混浴してみた。

「しょうがねえよな、決まりだからよ」




 ぼくの前には1つ、薫の前には2つの砂糖玉が置かれた。はじめの前には何も置かれない。実に単純で、実にわかりやすい。


「ちゃんと味わって食べてよね」

「言われるまでもねえよ、それじゃいっただっきまーす!」


 薫は砂糖玉を口に放り込むまで少しきげんが悪そうな顔をしていた。ぼくとはせっかく正々堂々と勝負してその上勝てて嬉しかったのに、はじめのメチャクチャな戦い方に不愉快になってしまったのだろう。


 ぼくだって、あんな倒れ方をされるほど強いパンチを放った覚えがないのに勝手に倒れられたのは驚きだった。わざととしか思えない様な負け方をする必要がどこにあったのか。




 だがそんな小さな疑問は、砂糖玉を口に入れると同時にゆっくりととけ出し、いつの間にか消えていた。うまい物は人を幸福にするとかおじいさんが言っていた気がしたけど、本当にその通りだ。

 薫の顔もまたその言葉が正しい事を証明していた。


「それでこの後は」

「疲れただろう、この後はゆっくりお風呂にでも入ってもらおうかな」

「すんげーでけーんだろうなー」


 ぼくの家にお風呂が出来たのはぼくが2歳の頃であり、それまでは近所の商店街の銭湯に週3回程度通っていた。


 詳しい事は覚えていないけど、今ぼくが入っている家風呂よりずっと大きい事だけは覚えている。薫の言う通りにものすごく大きいお風呂、ぼくの知っている銭湯よりさらに大きなお風呂なんだろうと思うとますますワクワクする。


「そうだよ、本当は20人入っていても問題ないぐらいの場所だよ。毎年お出かけの度にあの大きなお風呂に入るんだけど、今年はたった3人かあ。まあいいけどね」


 20人、ぼくのいるクラスの3分の2ぐらいの人数がいっぺんに入る事が出来るような大きさのお風呂だとでも言うのか。そんな場所を3人で使うとなるとどれだけ広々としているのだろうか、想像するだけでわくわくする。


「それからね」

「なんだなんだ」

「実はここ、混浴なんだよ」




 伯父さんの口から出てきた混浴と言う言葉にはじめはぽかんと口を開け、薫は興味深そうな顔をしながらあごに手を当て、ぼくはふと始業式の事を思い出した。


 先生がぼくたち四年生の男子に、銭湯でお母さんと一緒に入れるのは9歳までであり10歳になったらできなくなるから今のうちにやっておけよと言うからかいめいた言葉を投げつけて来た。


 家の中ではどうだかとかんなことする訳ねーよとかいろいろ言い合っていたが、とりあえずぼくはこれから1つの物をなくすんだって事だけはわかったつもりだった。



「それで、一緒に風呂に入る女の人ってのはどんな人なんだよ」

「僕たちに正しいお風呂の入り方を教えてくれるんでしょう」

「まあとりあえずおいでよ」


 ぼくたち3人と、あと伯父さんだけで入浴するのであればそれは混浴ではない。混浴と言った以上ひとりは女の人が来るはずだ。いったいどんな女の人が来るのだろうか。


 ぼくたちが伯父さんに導かれて建物の中を歩いて行くと、真っ白な壁の中でものすごく目立っている木のドアがあった。どうやらこの向こうにあるのがお風呂らしいと思っていると、伯父さんがものすごく自然な手付きでその木のドアを横に引いた。





 薫はおおっと言う驚きの声を上げ、はじめはぼくの方へと目を向けた。そしてぼくは思わずあっと声を上げたまま動けなくなってしまった。



 さっき、ぼくたちがあのお菓子をめぐって殴り合いをしていた時に見たあの白いワンピースの女の子じゃないか。女の子は白い靴を脱いで下駄箱に入れ、そのまま女と言う字が書かれたのれんをくぐって行った。混浴の相手と言うのはあの女の子なのか、まるでこの時のためにいたようなあの女の子と一緒のお風呂に入ると言うのか。


「あの、どうしても入らなきゃダメなんですか」

「なんだよお前、嫌なのか。ああもしかして」



 そう言えばさっき、はじめは正しいお風呂の入り方とか言っていた。ぼくのお母さんぐらいの年齢の人がいろいろ教えてくれると考えていたのかもしれない。


 それがぼくたちとほぼ同じ年の女の子が出て来てびっくりしてしまったのか、目を向ける事もできなくなってしまっている。気の毒だとは思ったがなぜそこまであからさまに反応してしまったのかはわからない。もう10歳だからそんな事をしてはいけないとでも思っているのだろうか、ここは銭湯じゃないはずだ。


