
けれどラブホで幽霊を見かけることはもうなかった。夜通し待ったが幽霊は一向に現れなかった。そのことに少し傷ついたような気持ちになりもした。
藤沢トモヤは自分を過信しているわけではないのだけれど、幽霊はもう恨みも未練もなくなったのだと思った。
幽霊といえど濡れていた。痛みも感じていた。微量ながら出血も見た。それらは決して妄想ではない。
藤沢トモヤは図書館で借りていた九条園子に関する文献をぱらぱらとめくり、しばし眺めてから、ぱたりと投げ出した。
相変わらず散らかった部屋の薄汚れた窓から、いつの間にやら秋の気配を連れてきている空を見上げる。無論、彼は天国など信じてはいない。
藤沢トモヤは胃痛や胸焼けではない痛みに首を傾げ、それから、はたと気付いて苦く笑った。あ、そうか。恋が終わったんだ。と。
藤沢トモヤは挿入時に苦痛に歪んだ幽霊の眉間の皺を思い出し、最初から気持ちいいわけないんだから、あれでよくぞ成仏したなあとなんだか申し訳ない気持ちにさえなった。
もっと回数を重ねれば苦痛は和らいだだろう。そして彼らは恐らくより深みへはまったことだろう。恋とはそういうものだから。
藤沢トモヤはポケットから煙草を取り出すと、床に転がっていたどこぞの居酒屋のブックマッチを擦った。
藤沢トモヤは今年の彼岸に九条園子の墓参りに行くことを心に決めていた。
了
真夜中は純潔 三村小稲 @maki-novel
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