「いいじゃねえかよなあ、そうだろ?ほらお前もとっとと靴ぬいで」

「嫌だ!嫌だ!」

「勝手にしろよ、ったくお前は」


 薫がはじめの服をつかんで引きずり込もうとするが、はじめは廊下の柱にしがみついて離れようとしないで泣きわめくばかりだ。

 薫がうんざりだと言う顔をしながら手を離すと、はじめは本当にほっとしたような顔をしながらドアから離れて行った。



「ちゃんと汗を流しておいでね」



 伯父さんは泣きじゃくるはじめを胸で受け止めながら、ぼくたちに入浴を楽しむように言ってくれた。伯父さんは入らないのだろうか、まあ考えてみればこんな時間にお風呂に入る事自体ほとんどない事だ。

 だがそれもまた十分に新鮮な体験であり面白い話じゃないか、なんでそれをわざわざ嫌がるのだろうか。はじめが何を考えているのか、ぼくにはまるでわからない。







「うひょー」




 男と書かれたのれんをくぐった先には、そこだけでうちのお風呂の数倍はありそうな空間が広がっていた。明るく輝く木の棚には網目のかごが並んでいて、ぼくよりも大きな背丈の扇風機がデンとそびえている。


「さっそく入ろうぜ」


 薫はすぐそばのかごにかけられていたタオルを手にするやまったくためらう事なくかごにむけて洋服を上から下まで脱ぎ捨て、ぼくにお尻を向けながらお風呂場に飛び込んで行った。

 ぼくが適当なかごを選びTシャツを脱いでたたんでしまっていると何やってんだ早く来いよと大きな声を上げて来る。バラバラでくしゃくしゃになっている薫の靴下や半ズボンを横目に見ながらぼくはブリーフを脱いで、タオルを両手にぶら下げながら戸を開いた。


「お前隠すのかよ」


 ぼくにはおちんちんを隠すつもりもないし、隠しながらお風呂に入った事は今まで一度もなかった。


 だがその時はなぜか隠していた。小さなプールぐらいありそうなほどの大きさの湯船の真ん中に入っている薫は頭にタオルを乗せており、全く隠す様子はなく自分のおちんちんを堂々とさらけ出している。


「それともあれか、女の子と一緒だからやだってのか。お前の伯父さんも言ってただろ、ここはそういう場所なんだって」


 ぼくが右足からゆっくりと、いつもより少し熱いお湯に体をならしつつお湯に入ると、薫はこれだけ大きい湯船なのにわざわざそばに寄って来てそんな事を言って来た。


 女の子の前で見られたら恥ずかしいだろうとでも言いたいのか、まあ実際にお父さんやお母さんからもそう口をすっぱくして言い聞かされてきたが、お風呂である以上仕方がない。お母さんやお父さんだってすっぱだかでお風呂に入っている、見せびらかしても何も見せないわけにはいけない。







 それにしても湯気が多い。一応外に向かって付けられているガラスの窓からはきれいな緑がたくさん見えるが、風呂場の中はどうも見えにくい。すでに入っているだろうはずの女の子もどこにいるのかわからない。


 目を見開いて湯気の向こうを見ようとしてみるが、人がいるのかどうかさえわからない。すぐとなりの薫はじっと腕組みをしながら足を前に出している。ぼくみたいにキョロキョロする事もせずにじっと前を向いている。


「オレは上がって体洗うぞ、お前はゆっくり入ってろよ」


 薫が湯船から上がっていく。


 ぼくは薫に言われた通りもう少し湯船につかり続ける事にした。それにしても意外だったのは、こんなに大きな湯船を見ればもう少しはしゃいで泳ぎ回るとかすると思っていた薫が妙なぐらいおとなしかった事だ。ぼくがおちんちんを隠そうとしたのと同じ事なのかもしれない。


 やがてぼくは軽く息を吐いて湯船を出て適当な鏡の前に行き、鏡の隣に書かれている説明文の言う通りに赤いじゃぐちをひねってお湯を洗面器に出し、タオルに湯を含ませせっけんをこすりつけ身体を洗った。


「シャンプーが楽そうでいいよね」


 体じゅうを泡だらけにしていざシャワーをと思ったら、薫とは全く違う甲高い声が飛んで来た。今この場所にいるのはぼくと坊主頭の薫と、そしてもう1人。


 長い髪をたらした、ぼくと同じぐらいの背丈の女の子。後頭部しか見えないが、多分あの白いワンピースを着ていた女の子だろう。おさげだったはずだけど、髪を下ろすとああなるのだろうか。


 その女の子の目線の先には、見なれた薫の坊主頭があった。女の子の言う通りシャンプーなんかまったく使う必要のなさそうな頭だ。それでもんなことねえよと言いながら薫はシャンプーを手に取り、適当に頭で泡立てている。


 おっといけないシャンプーをするのを忘れたと思い泡まみれの手であわててシャンプーを手に取り頭に吹き付けようとすると、シャーと言う音が聞こえて来たのでそちらの方を向くと女の子が右手を上げて薫に向けてシャワーを浴びせている。ぼくもまた同じように見えにくい目でシャワーを手に取り、適当にじゃぐちをひねったが、適当にひねったせいで水の方を回してしまい少し冷たい目にあった。



 それでも泡を落としてさっぱりした気分になり改めて女の子の方を見てみたけど、頭と右手以外何も見えない。湯船から出ているのかシャワーから出ているのかわからない湯気が、女の子を隠していた。


 そのくせ薫は坊主頭から足の爪の先までよく見える。2人は向き合いながら体を洗い合ってたのだろうか。ぼくにだって同じことをやらせて欲しい、とは不思議なことに思えなかった。まあそうだよな、仕方がないよな。そんな気持ちばかりがいっぱいになった。そしてその事を悔しいとは思えなかった。





 ぼくが先ほど体を冷やしてしまったのでもう一度湯船につかっている間に、薫は風呂場を出て着替えを始めていた。


「お前はいちいちていねいだよな、そこがいい所なんだろうけど」


 でも予想通り、入る前に乱暴に服を脱いでいたせいか着替えに手間取ってしまい結局靴下まではいたのは後から上がったぼくとほぼ同時だった。ぼくたちが木戸を開けて浴場から出て来ると、伯父さんがはじめを従えて待っていた。


「お前さー、結局何がいやだったんだよ」

「わかんない」

「わかんないって、ったくこんなに面倒くさいやつめったにいないだろ」

「よくある事だよ」


 伯父さんはよくある事だと言ったが、「お出かけ」の度にこういう事をする子どもがいるのだと思うとかなり大変だなと思う。


 少なくともこの「お出かけ」の最中、ぼくや薫ははじめほど聞き分けの悪い子ではなかったつもりだ。それにしてもどうしてここまでと思わずにいられない。










「さて、家に帰るまでがお出かけだ」


 遠足のようなセリフを言いながら伯父さんはバスに乗り込む。



 どうやら「お出かけ」はこれで終わりらしい。



 ぼくたちがいた所はこんな大きな建物だったんだなあ、もっとたくさんいろんなとこを回って見たかったなあとか思いながら建物を眺めていたぼくの手を、薫は強く引っ張りながらバスへと連れ込んだ。


「お前な、見たかったんなら入る前にたっぷり見とけよ」


 向こうには未練はなさそうだ。それに伯父さんもすでにハンドルを握っている。少しもったいない気もするが、「お出かけ」が終わりである以上仕方がない。


「それじゃ出発するよ」



 バスは走り出した。ここに来るときは気がつかなかったが、バスの走る音はこれまでぼくが乗っていたバスや電車と比べてやけに静かだ。そのせいか少し眠い。


 薫はもっと眠いらしく、あくびをしながら窓にもたれかかっている。薫にお風呂場の事について聞きたかったけど、この様子じゃ無理だろうな。


「帰るまでがお出かけなんだろう、しっかりしろ」


 一方はじめはと言うと、ずいぶんと冴えた目をして薫の頭を突いている。まだ「お出かけ」は終わっていないと言いたいのだろう、先ほどまでお風呂に入りたくないとだだをこねていたとは思えない。



 景色が流れていく。来た時とはまったく逆の方向に流れ、逆の視野が広がる。


 やがて、さっきお葬式があった板石さんの家を通り過ぎていく。板石さんの家は、お葬式のために入った時とはちょっと違う感じの家になっていた。少しだけさびしそうな感じで、まるで今すぐ消えてなくなってしまいそうだった。


 こんな大きな家がすぐなくなる訳がないとわかっているのに、なぜかそう思えて来た。家がなくなるのにはどれだけの時間がかかるんだろうか。家の主が死んじゃったらなくなるんだろうか、それとも家に使われている物が全部だめになったらなくなっちゃうんだろうか。




 ぼくがそんな事を考えている間にあの大きな家はすっかり見えなくなり、そして緑は徐々に減り始めた。それで気が付くと、ぼくたちのよく知っている町の中にバスは戻っていた。自動車が横に並んで走っている、いつもの町である。


「もうまもなくだね」


 ぼくは伯父さんのその言葉を聞きながら目をこすり、薫は口からたらしていたよだれを右手で拭いながら首を上げ、はじめはやれやれと言いたそうな顔をしながらため息を吐いた。


 いつも学校に通っている時の1日分ぐらいの時間の体験のはずなのに、もっと長い時間過ごしていたみたいに思えてくる。そうでもなけりゃ、こんな見なれたはずの町の風景がなつかしく思えるはずはない。


「着いたよ」


 やがてバスは、午前にぼくたちを乗せた所まで戻って来た。ドアが開いた。ぼくたちが下りるとバスは、伯父さんのさようならと言う言葉と共に走り去って行った。










「いやー、本当今日は楽しかったな!」

「そう……」


 楽しかった。そう、確かに楽しい思い出だった。



 でもどう楽しかったのか、なぜかいまひとつ思い出せない。でも確かに楽しかったし、もしぼくに弟や子どもが出来たら同じことをさせてあげたいのだと思ったんだけど、具体的にどう楽しいのかは思い出せない。




「何かあったの」




 ぼくが家に帰り、必死に今日の事を思い出し書き記しておこうとしてノートを広げ鉛筆を持って机に向き合っていると、お母さんが心配そうに声をかけて来た。

 



 ぼくがありのままの気持ちを話すとお父さんもそうだったと言う。


 言われてみればあんなに「お出かけ」に行け行けと言われていたのにその内容についてはひとことも聞いた事がなかった、覚えていれば話してくれたはずだ。



「楽しかったんでしょ?それで十分じゃない。他に何か欲しい事あるの?」



 ぼくは顔を赤くしながら、お母さんにひとつのお願いをした。














「たまにはいいわよね、でも外で言っちゃダメよ」


 はずかしい事だとは思っているけど、なんとなくわがままを言っちゃった。小学校四年生にもなってとかしかられるかと思ったけど、母さんは笑って認めてくれた。


 なぜだかわからないけど、見たくて仕方がなかった。赤ん坊の時はお乳を吸って来たし、二年生の時までは一緒に入っていた。見なれているはずだったのに、また見たくなってしまった。


「別につらい事があった訳じゃないんでしょ。でもたまにはこういう時があってもいいんじゃないかって気持ち、お母さんわかるわよ」


 お母さんのおっぱいは大きくふくらんでいた。肌は白くてもちみたいで、そして足と足の間におちんちんと違う物があった。見てはいけない物だとはわかっているけど、どうしても見てしまいたくなる。


「あらっ!」


 ああしまったと思ってあわててお母さんの方に顔を向けると、お母さんはぼくのおちんちんを右手の人差し指で差した。怒っている訳じゃなさそうだと安心すると、お母さんはぼくのおちんちんの根本をつかんだ。




 毛だ。頭にあるのと同じ物がここにもあった。昨日まではなかったはずなのに。







「そうね、いよいよ大人への第一歩を踏み出したのね」


 大人になると言うのはこういう事なのだろうか。「お出かけ」をした夜に出て来た1本の小さな毛。これが大人だと言うのか。そう言えばぼくのおちんちんがある所には、お母さんはたくさんの毛を生やしていた。


「お母さんから離れる日が一歩近づいたって事なのね。と言う訳でいっしょにお風呂に入るのは今日で本当に最後だから、今日は頭も体も全部洗ってあげるから。ああ、お父さんにもこの事教えてあげなきゃ」


 お母さんははしゃぎながらぼくの体と頭を洗ってくれた。自分でやる時よりずっとていねいに洗ってくれる、きれいになった気がする。


 お風呂から出て来たぼくの1本の毛を確認したお父さんもまた、お母さんと同じようにはしゃいだ。立派な男への第一歩だそうだ、そうお父さんに言われると少しだけ成長した気分になれる。




 明日、朝ご飯を食べたらすぐ薫に会いに行こう、そして聞いてみよう。おそらくはぼくと同じ答えをするだろう。明日が待ち遠しくなってくる。こういう関係を続けられるといいなと思いながら空を見ていると、夏なのに夕日が妙に早く沈んだ。

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